第1話 呼応
幼いころ、マヤは自分の感情と他人の感情の区別がつかなかった。感情だけではなく、痛み、苦しみといった身体的な感覚も流れ込むので、いつも戸惑った。どの感情と感覚を母親に伝えればよいのかわからなかった。それでいつも口をつぐんだ。
他人の空腹なのか自分の空腹なのか区別がつかなかった。怒りも、悲しみも、喜びも、痛みも、他人から流入してくるので、どうして自分が今その感情なのかわからなかった。幼いころ、感情と感覚にまだ名前をつけられないとき、突然わきたつ感情に戦慄を覚えて、不可思議によく泣いた。火がついたように泣き出す我が子が理解できず、母親はよく困り顔を向けた。
八歳の年齢を迎えてからは、母親の目を盗み、人間のいない森を彼女の遊び場にしていた。草花からはいつも静かな律動を感じた。動物たちも感情が安定していることが多かったが、例えば彼らが敵から逃れ怯えているときや、死の淵で恐怖に怯えているときも、その感情が流れ込んできた。彼女が側にしゃがみこんでその柔らかな皮膚をなでると、嘘のように恐怖は消えていった。身体的な痛みや苦しみは彼女に流れ込んできたが、それでもずっと側で身体をなでつけていた。息絶えると、彼女からも身体の苦痛は消え去った。そして、まだ温もりの残った死骸が冷たさを這わせるまで抱きしめて、いつまでもなでつけていた。
どの動物たちも彼女を襲うことはなかった。小動物や草食動物はもちろん、時々は人間を襲う動物たちに出くわすこともあったが、彼らは彼女が現れると、しゃがみこんでは沈黙を守り、服従した。だから彼女に怖い動物などいなかった。
人間だけは別だった。
人間は、沈黙を守る彼女を理解できず、いつも邪険にした。
大人たちの冷ややかな眼差しを彼女は見逃さなかった。彼女の赤と青の入り交じった虹彩を気味悪がった。子供たちの異端を見る目や畏怖の感情も彼女は逃さず受け取った。だから、いつも母親のスカートの裾を握っては、遠目から彼らのことを眺めるだけだった。
高熱。彼女が十歳の年を迎えて数ヶ月がたったころ、燃えるように身体は熱くなり、滝のように汗が溢れ出た。
何度も気を失い、何度も息を吹き返した。霞む視界、遠くなる音の中――湧き上がってきた感情は焦燥感と恐怖。
(これは、私の感情じゃない……)
それは母親の感情。医者に連れて行く金も無く、ただがむしゃらに看病をするが、一向によくならない娘への母親の感情。
「お母さん……泣かないで」
しゃがみこんで、母親は涙を落とした。その涙を頬にうけながら、かすれる声で何度も声をかけて、意志を強く持とうとするが、ついに意識は飛んでしまった。
目覚めると、真っ暗闇だった。夜の中。
動物の泣き声や虫の音がしんと心の内側を包み込むようだった。
(熱が冷めたのかな……身体が楽になった。お母さんは……?)
