残り香
はたのれもん。
第1話
田村康(やすし)は、自殺しようと思った。出張で出向いていた愛知県名古屋市のホテルでそう思い立った。29という若さで自殺なんておかしいが、こういう生活に疲れてしまった。
康は、ホテルのベッドでゴロゴロしながら自殺の名所を調べている。けれど、どこも自殺防止用の柵が設置されていて飛び降りることができなかった。
―服毒でもするか・・・。
こうなったらとヤケになり、毒物を検索。ネットで入手方法を手当たり次第に調べたが、一般人が手に入れるためには手続きが必要らしく簡単にはいかないようだ。
「ったく・・・」
世の中は、どうして人を死なせてくれないのか。会社も、ブラックで成績成績とうるさい。上司の顔が浮かぶと、イラッとくる。悪夢でうなされるのかと思い、康は青ざめた。
翌日 5時半。機械的で、冷めたアラーム音が鳴る。
康は、備えつけアラームのボタンを力強く押した。それから、気怠そうに起きる。寝グセもばっちりだ。
今日は、横浜の中心地にオフィスを構えている会社へ帰る日だ。出張最終日くらいは、家に帰りたい。独身であるため、アパート暮らしだが。
「はぁ・・・もう」
一旦は起きた体が、ベッドに引き戻される。キャリーバッグの上に脱ぎ捨てたシャツが見える。そして、くつ下。白いブリーフ。キャリーバッグの中に入れる気になれず、そのままにしておいたのだ。
いつまでも悶々としているわけにもいかず、着替え始めた。しわくちゃのシャツを纏い、仕事モードに入る。
―こんなの着ていったら、部長怒るだろうな・・・。
同じく、しわの寄ったネクタイを締めた。初めてのボーナスで買った安物だが、とても気に入っている。
「これで良し。行くか」
帰りの新幹線のチケットを持って、部屋を出た。
外は、春一番が吹き荒れていた。コンビののぼりが倒れていたり落ち葉が舞ったりしている。チェックアウトを終えた康は、カップコーヒー片手にフロントのソファで、その光景をがらんどうな眼差しで眺めていた。
―帰るの、めんどくさい。
空白が目立つ報告書は、帰りの新幹線でやるとして。早退理由を何にしよう、と考えを巡らす。
腹が決まった康は、キャリーバッグに手をかけて足取り重くホテルをあとにした。
朝6時の新幹線発着ホームは静かで、カサカサに乾いた心をすり抜けていく風が吹いている。そのホームに立つ康は、ひどくぼんやりした様子でいた。
「ちょっとあんたっ!」
うしろから女性の声がしてふり向くと、初老の女性が指をさしている。見れば、到着した新幹線のドアが開いていた。
「あ、すみません・・・」
康は恥ずかしさを隠しへこへこしながら車内に乗り込んだ。もっとしっかりしろと、言い聞かせる。
「えっと、3のC、3のC、・・・あった。・・・」
会社からの指示で、新幹線は指定席が常だ。
しかし、問題発生。康が座るはずの席に、すでに乗客が。指定席あるあるだ。声をかければ済む話だが、たまに怒り狂う輩もいるから困る。
けれども、ここにいる男性は怒り狂う人には見えない。身なりもしっかりしているし、丁寧に声かけすればなんとかなりそうである。
「あ、あの・・・すみません・・・」
康が声をかけると、男性は気がついて顔を向けた。その容姿に、康の荒廃した心に花が咲く。
「その、あの、そこは私の席でして・・・」
―うわ、怒鳴られる。
過去2回、同じ状況で相手に怒鳴り散らされたことがある。それがトラウマだ。
「あぁ、そうだったか。ちょっと待って」
意外にも温かい返答がきて、康は動揺する。
一方で男性は、ジャケットの胸ポケットからチケットを出して確認した。
「すまない、こっちだった。迷惑をかけてしまったね」
「とんでもないです」
康は安堵しつつ、空いた席に腰を落ち着かせた。声をかけた男性は、通路を挟んだ向こう側の座席。ブラウン系のスーツを着ていて、長い脚をしっかり閉じて姿勢よく座っている。
