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 ギルハルトの愛馬の上、アイリは手綱を握る腕の中にまたも捕われるような格好になっていた。動きやすいドレスは馬にまたがっても問題なさそうだったが、淑女のつつしみとして横座りの姿勢だ。

「腰や足が痛くはないか? もっとこっちに寄れ。落ちるぞ」

 返事を待たずに、彼はアイリの腰を自分のほうへと引き寄せる。

 密着のぬくもりに気を取られる暇も与えられずに手綱を握らされ、ギルハルトの手が重ねられた。うろたえかけるアイリは、そういえば、と思い至る。

 ──まだ、『お散歩』の儀式のちゅうなんだから、手を握っていなければならないんだっけ。

 自意識じょうを恥じながら、ギルハルトの手に軽く指をからめてみれば、それを合図にするように、彼は馬を歩かせた。

 大厩舎の前の広場を抜け、大庭園へと向かうにつれ少しずつ馬の足は速まっていく。

 この身を包み込むギルハルトの体温。のぼせそうになっていたアイリの頰を撫でていく風に目を細めていると、間近に彼の声が問う。

「どうだ、馬での『お散歩』は」

「とっても視線が高くて、気持ちがいいです」

 こんなにも視界が広い──。

 改めてきゅう殿でんを振りあおいでみれば、なんてそうれいな城だろうかと感動を覚える。役目にとらわれるあまり、あの美しさにも気づかなかったのだ。

 大厩舎のほう、走り出てきた数人の若い騎士が笑顔で手を振っている。

 あれは陛下へ振っているのだろうと横目で見てみるも、ギルハルトが彼らに応じる様子はない。一瞬迷ったが、アイリは騎士たちに手を振り返してみた。それに気づいた彼らはさらに大きく手を振り返してくれて、嬉しくて笑顔になる。

 ギルハルトの顔を振り返ってみれば、その瞳はやさしくアイリを見守っていた。

「やっと俺を見たな」

「え?」

「俺から『好きなもの』をたずねておいて、その『好きなもの』に勝てないのがくやしいなんてな。いや、いい、何も言わなくて。独り言だ」

 苦い笑みを含んだ声が耳に優しくて、今更ながら、ギルハルトは年齢の割に落ち着いた低めの声なのだと気がついた。男の人とこんなにも密着した状態でいるのに、緊張よりも安心感に包まれている自分がいる。

「陛下、ありがとうございます。馬に乗せてくださって」

「礼を言うのは俺のほうだ。騎士どもが言っていただろう。おまえが王宮ここに来たことで、俺は救われたんだよ。臣下かられもののように扱われているのはわかっていたんだがな……諸悪の根源が、そんな弱音を吐き出すわけにもいかない。いつ臣下に見放されるかと、この半年は苦しくもあった」

 つぶやく声は本当に独り言のようだった。アイリは不思議に思って問う。

「騎士の方々は、あんなにも陛下をすうけいしておられます。宮廷にもたよれる方々ばかりでしょうに、胸にしまわず、お心を伝えてもよかったのでは」

 ギルハルトは首を横に振った。

「宮廷に仕える者は、俺に王であることを求めている。皆に見放されずにいたのは、俺が王であったからだ」

 人狼は神のしんだと伝承に残されたのは、皆がそれを望むからだ。王が獣であることを望む臣民はどこにもいない。

「俺は……ずっと怖かったんだ」

 自分のほんしょうは、獣なのかとおびえていた。

 夜が来るたび、このまま正体を失い、本当の獣になり果ててしまうのかと。

 自分が自分ではなくなるのではないかと。

 そんな弱音を臣下に漏らすわけにはいかない。臣民を不安にさせるのは王ではない。

 ギルハルトから漏れる言葉のはしばしには、深いどくがにじんでいた。

 背に負うものはあまりにも大きく、それでも、不安をすることすら許されない場所に、この人は独りきりでいたというのか。

 アイリは彼の手に重ねた手をそっと握る。

「陛下は、陛下ではないですか」

 神様なんかではない。

 臣民を大切におもっているところも、悩みを秘めてのうしていたところも、実はおちゃめなところも、驚くほど義理堅いところも、少しわんこっぽいところも、オオカミ耳がかわいいところも。

「全部含めて、陛下です。完璧な神様よりもずっとりょくがあるように、私には思えます」

 心からの笑みを向ければ、わずかに驚きを含んだアイスブルーの瞳が穏やかなほほえみを返す。

「ならば、アイリ。俺を名で呼んではくれないか。ギルハルトと」

「ギルハルト様」

「ギルハルトでいい。おまえの前では、ただのギルハルトでいたいから」

 いつものアイリであれば不敬であると固辞していたところだが──あともう少しだけしかこの人といられない、というせきりょうがその名を口に出させていた。

「ギルハルト」

 呼ばれた男は快活に笑う。そして言った。

「アイリの行きたいところはどこだ? どこにだって連れて行ってやろう。だから、おまえも俺を選んでくれないか。俺はおまえを妃に……いや、妻にしたいんだ」

 その言葉に、アイリの胸は高鳴っていた。

 ギルハルトは優しい。

 この数日でぞんぶんに知ることができた。たとえ、妹の身代わりとしてここに来た自分に恥をかかせまいとするしん的な優しさだとわかっていても──。

 遠くに見える王都の時計とうに、夕日がさしかかっているのが見える。吹き付ける風がひやりとし、それでも、アイリの手を包むギルハルトの掌は温かい。

 剣の稽古のせいで硬く分厚いそれは、王宮に来ていなければ一生知ることはなかった。

 銀色の髪が見た目よりもはるかにやわらかでなめらかなことも、意外に照れ屋なところも、ふとした瞬間にこぼれる笑顔がこの心を摑んで離さないことも、今、自分を包み込むぬくもりも、何もかも──。

 夕日に照らされたゆうな宮殿、そのせんとうがねいろにきらめいている。まばゆいばかりのあのかがやきは、やがて訪れるやみの中にかき消えてしまうのだ。

 なぜか涙が出そうになって、アイリは奥歯をかみしめた。

 ギルハルトと共に見た、この景色を、きっといっしょうがい忘れることはない。

 ひとときの輝きは、宝石のきらめきよりも、きらびやかなドレスよりも、はるかに得がたい宝となるだろう。



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身代わり婚約者なのに、銀狼陛下がどうしても離してくれません! くりたかのこ/ビーズログ文庫 @bslog

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