第2話

 しばらく男性と見つめ合っていたが、事の次第を理解した康は、首まで赤くして男性の腕の中から逃れた。

「あのっ、大丈夫ですか」

「うん、大丈夫だよ」

 男性は立ち上がってスーツに付いた埃などを手で払って、温かく微笑む。その安心しきった顔。自殺しようとした人を救ったのだ。そういう表情になっても疑問にならない。

「ていうか、新横浜で別れたはずですよね」

 別れたはずの人が目の前にいて、また状況が掴めなくなる。

「新幹線で会ったとき、すごく追い詰めた顔してたから不安になって追いかけてきた」

「追いかけてって・・・」

「本当は東京で降りるつもりだったけど。きみのことが心配で」

 こんな見ず知らずの人間の命のために、ここまでしてくれるなんて。くすぐったいやら恥ずかしいやらで、どう返せばいいのか分からなかった。自殺しようとした自分が、ばからしくも思えてきた。

「てことは、お仕事のほうも・・・?」

「会社には申し訳ないけど、全て断ってきた。仕事よりも、命のほうが大事だから」

 どういう展開だと固まる康に、

「寒いから中に入ろう」

 と言って、屋上の出入り口に誘導した。

 エントランスに来ると、男性は自動販売機であたたかい缶コーヒーを買ってくれた。初めて会ったとは思えないほどの気づかいに、康の缶コーヒーを受け取る手はためらいがちだった。

 一人掛けのソファでくつろぎながらコーヒーを一口ずつ飲んでいるその向かいに、男性は座った。

「そうだ。いろいろ訊くまえに。自己紹介しなきゃ」

 男性はチャコールグレーのジャケットの胸ポケットから、黒い本革の名刺入れを取り出した。

「僕は、笹垣豊という。よろしく」

 笹垣豊と名乗った男性は、名前と携帯電話だけが印字されたシンプルな名刺を差し出してきた。所属も地位も書かれていない。

「よろしくお願いします。私はえっと・・・」

 相手の名刺を受け取ってから、すぐに自分の名刺が出せない。こういう礼儀が素早くできないから、どこでもうまくいかないのだ。

「すみません、本当に。ナントワール商品開発部、田村康です」

 深々と頭を下げ、笹垣に向けて名刺を差し出す。

 すると、笹垣が小さく肩を揺らした。勢いで地が出たと思い、くすくすと笑う笹垣を見る。

「ビジネスの場じゃないから、普通でいいよ。ナントワールか・・・新商品の開発は進んでる?」

「どうして、ナントワールが新商品を制作中であることをご存知で?」

「恩恵があるものでね。チェックしてる」

 このことから推測するに、ナントワールと契約した会社のひとつに勤めているのだろう。こんな温厚そうな人が上司だったらいいな、という欲を抱いてしまった。

「本社に勤めてるのか。最近、いい感じに利益を上げてるよね。ブラックにはなってない?」

「ん、まぁ・・・半分なりかけというか」

 すでに半分ほど、ブラック企業に足を踏み込んでいる。辞めて転職でもすればいいのだが、次の職場探しに使える力は残っていないため、転職は諦めていた。

 だからこそ、今回こうして自殺まで考えてしまっていた。それを止めた笹垣に文句は言わない。むしろ、安心している。

 実を言うと、いざ屋上に来て柵に手を掛け、足を乗せた瞬間、死ぬ覚悟を喪失しかけていた。大そうな遺書までしたためたくせに。

「疲れてるみたいだから、僕は帰るね」

「え?」

 自殺を踏みとどまらせてくれて飲み物までおごってくれたのに、急に帰るなんて。もっと感謝したいこと、尋ねたいことがあったのに。

「泊まるところ、・・・」

 ホテルの出入り口に行こうとした笹垣を呼び止めた。

「もう夜ですし、泊まるところ探すの大変じゃないですか?」

 振り返った笹垣にこう続ける。

 康は、どうしても笹垣をひき止めたくて必死だった。

「お気遣いありがとう、康くん。でもきみと一緒にひと晩過ごしたら、僕が変な勘違いしそうだから帰るよ」

 勘違いと聞いて、康は無作法なことを言ってしまったと心中で反省する。

「じゃ、また機会があれば」

 笹垣は短く言い残してホテルをあとにした。もの寂しい気分になったのはほんの一瞬で、あとは心が湯船につかっているときのように癒されて温かくなるばかりで抑えられない。もう康の思考は、どれだけ嫌なことがあっても自殺しようなどと簡単に思うほど脆弱ではなくなっていた。


 三月某日。

 この日は康とナントワールにとって、何としてでも成功させなくてはいけない日である。ナントワール東京支社で、新プロジェクトのプレゼンをするのだ。その大事な日には、開発部部長と社長も同伴することになっている。

「う・・・コーヒー飲みすぎたかな・・・」

 緊張からか、腹痛が間隔を空けて襲ってくる。何度も経験しているプレゼンなのに、いつも緊迫感から逃れられない。

「ていうか、部長と社長まだかよ」

 会社の駐車場に停めた車の横で腹をさすりながら、康は悪態をつく。もうかれこれ、30分以上は待っている。こちらは、肌寒い駐車場で立ちんぼしながら待っているというのに。