定刻になると、列車は出発した。素朴な風景が、窓の外でいく度となく繰り返される。マンションや田畑、空を飛ぶ鳥。大空がユートピアならば、地上はディストピアか。
康は持ってきていたビジネスバッグから、三枚の報告書を出した。三枚とも、空白が目立っている。未だにアナログなのか、こういうものは紙で作成しろと指示される。だが、パソコンは持っていけと言う。
太ももの上に書類を広げるが、何も浮かんでこない。意識せず、ため息が漏れる。
康の勤めている会社は、女性向け雑貨の制作会社。そこの花形部署と呼ばれている、商品開発部に所属している。支社を、広島、大阪、東京に持っている大手だが、販路拡大のために若手社員を使って各地に出張へ向かわせているのだ。
康もその一人である。前回は千葉へ赴き、ヒット商品を見せながら猛プッシュしたものの、失敗に終わった。部長には、「ばかもん」と一喝された。そこの商社は唯一の頼みの綱らしく、どうにか契約に結びつけたかったらしい。
―そんなこと知るか。
康は各地に行くより、デスクワークのほうが好きである。同僚でも、出張の回数が異様に少ない人もいるからだ。一、二か月に一回や年に一回という社員もいる。それなのに、業績がいい。何度も、費用のむだな出張に行かされている自分は一体なんなのか。
「きみ」
やる気喪失に陥っていた康に、先ほどの男性が声をかけてきた。
「顔色が悪いけど、大丈夫?」
今回も失敗したせいで元気がなく、人生にも疲れていた。それで顔色が悪くなったのかもしれない。
心配してきた男性は、康の隣に座った。
「そんなに、悪いですか?」
「うん。電車酔いする人もいるって聞いたことあるから、きみもそうかと思って。もし良かったら、どうぞ」
男性は、缶コーヒーを差し出してきた。
「いいんですか」
「構わない。買ったばかりだから、まだ温かいよ」
康は断ることもなく、それを受け取った。言う通り、缶は温かい。
とここで、康の腹は決まった。人間として酷い思いつきだが、自殺をしようという気持ちが高まった。他人のふとした優しさは、何かを思いとどまらせるのに効果がある。
ところが、康には逆効果だった。雫のように注がれる他人からの癒しや優しさは、自らを肯定してくれているエッセンスなのだ。自分の行動や考えについて許されると、死ぬことも許されていると思い込んでしまう。
「どこで降りるの?」
「新横浜です」
「僕もだ」
いかにもビジネスマンという風格だから、東京で下車すると思っていた。
「出張ですか?」
「あぁ。売り出し中の商品を宣伝しに。三重と奈良にまで行ったけど、むだ足だった。不良品が多いからと、取り合ってもらえなかった。きみは?」
「私も実は似たようなことを。名古屋市内を駆けずりまわっていました。全部失敗でしたが」
他人だからと、康は事実を吐露した。
「きみも大変だね、まだ若いのに」
「いいえ。もう6年目なのに半人前扱いです。それに、疲れた顔してるので、周りからは老けてると言われます」
「でも、働きすぎは体に障るから、しっかり休みなさい」
初対面にもかかわらず、やり過ぎなまでに心遣いをしてくる男性に不信感を募らせつつ、康は愛想笑いをする。
―人生最後の話し相手が、見知らぬ他人か。
それでも構わなかった。少しでも、誰かに自分のことを頭に刻んでほしい。
新横浜駅に到着すると、康は会社へ直行した。早退する理由も考えてある。
「おはようございます」
まだ出勤している者が少ないオフィスにいた部長に、康は挨拶した。
「おはよう、田村くん。報告書を提出してくれる?」
康は、空欄だらけの報告書を提出した。
「申し訳ございません」
喝をくらう前に謝罪し、頭を深々と下げた。
すると、地の底から這い上がってくるため息が聞こえた。
「頭を上げて、田村くん」
言われた通り頭を上げると、部長の冷酷な目つきが刺さる。
「もうここまでくるとね、やってらんないんだ。次の、東京支社でのプレゼンで最後だ。分かったか?」
「はい」
