美樹の表象

Mondyon Nohant 紋屋ノアン

 

 葬送そうそうの祈りの間、哲夫は美樹の遺影を見続けていた。美樹と暮らした三十年の間に撮った家族写真は少なくとも百枚はあったはずだが、美樹の顔が写った写真は家のどこを探しても一枚も無かった。写真の代わりに式場に飾ったのは十号 *1のアクリル画だった。「エメラルドグリーン」と題されたその絵は、軽やかに踊るような動勢ムーブマンをもち葬儀の場には相応ふさわしくないと思われるほどにモデルの若さと命の輝きを示していた。しかし司式者ししきしゃは、「永遠のいのち」という言葉を引き、教義にはかなっていると言ってその掲示を許した。

 ひとり息子の栄一は現在、若干じゃっかん二十八歳にして美大の准教授をつとめる売れっ子の画家だが、この絵は彼が画業に契機けいきとなった作品だった。十五歳のときに県展に出品し全審査員の絶賛を得て入選している。

 エメラルドの板を彫刻したレリーフのようだと、県展の審査員は評した。

 輪郭も陰影も翠緑一色そうりょくいっしょくで描かれている。絵を観る者の多くはそう感じるかもしれない。しかし、よく見ると、この絵の基調を成すみどりは様々な色彩を隠し味のように用い巧みに造られた色だと気づく。例えば、髪の色だ。踊っているのか或いは渦巻く風に身を任せているのか美樹の髪はたおやかに揺らいでいる。揺らぎの動勢を与えているのは翠緑の残像だ。ただ栄一は、その残像に濃緑青色ビリジアンを使っていない。美樹の髪は生来せいらい栗色マルーンだった。栄一は栗色を点描てんびょうし、風に舞う髪の残像をみどり色に見せている。

 絵の美樹は聖母のようなやわらかいまなざしで微笑んでいる。同じ微笑みを最後に見たのは昨日だった。

 哲夫の勤め先にあるチャペルでの主日礼拝しゅじつれいはい*2の帰りだった。美樹は突然、哲夫に身を寄せ、両腕を彼の首に回すと唇を哲夫の顔に寄せた。

「おい、人が見てるぜ」

 美樹は哲夫の言葉を無視し、やさしく微笑ほほえむと

「いままでありがとう」

 そうささやき、次に栄一に顔を向け、「君もね」と言って、静かに目を閉じた。

 救急車の車中で心肺停止。救命士は蘇生そせいを試みたがかなわず、病院で死亡が確認された。死因は不明だった。

「幸せそうなお顔ですね」 

「そうだね、とても幸せそうだ」

 美樹の臨終りんじゅうげた後、看護師と医師はそう失言し、娘を亡くした父親を前にして不謹慎ふきんしんだったと哲夫にびた。

「妻なんです」

 哲夫はわずかな笑みを浮かべて言った。

「奥様? 失礼しました」

 看護師と医師はカルテで美樹の年齢を確認し、再度詫びた。

 美樹を娘と呼ばれることには慣れている。美樹は二十代前半にしか見えなかった。息子の栄一と並んで歩いていても彼の妹と間違えられることが度々たびたびあった。ただ、哲夫も栄一も、美樹の若さを不思議とは思わなかった。

 美樹とのめをよく人にかれる。哲夫は答えられない。憶えていないのだ。三十年前、この町の何処かで知り合い、初めて合ったその日から一緒に暮らし始めた。それだけの記憶しかない。入籍に手間取てまどったことだけははっきりと憶えている。哲夫と知り合う前の記憶が彼女にはなかったからだ。記憶喪失と医師は診断した。身元不明者の照会や就籍しゅうせきの手続きには二年もかかったが、美樹の過去はわからずじまいだった。ミキという自分の名を彼女は憶えていたが新しい戸籍を作る際、名前に「美樹」という漢字をあてたのは哲夫だった。何故その漢字をあてたのかも哲夫は覚えていない。二十二歳という戸籍上の年齢は医師が推定した。

 哲夫も生みの親を知らない。この町から遠く離れた養護施設で育った。高校を卒業して直ぐ、この町にある電気機器メーカの工場に就職した。通信制の大学で図書館司書の資格を取り、二十五歳の時、ミッション系の大学がこの町に造ったキャンパス内の図書館に司書として採用された。哲夫が育った養護施設は大学と同じ教派の宗教法人が経営していた。哲夫を大学に推薦したのは養護施設のチャプレン長だった。

