美樹の表象
Mondyon Nohant 紋屋ノアン
ひとり息子の栄一は現在、
エメラルドの板を彫刻したレリーフのようだと、県展の審査員は評した。
輪郭も陰影も
絵の美樹は聖母のようなやわらかいまなざしで微笑んでいる。同じ微笑みを最後に見たのは昨日だった。
哲夫の勤め先にあるチャペルでの
「おい、人が見てるぜ」
美樹は哲夫の言葉を無視し、やさしく
「いままでありがとう」
そうささやき、次に栄一に顔を向け、「君もね」と言って、静かに目を閉じた。
救急車の車中で心肺停止。救命士は
「幸せそうなお顔ですね」
「そうだね、とても幸せそうだ」
美樹の
「妻なんです」
哲夫はわずかな笑みを浮かべて言った。
「奥様? 失礼しました」
看護師と医師はカルテで美樹の年齢を確認し、再度詫びた。
美樹を娘と呼ばれることには慣れている。美樹は二十代前半にしか見えなかった。息子の栄一と並んで歩いていても彼の妹と間違えられることが
美樹との
哲夫も生みの親を知らない。この町から遠く離れた養護施設で育った。高校を卒業して直ぐ、この町にある電気機器メーカの工場に就職した。通信制の大学で図書館司書の資格を取り、二十五歳の時、ミッション系の大学がこの町に造ったキャンパス内の図書館に司書として採用された。哲夫が育った養護施設は大学と同じ教派の宗教法人が経営していた。哲夫を大学に推薦したのは養護施設のチャプレン長だった。
美樹と暮らし始めたのは大学に就職した直ぐ後だった。
記憶が戻ったら美樹を失うのではないか。その不安はまったくなかった。
「あなた以外の人に恋したことは一度もないわ」
美樹が断言したからだ。
市内に
五月の町は緑に
やはり五月だった。窓を開けると
一瞬、林が風にざわつき
讃美歌に共鳴し、荼毘所館内の空気が揺らいだ。
教会に集まった人たちは、全員野辺送りにも来てくれた。養護施設でともに育った哲夫の仲間も職場の同僚も美樹の友人たちも、参列者のほとんどがクリスチャンだったので、教会で渡された
「控室でお待ちください」
「僕はここに残る。父さんはここまで来てくれた人たちの話し相手をしてくれよ」
美樹の臨終が告げられた病室でも、通夜の祈りの間も葬送式の時も、栄一は泣いていない。独りで泣きたいのかもしれない。哲夫は栄一を火葬炉の前に残し参列者たちと控え室に向かった。
「哲夫兄さん、ごめんね。楽しい思い出が沢山あったはずなんだけど、僕は美樹姉さんの笑顔しか思い出せない」
「私も、姉さんの笑顔しか思い出せないわ。マリア様のようなやさしい笑顔」
養護施設の後輩たちは哲夫を兄さんと呼んでいた。
控室の人々はみな小さく首を傾げ記憶を探っていた。故人とのエピソードを思い出そうとするのだが、哲夫の後輩と同様、美樹の笑顔以外何一つ頭に浮かんでこないのだ。
「美樹さんは本当に亡くなったんだろうか」
一人がつぶやくと、一同は小さく
控室の三十分が静かに過ぎた。
「どうぞ、お骨上げにおいでください」
係員がむかえにきた。
「ずいぶん早かったですね」
「それが」
係員は、この地域ではたまにあることなのだと前置きし、
「ご遺骨が残っていないのです」
と、静かに言った。
炉に向かう途中、一瞬、風を感じ、哲夫はロビーの外に目を
この町に着いたその日に異教の寺院で出会い恋心を抱いた相手の姿を、哲夫は今、はっきりと思い出した。
それは、一本の美しい木だった。その木はエメラルドのような輝きを身に
「美樹、俺が恋した相手も君だけだ」
哲夫はそう
係員が言った通り、収骨皿の上にはわずかな遺灰しかなかった。
「母さんは木の
栄一が言うと、武蔵野は沈黙した。 (了)
*1 Paysage十号:絵のサイズ。横530×縦410ミリ
*2 主日礼拝:日曜礼拝
美樹の表象 Mondyon Nohant 紋屋ノアン @mtake
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