「分かったならいい。今日はもう、帰っていいよ」
思わぬセリフに、「帰っていいんですか」と訊きかえしてしまった。
「あぁいいさ。出張帰りだから、疲れただろう?」
「えぇ、まぁ・・・ではお言葉に甘えて。今日のところは、失礼します」
「ん、また明日」
思惑のありそうな流れだが、康はオフィスをあとにする。エントランスに行くまでの間、何度も同僚とすれ違う。その際、「いい気味だ。出張だけで給料がもらえるなんて」とか「俺たちが骨身を削って働いているのに」と訴えている視線を投げかけられた。痛い視線だ。でも、これから死ぬ人間へのはなむけだと思ってほしい。
予想以上の展開に、康は暇を持て余した。アパートに帰るにはまだ早い。そのため、死に場所探しをすることにした。
数時間ウロウロした末、死に場所として選んだのは桜木町駅近くのビジネスホテル。ホテル側には申し訳ないが、飛び降りるのにはちょうどいい高さなのだ。
「すみません。予約していなのですが、空き部屋ってありますか?」
「少々お待ちください」
昼すぎという時間帯だから、空いているとは思っていない。
「一部屋キャンセルが出ていましたので、そちらにどうぞ。シングルですが、よろしいでしょうか」
「はい」
幸運にも、一部屋空いたらしい。
部屋へ行くと、康はベッドに腰かける。一時半だが、空腹は感じていない。とりあえず、夜になるのを待つことにした。そのまま横になって、目を閉じた。
気がつくと、外は暗くなっていた。室内の時計は、20時ちょうど。
「ふぅ・・・」
死ぬにはちょうどいい時間かもしれない。人通りは多いかもしれないが、それはべつに問題ではなかった。
重い腰を上げた康は、ジャケットを羽織った。それから、化粧台のイスの上に置いた通勤カバンから遺書を出そうと中を覗くと、缶コーヒーがちょこんと隅のほうに座っているのを見つけた。康の口元が綻びる。
―でもごめん。
康が手にしたのは缶コーヒーではなく、遺書だった。
コンクリート製の階段を一段ずつ昇るたび、解放感に見舞われる。これから死ぬというのに。
屋上は出入り可能らしいのでラッキーだ。ドアを開けると、横浜の夜景が眼前に広がる。函館と遜色ないほど、神々しい。街と空と光の粒が、自分をクジラの口ほど大きく飲み込もうとしている。
康は柵に手をかけて、寂しくなるほどの色で塗られた景色を眺めた。初めて、ここが美しいと思う。この鮮やかな中に、自分は誰にも看取られることなく溶けて消える。
しばらく眺めながら、新幹線で出会った、いや人生の中で唯一自分を優しく扱ってくれた男性との会話を思い出す。これも、数秒後には記憶から抹消されてしまう。
それから、つい何時間前に会った部長。自分が死んだら、どう思うだろう。「おかえり、出張お疲れ様」とひと声掛けなかったことを悔やむだろうか。費用むだ遣いの出張も、やめるだろうか。未来ある後輩のためにもそうしてほしい。
死ぬというのに、思うことが湧いてきて止まらなくなった。本当は、怖いのかもしれない。怖くて逃げ回ってばかりの自分と、お別れできるというのに。
わだかまりが残るまま、康は手に力を籠め柵の上に足を乗せた。ぎゅっと目を閉じ、重心を下へ向けたそのとき、何かが腕を引っ張って現実に引き戻してきた。あまりに強い力で引っ張ったおかげで、康は大胆に転げた。
何が起こったのか把握できず、康は目を強く閉じたままじっとしていた。
「はぁ、よかった」
男性の、ほっとした声。その声に覚えがあって、康は目線を上げた。そこには、新横浜駅で別れたはずの男性。それも、かなり近距離に顔面がある。
それもそのはず。男性は尻餅をついてまで、転げそうな康を守ってくれたのだ。近い距離に顔があってもふしぎではない。そう思っても、ドラマでしか見ない展開になって惑乱しているのか、康は身動きできないでいた。
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