夜凪、アイスクリーム

うすい

短編

「人は、所詮アイスクリームだ。」

と、最後の一文を読み終えた。

「ふう...何とか読み終えた...最新作も、なんだか不思議な言葉の言い回しで、難しかったなぁ...でもやっぱり、そのアンバランスな言葉の使い方が、夜凪明日満(よなぎあすま)先生の魅力だよなぁ...」


夜凪明日満は俺の敬愛する小説家で、独特な言葉の言い回しと詩的な美しさが反響を呼び、直木賞受賞も夢ではない今をときめく小説家だ。

しかし、その全貌は謎に包まれており、どこで育ち、どこで書き、血液型も誕生日も性別も、何もかも公開されていない。


「そんな謎な所も、魅力的だ...」

と、一息ついていると

「おい!休んでる場合か!昼休みは10分だけだぞ!働け!若者はとにかく働け!分かったな!」

突然部長が捲し立ててきて、俺の余韻も、程なくして終わった。


「昼休みは1時間あるんだけどなあ...」

そう小言を呟いていると、

「わりぃわりぃ、この書類頼まれてくんね?俺午後から取引行かなくちゃなんねぇんだわ。じゃあ、よろしく。」

茶髪の歳下の上司からざっと70枚はある書類を渡された。

また、いつものやつだ。

取引なんてのは逃げの方便で、本当はただの女遊びだ。

対して俺はここで一生後悔しながら働くことになるんだと思うと、苦しくて仕方がない。


23時、やっと仕事が終わった。

大量の残業、モラハラにパワハラ、いわゆるブラック企業で働いている俺は、この時間に帰るのが当たり前になっていた。


「さて、いつもの港に行きますか...」


俺は会社が終わると、毎日徒歩30分かけて海の見える小さな港に向かっていた。

船もほとんどなく、どこか寂れているその港には、ほとんど人はおらず、何故かブランコだけがあった。

寂れたブランコにゆっくりと腰をかけ、項垂れた。

「この海の匂いが...染みるんだよなぁ...俺はこれと夜凪先生の本しか生き甲斐なんてない...会社はブラックで彼女いない歴=年齢だし...もういっその事、死んでしまおうかな...なんて、1人で何言ってんだ、俺。」


「いいんじゃないですか。死んでも、辛いなら」

背後から突然、声が聞こえた。


声の持ち主は右足をゆっくりと引き摺りながら隣のブランコに腰掛け、キーキーと、ブランコを揺らし始めた。


ベージュのオーバーオールの上から黒くゆったりとしたジャケット、髪は真っ黒なボブカット。肌は触れたら消えてしまいそうなほど白く、まるで夜のような、とても美しい女性だった。


「こ、こんばんわ...」

突然話しかけられた俺は、とりあえず挨拶をした。


「こんばんわ。お隣よろしいでしょうか。まあもう隣にいるんですけどね。」

悪戯っぽくはにかむ笑顔がとても素敵だった。


「あ、あはは...」

ただでさえ異性とは話せないのに、突然詰め寄られるものだから、俺は目を逸らして海を見ていた。


「さっき、死にたいって仰ってましたけど、何かあったんですか。あ、言いたくないのなら、言わなくても結構です。」


「別に、たいした内容では無いですよ...会社で歳下にこき使われて、休みもなく、毎日残業...でも、生きるためにはそこで働かなくちゃ行けなくて、ただ...苦しくて、生きることって、本当に...苦しいなって...まあでもまだまだ頑張れますけどね、この港が、夜の情景が、唯一の支えです...」

ブランコをゆっくり揺らしながら、俺は俯いたまま話した。


「そうなんですね。何か支えになれるかなあ、なんて思ったけど、それは私にはどうしようもないや。」

困り顔になった彼女もまた、ブランコを揺らす。


「私もね、この夜の情景が大好きなんです。仕事柄、取材のために色々な場所に向かうのだけど、ここが、一番好きなんです。海が暗くて、夜の凪が美しくて、明日も頑張ろうって、満足できる日にしようって思うんです。だから、私の死に場所はここかなって。」


俺はブランコを揺らすのを辞めた。

彼女はまだ、ブランコを揺らしている。


「確かに、俺もここなら...満足して死ねる気がする。ここ、夜凪明日満先生の描く世界に似てるんです。夜に僕達は溶けていく。アイスクリームのように。次第に溶けて、何も残らなくなる。防波堤の向こう側...」


小説の一節を読み、ゆっくりとブランコから降り、防波堤の上に立った。


「私、あなたに話しかけとき言いましたよね。死にたいときは、死んでもいいって。それが、今だと思うんです。無理して慰めにここに来る必要はもう、無いんです。ここで、ずっとこの夜の凪に溶けてしまう方が、美しいじゃないですか。結局人間なんてアイスクリームと変わらないんですから。」


そこで俺は、ようやく気が付いた。

彼女が、何者なのかを。

「やっぱり貴方は...」


「私が誰かなんて、もう関係ないでしょう。どうせ、溶けてしまうのだから。」


そう言って彼女は防波堤の上に立つ僕の背中を押した。何の抵抗も、僕はしなかった。


これが、一番の幸せだと思ったから。



夜の凪に沈んでいく。

海の中から見える景色はぼやけていて、よくは見えない。

ただ、彼女が月に照らされながら手を振っている。それだけはハッキリと見えた。


スーツが重りとなって、沈んでいく。

人は所詮、アイスクリームだ。


そうして俺は、夜に溶けていった。


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夜凪、アイスクリーム うすい @usui_I

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