IAMMILK

呂暇 郁夫

                 




 職場で一番偉い山内シノさん(五十九歳)が間違って買ってしまった北海道有機厳選牛乳を「口に合わないから亜科ちゃん飲んで」と思い出したようにというか実際に唐突に思い出したのだろうというタイミングで言ってきたので素直に飲んでみた。職場の給湯室で自分のミッフィーのマグカップにとくとくと注いで腰に手を当て。思えば牛乳を飲むのはとんとひさしぶりだ。そこでふと考えてみたけれど日本国に乳製品は数あれど牛乳そのままをきちんと飲む人は実はそんなに多くないのではないだろうか。スーパーでわざわざ牛乳のコーナーに行ってそこそこ高いし種類もたくさんあるというのにてらっとレジに持って行くかというと私はそんなことはない。シノさんは牛乳が大好きウーマンのようで必ずメグミルクを買うそうだが私がもらった北海道有機厳選牛乳とは赤と白なので絶対に間違えて買ってしまうなんてことはないだろうから大方消費期限が間近で安くなっていたのを興味本位で買ったというところだろう。ちなみにその牛乳だがものすごく美味しかった。牛乳は甘い。牛は偉い。牛はだれが飲んでもおいしい液体を乳から噴出することができる。それはどんな人間にもまったく不可能なことだ。

 次の日から私はスーパーで牛乳を買うことにした。シノさんが農場の回し者ならば素晴らしいやり手だ。


 亜科ちゃんはいつか結婚とか考えてるのんと工藤さんがなんとはなしに言った。

 そのタイミングは絶妙。私はだれかが机に放っぽっていったゼクシィを片手にあんぱんを食べながら合間合間に牛乳を飲んでいて結婚とかって改めて考えるとそこまで遠い話じゃないんだろうなって珍しく自分の未来について考えていたから。私はアメリカ人と結婚したい。日本人は陰気だし愛しているくせに愛していると言えないへたれが多くて気に入らない。気に入らないと牛乳をゴクゴクとやけ飲みする。工藤さんは一本満足をもそもそと食べている。そのじっとりした目線は私の食事に対する苛みや妬み。どうしてそんなにカロリー採って私より細いのよって感じだろうか。間食しないからじゃない?


「結婚したいです。ひとりで死ぬよりは余程いいかなって」


 私の声は鶴が鳴くような美声だ。


「今は付き合ってるヒトはいるの?」

「いません」

「ならまだ先の話ね」

「私はアメリカ人と結婚がしたいです」


 私はお米よりもパンが好きだし日本の城よりも外国の城が好きだ。無言の意思疎通よりもうざったいくらいおたがいをたしかめあうほうが好きだし楽曲もなよなよしたジェイポップなんぞよりワンダイレクションのほうが好きだ。ひょろい男よりもがっしりとした男のほうが好きだ。客もそういう男のときは思わず力がこもってしまう。それにダンスを踊れる男のほうがいい。


「ふふ」


 と工藤さんは笑う。

 その「ふふ」にはたくさんの意味が含まれている。八つ近く離れている私の願望の行くすえは自分が通った道と同じ末路でしかないとでも言うかのようだしイケメン外国人を捕まえるだなんて私には無理だと思っているのかもしれないし去年イタリア人と別れた未婚婦女子の工藤さんの前であっけからんとそんなことを話す私が気に入らないのかもしれない。

 でも私はべつにこの職場の人間関係がどうなろうと気にしていない。

 扉が開いて顔を半分だけ覗かせたシノさんが「亜科ちゃん。客。車乗って」と言う。私はハァイ♡と天女のような美声で返事をして工藤さんに会釈をして羊皮のコートを羽織る。出発の前に牛乳だ。元気よく飲みきって私はイケメンの高橋君が運転する車で円山町のホテルに向かう。