 するとそこへ、部長と社長がのろのろと歩いてきた。

「ごめんねぇ、田村くん。準備に手間取ってねぇ」

 呑気な部長だ。自分さえ良ければ、部下が待ちぼうけをくらっても構わないのである。

「いいえ、大丈夫です。お乗りになってください」

 二人へ対する微かな殺意を押し殺して、彼らを乗せて六本木へ出発した。

 3、4分ほどで、目的地に到着した。先に降りた康は、エントランスで受付を済ませ、あとから来た二人と合流して5階へ向かった。

 5階には開発部分科があり、330名の社員が働いている。この会社としては花形だが、それは表向き。本当は、成果があげられなかった社員の墓場。本社からとばされる者が多くを占めており、康の同僚にもいつの間にかいなくなった人が三人いる。

 そのため、本社では明日は我が身という心構えで働く者が多い。

―いつか自分も、墓場(ここ)にとばされるんだろな。

 エレベーターから降りた康は、二人のうしろを歩きながらそう思う。

 ここのオフィスは全面ガラス張りで、中の様子が窺える。デスクに向かう社員たちはしなびた花のような様子でキーボードを叩き、プリンターは作業的に印刷物を排出している。白色で統一されたオフィス内で繰り返されている日常は、あまりにも不気味だった。

 もうすぐ会議室に着こうかというとき、康の足が止まった。

 なぜなら、不気味なオフィスの中でただ一人だけ、きりっと締まった人間がいたからだ。

 その人物は、笹垣であった。ジャケットは脱いでベスト姿である。彼は初対面のときと同様、姿勢を正し仕事をこなしていた。

―笹垣さん、ここで働いてたんだ。

 驚きではあったが、彼もとばされた人だとしたら哀れだ。

「こら、田村くん!遅れるよ」

 部長に小声で怒られて、康は早歩きでついて行く。

 会議室に入ると、康をおいて社長は部長と立ち話を始めた。少しして、東京支社社長の真田が加わり、部長は相づち係になる。

 井戸端会議を横目に、康は黙々とプレゼンの準備を進めていた。

 開始時刻の5分前になると、開発部の社員たちがぞろぞろとやって来た。そのなかに、笹垣もいる。ファイルを小脇に抱え隙なく決める姿は、かっこいいと表現してももの足りないほどだ。

 10時半に、社運をかけたプレゼンが始まった。演台に立った康は、緊張がピークのまま話し始める。それが災いしてか最初から嚙み放題で、見守る部長はハンカチで額を拭いては隣に座る社長を窺っていた。

 成果の見込めないプレゼンは、11時に終了した。

―今回も失敗だ。

 テーブルに残された資料を一人で回収していた康は、居残っている笹垣に気がついた。

「こんにちは、笹垣さん」

「こんにちは。久しぶりだね、康くん」

 久しぶりと言うほど時は経っていないのに、笹垣が言うと信じてしまう。

「この資料、もらっていいかな?」

 笹垣が資料に目を落とし尋ねた。

「僕のこんな拙いものを?」

「拙いなんて言うもんじゃないよ。直すところはあるけど、見やすいから好きだな」

 この、部長から酷評された資料を笹垣は褒めてくれた。食い気味で「ありがとうございます」と言いたくなるが、抑えて小さい声で言う。

「でも、きみが返してほしいって言うなら返すけど」

「いえ、持っていっても構いません」

 記念に。

 これは言い過ぎだが、康にしてみれば記念だ。

 回収を続ける康のあとを追うように笹垣が立ち上がって横に立つ。手伝ってくれるのかと思いきや、そうではなさそうだ。

「康くん。このあと、一緒にお昼でもどう?」

 そのように誘って、康の脇腹をぎゅっと抱き寄せる。自然な動きに抵抗する暇もなく、笹垣の体に密着した。近くに見えるスーツからは、グリーン系の香水の匂い。温厚な笹垣らしい、優しい香りだ。

「先約が入ってるならいいよ」

「入っていないので大丈夫です」

「よかった。ここのB定食がおいしんだ」

 口説かれているようで、康は曖昧な返事になる。笹垣は、こういうタイプではないと信じているが、そんな疑惑が拭えない。

 それを察したのか、脇腹を抱く手に力が入る。密着する場所なんかもうないのにさらに抱き寄せられて、康は「やめてください」と言う態勢に入った。大人の笹垣なら、やめてくれるはずだ。

「康くん」

 呼んで、笹垣は顔を近づける。近距離にある顔は、陶然としていた。穏やかな笹垣が見せた表情に、康は自分はどうするべきなのか考える。

「怖がらないでほしい。僕はきみが好きなんだ」

 丁寧に、壊れ物を置くような言い方で告白してきた。だが、何だか分かっていない康はきょとっとしてから頬を染めた。

「ありがとうございます。・・・はは、ひとから好きとか言われた経験がなくて」

「それは、僕の気持ちが受け入れられたってことでいいのかな?」

 未だ脇腹を抱き、顔を近づけたまま温和な声で尋ねられる。

「えぇ、まぁ。そんなところでしょうか」

 またも曖昧な返事をしたが、相手は嬉しそう。自分と笹垣との間にそごがあったのかもしれないと疑問になるが、そんなことを問う気になれず手っ取り早く片づけを済ませた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

残り香 はたのれもん。 @ufss4cdp

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る