起き上がって周りを見渡してみると、そこは森の中。
彼女は混乱して、状況を理解しようとするが、どうにもわからなくて不安で、心苦しくて、穏やかなはずの周囲に急に圧迫感を感じた。
「お母さん……お母さんは!」
返ってくるのは、森の音だけ。焦って家に帰ろうと立ち上がるも、方向などわからなかった。
――マヤ。マヤ。
聴いたことのない女の人の声が頭に響いた。
「誰?」
静かで、まるでハープでも聴いているような優しげな声。
――よく耳をすましてみて、よく。鯨の鳴き声があなたを呼んでいるはずよ。
暗闇で姿がみえないが、恐怖心はなかった。むしろ、その声を聴いていると不思議とそれまでの焦燥感や恐怖心は雪解けのように消えていった。彼女は言われたとおりに耳を澄ましてみた。
すると、鼓膜の内側から聞こえてきたのは、小さな小さな声。長く尾を引いた、澄んだ弦楽器のような声。
(聞こえる……私を呼んでる……)
マヤは鯨の鳴き声をしらなかった。だけれど、胸をなでつけてくれるような優しい鳴き声が、自分を呼んでいることが彼女にはわかった。
――そのまま歩いて、鯨に呼ばれるままに。
マヤが導かれるままに森を歩いている間、周囲には何百匹もの森の動物たちの気配があった。今まで何度も森を遊び場にしていても、それほどの動物たちが集まったことはなかった。
だが、確かにいるし気配も感じるが、どの動物もマヤの前に姿を現さなかった。時々、暗闇に浮かぶ眼光と目が合ったが、それはすぐに下にそらされた。まるでマヤに対して、大勢の動物が頭を下げているかのようだった。
異種混合の群れ、だけど静かな群れ。
動物たちの感情が流れ込むが、それに名前をつけることはまだマヤにはできなかった。
どこかに近づくにつれ、鯨の鳴き声は大きくなった。そして動物たちの群れは次第に少なくなっていった。
森を抜けるとそこには原っぱがあって、真ん中には空にも届かんばかりの大樹が生えていた。
マヤは思わず立ち止まって、その大樹を打ち眺めた。
その大樹には感情が渦巻いていた。そこはかとない感情――喜び、怒り、憎しみ、悲しみ――そのどれもが深く身体の芯まで届く。
産毛立ち、身体は熱を帯び、胸が痛い。
――その樹はね、今から何百万年も前、人間が誕生したときに、私が産んだ樹なの。
優しい声。胸の痛みが和らでいく。
――人間のあらゆる感情を忘れないように、その樹には今まで生まれてきたすべての人間の感情を記憶させてきた。次の「星の意志」、つまりシーアが生まれるときまで。
「星の意志ってなに? どうして私をここに連れてきたの?」
――それは、あなたが次のシーアだから。あなたに会わせたい存在がいるの、それが今鳴いている鯨。
「クジラ? クジラってなに?」
――鯨はこの星で一番身体が大きくて、本来海に生きているはずの存在だけど、「星の意志を告ぐ者」、ヘムオムリムとして私がその樹の下に鯨の息吹を植えた。あなたがシーアとして道に迷わないように案内人として。だから鯨があなたのことをずっと呼んでいたのよ。
「私がシーア? シーアって? よくわからないよ、わかるように教えて」
――そのうちにわかるわ。そうね、あなたが十七歳の年を迎えたときに、もう一度この地に呼びましょう。その時にはきっとわかるわ。
声がやむと、あたりの空気がすんと澄み、背後にたくさんの動物たちの気配を感じた。振り返ると、無数の大小の眼光が明滅して、それから一斉に鳴き声が響いた。
威圧的な声ではなかった。まるでこれから起きる現象に呼応するように、その場にいる動物たちが興奮していた。鳥も、鹿も、リスも、あらゆる動物、植物からでさえ脈打つ感情を感じる。
(どうして、みんな、どうしたの?)
そこには意味がわからず高揚している自分がいた。全身に鳥肌が立ち、胸が高鳴り、身体の中心が熱い。
大樹の下から白いモヤ……霧の塊のような、でもなにかの形を成している。
(これが鯨?)
霧は舟のような形になり、一方が口になり、一方が尾になった。それは大樹をもすっぽり隠してしまうほど巨大な姿。
――あなたがマヤ? あなたが次の星の意志?