 私はよく知らないがデリヘルの送迎運転手というのは苛酷な職業のようで私たち嬢と仲良くなることはご法度中のご法度らしい。シノさんが酒に酔った時に聞いたことがある。前にうちの店で運転手として働いていた四十代のナイスミドルなおじさんはトップ嬢の嶺衣奈さんとデキていたらしく二人はこっそり同じマンションの一室で暮らしていたとか。ナイスミドルなおじさんはナイスミドルなのにどうしてこんなところでこんな仕事をしているのかだれも知らなかったけど丁寧な仕事ぶりだったのでシノさんは気に入っていた。ナイスミドルは嬢と懇意になることがご法度であることは知っていたようだけど嶺衣奈さんの魅力には勝てずに手を出してしまい(まあ私の見立てでは嶺衣奈さんのほうから手を出している筈だけど)なぜ運転手が口を揃えて嬢とは付き合うなと言っていたか身をもって理解した。自分の女がほかの男に抱かれるために車を出すなんて仕事はナチスドイツが研究していた人間の苦痛の実験と同じくらいひどいことだなんてちょっとまともな脳みそをしてればわかるはずなのに。しかも嶺衣奈さんのほうは仕事だと割り切ってるからぜんぜん気にせずに客のところに向かうし。ちなみに店としてその行為を禁止しているのはそうなった人間のほとんどがナイスミドルと同じ行動を取るからだ。ナイスミドルは嶺衣奈さんに仕事をやめるように説得し嶺衣奈さんに不自由をさせないように自分がもっと働くからと言って欠勤させてしまったのだ。それはちょうどシノさんが二人をきな臭いと思って調査していたのと同じころでナイスミドルはシノさんが雇った大男に胸倉を掴まれて投げ飛ばされた。渋谷や新宿をふらついていればわかることだけどそういう用心棒のような雇われ筋肉マシーンは二十一世紀になっても実在するのだ。私もこないだ見た。怖かった。

 ナイスミドルは土下座させられてナイスじゃない単なるミドルになった。というかバッドミドルはこてんぱんにされて違約金と称されて十五万円を毟り取られてクビになった。嶺衣奈さんは「えークビになったんだァ可哀想」くらいのゆるい反応をしてシノさんに連れられて店に戻った。そしてだれよりもフツーに仕事をこなした。嶺衣奈さんは翌日にTSUTAYAの袋を職場に持ってきてあとでみんなでゴッドファーザーを観ようと笑顔で言ってきたらしい。コッポラっていうすごく有名な監督が撮った映画なんだって。


 というわけで話を聞くに運転手とお近づきになっても嬢のほうにはあまりダメージがなさそうだ。

 高橋君は私のお気に入りでキリッと鋭い眼光を放つ野犬みたいな男の子だ。まるでいちども愛されたことがないかのような寂しい顔つきには母性を感じる。一匹狼な男が信じられるのは自分の身体だけだとでも言うのかしっかり鍛えているみたいでスーツの上腕の部分は膨れ上がっていた。送迎車は宮益坂をゆっくりと下っていく。前を自転車がふらふらと走行しているのが邪魔なようだった。


「無理やり追い越しちゃえ」


 私が言う。高橋君はバックミラーで一瞬私を覗いてからうなずいて反対車線にごっそりはみだしてちゃりんこを抜かす。それでいいんだッ高橋クン。

 V字谷の形をした渋谷の底を抜けて道玄坂を登っていく。私は高橋君が見ていないうちに靴とパンストを脱ぎ始めてやわやわもちもちの太ももを半分以上も曝け出す。目的地に着く前に高橋君はなにかを言おうとして振り向いてそれからすぐに前を向き直した。そんな見てはいけないものを見たかのような反応はダメだッ、もうひとこえ!私は足の皮膚をつつつと指でなぞる。

 私は小学生の男の子となんら変わらない。いたずらやいやがらせをして相手の反応を楽しみたいだけだ。そこには善意も悪意もない。ただ興味が存在しているだけで言い換えるならば無邪気だ。これは私の悩みでもある。普通の人はどこかでそういう行為を見咎められて怒られたり嫌われたりして自分を変えていくけど私はこれまでだれかに正されたことはない。私は究極の放任主義が生んだ勝手気ままなモンスターかもしれないよ。爆速で進む車はブレーキが壊れているのではない。ただ操縦者に留まる気がないだけだ。


「困ります」


 お代官様に迫られた生娘のようなひと言を放つ高橋君。


「なーにが?」


 と私は聞く。パンストはするすると脱げていてすでに完全生足だ。


「亜科さん」

「私はその名前が嫌いなんだよ」

「知りませんでした」

「だれにも言ってないから。高橋クンにだけ教えてあげる」


 なにを?経緯を。

 車が円山町の焼き鳥屋の前の路肩に停まる。


 ちょうどこのあたりのバーだった。知る人ぞ知る事実。若い女は常に発散を求めている。フツーの女の子の内なる衝動はだれかをナイフでぐっさり刺さないと止むことがない。あるいは刺しても止むことがないような生の衝動だ。それは若さのパワーなのかもしれない。一年前私はひとりでバー通いをしていた。友達が少ないわけでもないしとくに寂しいわけでもなかった。大学では法律を勉強していたから人を刺すような真似はしないにせよなにかこう異次元の門が突然目の前に開いてほしいような感覚の対処法を端から見定めていくと人はひとりでお酒を飲みに行く。その円山町にあるバーは俗称をスカウトバーと言って水商売の経営者がときおり訪れてはめぼしい女の子に声をかける風習がある。

