人類は君に恋している。

深夜

再燃。


体を優しく撫でるかのような風が夜道を通り抜けていく。あの暑い夏は終わりを告げ、初秋に向けて少しずつ涼しくなってきた。

今年こそは大好きな夏の満月を見ながら酒を嗜もうと思っていたのに、俺が入ってしまった所謂ブラック企業はそう早々と返してくれない。

今日もサービス残業と言う聞こえの良い拘束に、気がつけば十二時を回ってしまっていた。

まだ良い方だ。先週なんて深夜二時に家に帰って、朝六時に家を出た。

きっと近いうちに俺は血管が切れて死ぬ。そうじゃなくてもいつの間にか気が狂って屋上から飛び降りるかもしれない。

あぁ、それもそれでいいか。

毎度そう思うだけで実行はしないけれど。

終電がないことに気がついた俺は、疲れからか帰る気にもなれず、フラフラと街を彷徨い小さな公園に足を落ちつけた。公衆トイレで用を足し、蛇口から漏れ出す少量の水で時間をかけながら手を洗う。

正面の鏡を見れば随分と老けた顔をする俺が虚ろな眼でこちらを覗いていた。

まだ俺は20代だというのに、濃い隈のせいで一気に苦労人の風格が増している。

はぁ、と今日何十回目かのため息をついた。

ベンチを探しながら、どこで人生を間違えたのかと自問自答する。もちろん考えたところで明日の未来が変わるわけではない。

あの就活イベントで夢を見すぎたのだろうか?入社初日で上司たちがやけ優しすぎることに気づけなかったことが悪かったのだろうか?

多分、答えは全部だ。

だからといって今から職を探すという気力もない。抜け出そう、逃げようと考えているといつも睡魔に負けて寝落ちしている。その度自分には逃げ道などないんだということを思い知らせれて、自分が嫌になって、そのうち考えることをやめる。

宛ての無い未来を自分で探して自己嫌悪に陥るくらいなら、いっそのこと寝ていた方が体も心も楽だ。

重い体を固い木製のベンチに腰を下ろして、コンビニで買ったおにぎりを探す。

昼に食べようと思って買ったツナマヨのおにぎりはバッグの底から一部潰れた状態で発見された。

舌打ちして同じくバッグに入っている朝用のコーヒーを飲む。水のように摂取しているせいで味という味も感じないが、それでも無理やり嚥下する。

グッと顔を上に向けると、怖いくらい何もない夜空が目に映った。

星も、月も、全部が真っ黒なキャンバスに吸い込まれたみたいに何もなくて、一瞬宇宙の摂理を疑った。

口からペットボトルを離してよく見てみると、雲のヴェールが薄っすらかかっているのがぼんやりと見えた。

これが月や星を邪魔しているのか。

一人合点をいかせて、ぼーっと眺める。

「——だった。」

誰もいない公園、通り抜ける風、たまに点滅する街灯。俺はもう一度静かに声を震わせた。

「・・・好き、だった。」

子供の頃一度だけ、両親も兄弟も寝静まった夜に一人で外に出たことがある。今思えば小学四年生とは言え、十一時に外出とは一体何を考えていたのだろうか。

十年以上前の記憶なんてほとんど覚えていなかったが、その時の景色だけはやけに鮮明に覚えている。

家族を起こさないように玄関の戸を開けて、歩道に出た。パジャマ姿の子供が夜に外に出るなんて誰か声をかけてくれてもよかったのに、すれ違った大人はみんなスマホに夢中で、視線すら合わせてくれなかった。俺は悲しい気持ちになることもなく、五分くらい歩いたところにある公園に足を進めた。

いざ到着すると、面白いくらいに誰の声もしなかった。夕方友達と遊んだ遊具も、いつも誰かが取り合っているブランコも、行列を作る滑り台も、誰もいない。

最初は遊び放題だ、と喜んでブランコに飛び乗ったが、大きく漕ぎ終わって段々地面に足がつくようになると、誰もいないことをとても寂しく感じるようになった。

普段うるさいくらいにはしゃぎ回る友達や、それより下の子たちの声が聞きたくなってくる。

やっぱり帰ろう。

そう思いブランコから立ち上がろうとしたとき、突然地面が光りだした。

ハッと上を向けば、先程まで雲に隠れていた月が煌々と輝いていて、俺は言葉にならない美しさに目を離すことが出来なかった。

月はそんな俺は包み込むように月光のシャワーを浴びせる。無数に煌めく星には目もくれず、その美しい月だけを目に焼き付ける。

上を見ながらブランコから立ち上がって公園から出ても、月はずっと俺についてきた。誰も俺を見なかったのに、月だけは俺のことを見ていて、俺も月のことを見ていた。

家に着くまでずっと心臓が不自然に高鳴っていた。頬が妙に火照り、まるで2人しかいないような夜道にドキドキする。クラスで一番かわいい子と隣の席になった時のような感覚。

俺は小学生ながらに、それが恋心だと理解していた。

俺はその日、月に恋をした。

音もしない。匂いもしない。ただ明るくこの地球を、街を、俺のことを照らすだけ。

立ち止まれば止まるし、歩けばついてくる。

中学生になって部活で上手く行かなかった日も、高校生で受験に悩まされた日も、君を見ていれば全て忘れることが出来て。

どうして俺は君のことを忘れていたんだろう。

一体いつから、君がいなくなった空を当たり前だと思うようになったのだろう。

そうやって何もない夜空を見ているうちに、景色が揺らいで、ポタリ、ポタリと涙を落とした。

社会に出れば自由になれると、大人は格好いいんだと言ったのは誰だ。そんなの嘘じゃないか。会社という檻に閉じ込められて、社会人という言葉に首を絞められて、それのどこが自由に見えるんだ。どこが格好いい大人なんだ。

誰もいない、ただ鈴虫の鳴き声と俺のしゃくりあげる音が公園に響く。

中学生に泣いたのが最後。泣き方も思い出せない。涙の止め方も分からない。ただずっと止まらない涙を手で拭って、呼吸をしている。

ねぇ、慰めてよ。寂しくて帰ろうとしたあの日みたいに。

だけど、輝かしい装飾を隠した夜空から答えは返ってこなくて。

俺はフラれたのかな。

近所の迷惑にならなように声を殺しながら深く息を吸うと、だんだんと涙が引いてきた。空っぽになるまで泣いたおかげか、随分頭がスッキリしている。

俺はまだ震えている手でおにぎりとペットボトルを掴み、バッグに入れた。

・・・帰ろう。

少しだけ軽くなった体を立ち上がらせ、地面を踏みしめて歩く。足元はまだおぼつかないし、フラフラしているけれど帰りたい気持ちが足を動かしてくれている。

公園の入り口からもう一度上を見上げた。依然として俺の恋の相手が出てくる様子はなかったが、俺はそんな夜空に呟いた。

「次は綺麗な顔を見せてね。」

外でこんな臭いセリフを吐くなんて俺らしくない。やっぱり気でも狂ったのかもしれない。

でも、きっと忘れないだろう。初恋を再燃させた今日と言う日のことを。

家に帰ったら、眠くなるまで求人広告を見てみよう。

もう少しだけ、生きよう。

出来ることなら、十五夜は君と2人で過ごしたいから。

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人類は君に恋している。 深夜 @kamin06

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