震える女性の声が聞こえる。目の前の鯨の声。怯えや悲しみのためではなく、まるで今生まれたばかりのようなか弱い声。
「あなたが鯨なの?」
――私はヘムオムリム。星の意志を告ぐ者。あなたの魂を導く者。
その時、マヤの虹彩の半分である赤が脈打った。マヤは眼球の鼓動を感じ、熱を感じた。
呼応。
――私のところへ来て、マヤ。あなたは静かに眠らなければならない。シーアの身体になるまで。
足が自ずと動く。けたたましいはずの動物の鳴き声は、もはや意識の渦に溶け込む。
浮かぶ鯨の下。
――私に触って。
霧のような身体、それに手を伸ばすと、マヤの身体も同化するように霧になっていった。身体が軽くなり、鯨の身体に溶け込んだ。
(私、今から空っぽになるんだ……)
溶けていく、熱のない白に。静かな感情。熱くも冷たくもない触感。他との区別のつかなかった感情が、たしかにマヤ一人のものになった。
(静かだなぁ。こんなに静かなの初めて)
そして、背中の空気孔にマヤを吸い込んだ鯨は、再び大樹のしたに潜り込んだ。
動物たちは、それから三日三晩鳴き続けた。息絶える者も現れながら、身体の熱が冷め切らずに。
朝露が頬に落ちた、と思った。それは母の涙だった。
彼女は、顔を歪ませて嗚咽していた。悲しいという感情ではなく、安堵、それから喜び。
「お母さん……どうして泣いているの? ごめんね、私の体が弱いから心配ばかりかけちゃって」
すると、母親は嗚咽をもらしながら昨夜のことを語った。
昨夜ね、あなたを長いこと看病していたからお母さんも疲れが出てしまって、眠ってしまったんだけど、深夜になってふと目が覚めたら、お前の枕元に白いもやの女の子が立っていたんだ。それはそれは美しい子で、この世のモノではないようだった。
その女の子はお前の元にしゃがんで手をかざした。そしてなにかを語りかけているようだった、私には聞き取れなかったけど……。
その子がお前になにかを語りかけると、お前の体が塵のようになって、粉々に砕けたかと思うと、その子がかざした手の上に、風に舞うように浮かんだんだ。
私は声が出なかった。身動きもとれなかった。まるで石膏に固められたみたいに、指一つ動かせなかったんだ。そのうちに、その女の子は白い大きな光の粒になって、塵になったお前と一緒に窓からどこかへ飛んで行ってしまった。
「その子を連れて行かないで! 私から離さないで!」と本当は叫びたかったけれど、声が出なかった。すると、
――安心して、ノッダ(揺らぎ)。マヤは私が守るから、だからあなたは安心して眠るといいわ。
と澄んだ声が聞こえた。まるで陽だまりの中、揺り籠で子守りされているようだった。それから深い眠気が来て、言葉通り、私は眠ってしまったんだ。
だけど目が覚めてみると、朝が来て、こうしてお前は生きていた。
よかった! 本当によかった! あの女の子は死に神なのか、それとも天使なのかわからないけど、こうしてお前が生きているなら、きっと神様かなにかなのだろう。よかった! 本当によかった!
そうして、嗚咽を余計にひどく漏らしながら母親は涙を落とし続けた。
その滴を受けながら、生きているのだ、とマヤは思った。昨夜のことは、あれは夢だったんだ、鯨に呑み込まれていたら、こうして生きているはずがない。
生々しい夢、だけど儚い夢。まるで、触れたら皮が破けてしまう弱々しい生き物のような……。白い霧の鯨。
母親の安堵の涙をみたら、マヤは嬉しくなって微笑んだ。だが、母親はそれに気がつかなかった。
その一件があってから、マヤは嘘のように病に冒されなくなった。
相変わらず他人の感情や感覚が流れ込んできたが、それに体が影響を受けることがなくなった。痛みは痛みであり、苦しみは苦しみとして同じように受け取ったが、それによって体調を崩すことがない。
それだけでなく、マヤは人と会うことを恐れなくなった。臆病ではなく豪胆に、毅然と人と接することができた。進んで人々の前に出ては、挨拶をし、明朗さを笑顔に表したので、見違えた、と人々は噂した。
――あんなに暗かった子にいったいなにがあったんだ?
――あぁして笑顔をみてみると、あんなにも器量がよかったのか。
そして、今度は人々からマヤに声をかけるようになり、彼女はついに人々の輪に入ることが出来た。
(私が恐れていただけなんだ……私さえ恐れなければ、こんな簡単なこと、今までどうして)
愉悦。人々との関係に、愉悦の感情を持つこと自体が、彼女にとっては新鮮で、それまで苦痛や負の感情を与えるだけだった世界が逆転した。
彼女は初めて、世界に光を覚えた……。
星巡りのシーア カブ @kabu0210
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