 私に声をかけてきたのは冴えない太った中年で山内さんと云った。


「もう十年も経つ」


 自然と隣に座った山内さんはそう口にした。店は薄暗いブルーのライトが朧げなネオンのように微動していて好きな雰囲気だった。


「お袋のやっている店を手伝って十年。スカウトをはじめて十年だ。思えばどれだけ長い時間が経ったのだろう。ぼくは渋谷原宿新宿で、芸能やモデルのスカウトを待っている女の子たちに水商売の声をかけている。いろんな子がいた。東京に来ればすべてが報われると本気で思っていた山形出身の十九歳の子とか、偏差値七〇もある女子高を卒業してなにもやらずに街をふらついている子とか、環境のせいでまともに育ってきていないのに心だけはだれよりも優しい子とか」


 ありふれた話だ。


「可愛い子も可愛くない子もいた。しかし一夜の女っていうのは特殊でね、単に可愛いだけでは一番にはなれない。かといって愛嬌があってもそれだけで戦えるわけじゃない。ぼくが十年間男と女を観察してきた限りで言うと、男は女に本能的に隷従したがっている。どこか言うことを聞いてくれないような、それでとくに高飛車というわけではない女の子に強く惹かれるんだよ。手垢のついた言い方が許されるなら、芯の強い女にだ」


 あくびが出る。


「今の話はとくに面白くない前座だ。きみを見たとき、脳にびびっと電流が走った。きみは間違いなくうちの店の、ひいてはこの業界のトップになれる。きみには何かがある。うちの店で働いてくれないか」


 どうせほかの子にも同じことを言ってるんでしょというセリフはそこかしこで聞くけどこういう場面で使うのは正しいんだっけと私は考えた。

 山内さんは名刺を渡してきた。真っ白な硬い紙に金字で名前が彫ってあってあまりにもキャラと合わないから鼻で笑ってしまった。


「きみの名前は?」

「葦加あおこ」


 源氏名として使った亜科よりも嫌いな名前だ。あおこて。パパはなにを考えていたんだろう。


「素晴らしい名前だ」


 なんだこのうそつきは。


「気が向いたら連絡をしてほしい」


 山内さんはそう言って私の分も合わせて会計を済ませた。去り際にわざとらしく私の方を振り向いてわざとらしくひと言残そうとして結局はなにもせずに出て行った。

 山内さんは私の初めての男でもある。




 苦虫を噛み潰したような高橋君の顔は爽快だった。聞きたくなかったとでも言っているかのような顔だ。それはつまり私のことを知りたくないということだ。私のそういうことを知りたくなかったということだ。


「私がプライベートでヤったのは山内さんだけなんだよー」


 言いながら私はなんだこの情報と思った。


「おれにそんな話をして大丈夫ですか」


 高橋君は不安そうに言う。それももっともな心配だ。なぜなら山内さんはまだ元気に店で働いているからだ。


「大丈夫じゃない話もいざ話せば大丈夫になるよ」


 私は極めて適当なことを言った。本当に適当なことだと思う。


「とにかく着いています」

「知ってるよ」


 高橋君は運転席を降りて私の扉を開いてくれる。私はパンストをマリリンモンローみたいな仕草で装着して靴をゆっくりと履く。つるつるに磨かれた靴先に高橋君のだらしない顔が反射していた。そういうところもいいじゃないの。


「いってらっしゃいませ」

「くるしゅうない」


 私はホテルに向かう。客は五十代のおっさんだった。腹はぶよぶよ。毛はふさふさ頭を除いて。仕事は仕事なのできっちりこなす。私が自分で自分を偉いと思っている数少ない点に相手がだれであれ最低限のクオリティは保つことが挙げられる。私は相手がブラットピットでも仏陀でも豚でも最低限のラインを下回るサービスはしないだろう。上限は変わっちゃうこともあれど。仕事はリズムが大切だ。とんとんっとうまくやるのだ。きっと恋愛も同じなのだろう。あまりよく知らないんだけれども。