 美樹と暮らし始めたのは大学に就職した直ぐ後だった。

 記憶が戻ったら美樹を失うのではないか。その不安はまったくなかった。

「あなた以外の人に恋したことは一度もないわ」

 美樹が断言したからだ。


 市内に荼毘所だびしょは無い。美樹のひつぎを載せた霊柩車を追って隣市りんしの火葬場に向かう道中、哲夫は車窓の外に目をっていた。

 五月の町は緑にあふれていた。新緑とひとみに言うけれど、深いみどり、浅いみどり、鮮やかなみどり、くすんだみどり、無数のみどりが町に溢れ、季節をつくっている。美樹の表象に栄一が選んだみどりはどのみどりだろう。哲夫は、この町に住み始めた最初の日を思い出した。                                                                                                                                                                                                                          

 やはり五月だった。窓を開けると樹々きぎの匂いがした。哲夫は社員寮の玄関を出、風に向かって歩いた。樹々の匂いが自分をいざなう先は、きっとあの寺だろう。市の中心部にって広大な面積を占める禅寺ぜんでらだ。美しい境内林けいだいりんで知られたこの古刹こさつを一度訪れたいとは思っていたが、敬虔けいけんなクリスチャンだった哲夫には異教の寺院を訪れることにわずかな躊躇とまどいがあった。これから住む土地を探検するだけだと、哲夫は自分を納得させた。

 総門そうもん脇の通用門を抜けた哲夫は、山門の前で左に折れ西に向かって足を進めた。アカマツの林を右に見ながら歩く。

 一瞬、林が風にざわつききらめいた。哲夫は何かを見て、狂おしいほどのしたわしさを感じた。自分は今、恋に落ちた。そう思った。ただ、何に恋したのか、あるいは誰に恋したのか哲夫は覚えていない。もしかしたら木漏こもれ日のきらめきと翠緑そうりょくの風が造形したほとけの姿だったかもしれない。哲夫は心の中で十字をきった。


 讃美歌に共鳴し、荼毘所館内の空気が揺らいだ。

 教会に集まった人たちは、全員野辺送りにも来てくれた。養護施設でともに育った哲夫の仲間も職場の同僚も美樹の友人たちも、参列者のほとんどがクリスチャンだったので、教会で渡された式文しきぶんを見ながら讃美歌を歌っていたのは栄一が勤める美大の関係者だけだった。

「控室でお待ちください」

 撒水さっすい撒香さんこう、祈りと聖句交唱が終わると、係員は参列者を控室にいざなった。

「僕はここに残る。父さんはここまで来てくれた人たちの話し相手をしてくれよ」

 美樹の臨終が告げられた病室でも、通夜の祈りの間も葬送式の時も、栄一は泣いていない。独りで泣きたいのかもしれない。哲夫は栄一を火葬炉の前に残し参列者たちと控え室に向かった。

「哲夫兄さん、ごめんね。楽しい思い出が沢山あったはずなんだけど、僕は美樹姉さんの笑顔しか思い出せない」

「私も、姉さんの笑顔しか思い出せないわ。マリア様のようなやさしい笑顔」

 養護施設の後輩たちは哲夫を兄さんと呼んでいた。

 控室の人々はみな小さく首を傾げ記憶を探っていた。故人とのエピソードを思い出そうとするのだが、哲夫の後輩と同様、美樹の笑顔以外何一つ頭に浮かんでこないのだ。

「美樹さんは本当に亡くなったんだろうか」

 一人がつぶやくと、一同は小さくうなずいた。

 控室の三十分が静かに過ぎた。

「どうぞ、お骨上げにおいでください」

 係員がむかえにきた。

「ずいぶん早かったですね」

「それが」

 係員は、この地域ではたまにあることなのだと前置きし、

「ご遺骨が残っていないのです」

 と、静かに言った。

 炉に向かう途中、一瞬、風を感じ、哲夫はロビーの外に目をった。駐車場の向こうに広がる林の木々が旋風つむじかぜを受けてざわつき、翠緑の光の砕片さいへんを空中にまき散らした。 

 この町に着いたその日に異教の寺院で出会い恋心を抱いた相手の姿を、哲夫は今、はっきりと思い出した。

 それは、一本の美しい木だった。その木はエメラルドのような輝きを身にまとい、アカマツの林の中でたおやかに立っていた。

「美樹、俺が恋した相手も君だけだ」

 哲夫はそうつぶやき、視線を館内に戻した。


 係員が言った通り、収骨皿の上にはわずかな遺灰しかなかった。

「母さんは木のさとに帰ったんだね」

 栄一が言うと、武蔵野は沈黙した。                (了)



*1 Paysage十号:絵のサイズ。横530×縦410ミリ

*2 主日礼拝:日曜礼拝

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