 家はカラフルであるべきだ。私の大好きなおばーちゃんが骨董屋をやっていたからか天邪鬼な私はモダンでポップな家具を揃えている。住居は雑誌でみんなが住みたい街ナンバーワンになってたから吉祥寺にした。大学が遠いから誤りだったと思う。本当は家具にはまったく興味がない。色もどうでもいい。ただこういうぱっと見どぎつい感じの部屋をきれいに使っているのは客に評判がいいからそうしているだけで。

 私は本を読む。大学にいるとよく本好きな人に出会う。私は本が好きだとかいうそこらの大学生よりもはるかに量を読んでいるにも関わらず自分が本を好きなのかどうかはわからない。アンナ・カレーニナを小学生のときに読んで私はこんな無様な女にはならないぞとせせら笑ってチェーホフを読んだときはこんな男を振り回すような女にはならないぞと誓ったけど約束を違わないでいられているかは不明だ。古典や名作に心が動かされたことはあまりない。牛乳は私に感動を与えてくれるのに過去の文豪は必ずしも私に感動をくれるとは限らない。牛乳>本。でも人と話しているときは見栄を張って太宰が好きとか言ってしまうんだ。人間失格よりも斜陽のほうが好きだとか。どの短編も要は同じ話をしているだとか。

 本当はハッピーエンドが好きなの。


 高橋クンのラインを無理やり入手して日に何度も太ももの写真を送っていると彼の態度が変わり始めた。前はだれにもなびかないぜ俺はフフンみたいなところがあったのに私に好意を持たれているという自信が高橋クンの心の氷山を溶かしはじめている。とはいってもそれは良いことではないかもしれない。彼は自分の立場に対する疑心暗鬼とそれでもなお自分だけが自分を信じている根拠のない自信に揺蕩っていることでシャイな魅力を放っていた。私はそこに惹かれていたんだ。私の部屋を見渡す高橋クンの横顔は長年に渡って波に削られた岩石の側面の無秩序を想起させる。

 それでも私は高橋クンが嫌いじゃない。ベッドタイムではじっくり甘えてくるところなんて可愛いじゃあないか。寝顔は意外にも安らか。なんだか妙な寝言もよく言う。「あおこさん……」なんてのを聞いた日にはギャーと言って頭を叩いた。ブラットピットも仏陀も豚も私を気軽にあおこと呼ぶことは許されない。

 高橋クンと寝てるのよという情報を工藤さんに投下すると初めは冗談のように思われたけどよくよく考えると高橋君がまあどう見ても私にだけ明らかにやらかい態度だったなと思い出したようですぐさま噂は広まった。従業員総勢四十一名を経て私と高橋クンの蜜月を知った山内さんが雷に撃たれたように飛び上がって待合室に入り込んできて私をロッカーにどすんと追いつめる。


「      」


 水中で発したみたいに通気性の悪いあなたの声が好きだった。私の耳が悪いのか山内さんの声が悪いのか私の耳が悪いわけがないからあなたの声が悪いという決めつけ。世間は吃音というかもしれない。でもそれがよかった。なんだか優しい感じがした。

 ナイスミドルはきっとつらかったと思う。でもそれは自然な辛さだ。人間が人間として生きる以上必ず所有している欠陥だ。独占欲があって嫉妬深くてでもけして悪いことじゃない。

 山内さんは私のことをあれだけ好きだったけど最後まで私に仕事をやめるように言うことはなかった。それは山内さんのスカウトマンとしての矜持がもたらすものだったかもしれない。それでも私は嶺衣奈さんのことが羨ましい。

 私が自由奔放そうな人間だからと浮世離れしている人だからと。

 私のことを今までみたことのないタイプの人間だと皆が口を揃えて言っていようと。


「教育して叱ってよ」


 そうひと言告げるだけで山内さんはワイルドになる。嬉しいわりにはやっぱりどこか無感動。でも私は普通のことをされるのがちょこっと照れてリップの端っこだけが舞い上がった。




 給湯室の机に置かれている牛乳はだれかが冷蔵庫にしまい忘れたものだ。とっくに消費期限の過ぎた牛乳はぽっかりと口を開けてなにかを待っているように佇んでいる。きっといつかだれかが牛乳をどうにかするだろう。そのままにして人が飲んだらお腹を壊すし夏場に腐ったら異臭がする。牛乳パックは好きこのんで口を開けているわけじゃないけどそのときに起こる弊害はほかならない牛乳自身の責任だ。

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