How to write it

 

 またもやうっかりこんなことを書き始めてしまった。しかし始めたからにはそれにとりかからなくてはならない。あらゆることに適用できる原則だが、この原則はあるものを覆い隠し含んでいる。始めたところで、それが何になるのかまでは、私たち人間の力では、およびもつかず、どうしようもないということだ。


 ところで、親愛なる作家志望諸君にお伝えしたいことがある。この種のクリエイティブライティングについてを書くことは、ある種の禁じ手だから、これをうっかり目にしてしまって自分もなにか創作論について展開したくなったのならば、どうかコーヒーでも飲んで気持ちを落ち着けて、こんやの夕食は豆腐か野菜料理かなんかで済ませることを強くおすすめする。


 血気盛んなあなたのことだから、すでに何がしかまとまった文章は書いていることと思う。それがこれまでとこれからの君の仕事で、このような創作論をぶちまけることは、その原稿に赤い赤いインクをぶちまけることなのです。つまり、創作ノート(笑)のように君を鎖で縛り付けて、自分で自分の首を絞めてしまうことになるのです。プロメテウスチェインの話は知っていますか。まあ、あんな具合にあんなことになってしまうから、気をつけてください。


 では、私がなぜこんなことをしているかというと、これは創作論を語る作家そのものを創作しているのです。理解しがたい行為だといまいぶかしんだあなた。では、どうして人に理解してほしい人がものなど書いているのですか。月夜の晩に歯がうずくのが、物書きの性質そのものなのですよ。


 とかく今の世の文明の利器というのは、人の役に立つばかりか、人を殺したくなるか、何か行動すべきであるし何か人には使命があるのだと錯覚させがちである。そう思いませんか? もしやるべきことやしたいことがあるのなら、人は途中で電車をおりるものだ。どうしていまさら意志の表明の必要や、啓示を受ける必要があるのですか。

 

 もしこれからのことを聞きたいのなら、臨済宗の扉の門をたたいて、こう質問したらいいのです。「わたしはなぜ生きているのか。」老師はいいます。「あなたが生きているということは、すでに生きているということです。」こんな具合に煙にまかれて、私たち日本人のスピリットは迷子になってしまったのですよ。おしまいおしまい。

 

 さて、フェザーのペンシルを手に取ってから今回これを書き始めたのだが(つまり、気持ちの問題ということ)、副題はすでに昨日の夕思いついたし、ただそれをとりあげさえすればよいだけである。なんという簡単な仕事なのだろう! 簡単すぎてこれから書くことなど、すでに問題などないような気がしてくる。まあしかし、義理人情のことを忘れるほど、私は現実を忘れていない。さっき書いたようなことは、私のペルソナが暴走してしまったために起こった事故である。どうか怒らないでください。


 察しのよいあなたならすでにお気づきのように、何かを書くということは、こんなにも偶然と都合とその日の胃の具合とありとあらゆる神経に支配されているのです。もしかしたらこれを読んでいる人の中に、かつて小説家になりたかったという特異な方がいらっしゃるかもしれません。あなたに書き上げたことのある小説はありますか? あったとして、それは誰かに見せましたか? 


 たぶんあなたが今会社の重役か社長か、地域の有力者になり、小説家になれなかったのは、あまりにも偶然が作用するこの危険に満ちた作業に、飛び込めなかったというだけで、何もあなたに才能がなかったわけではないのです。だからそんなにカリカリしないで、自分の通帳でも眺めて気持ちを落ち着けてみてください。たぶん、数字が数え切れないくらい並んでいるのでしょうね。

 

 文章とは、その特性上、驚くべきことに、みんなにそれぞれの才能があります。でもそれから長い文章を書くひとは、ほんのわずかです。どうしてなのでしょう。それは、あまりにも馬鹿ばかしくわかりきったことをこねくり回す時間があるほど、世間があなたの体を離さないからなのです。もっと言うと、こんなことをしている間に、何かすることというのが、人にはあるからなのです。思い当たる節があったようですね。そうです。普通はこんなことは、とてもじゃないけどしらふのときにはやれないくらい、無限の無意味さに満ち満ちているように見えるものなのです。


 しかし世の中には、ほんとうにふしぎなひとたちというものが、いるものです。かれらは無意味なものが大好きで、意味に意味づけられた意味ある行為というものに、意味もなく苦しみをかんじるものなのです。意味が重たい。つまり、息が出来ない。息をするために、破壊をしないといけない。でも人をきずつけたり殺したりなんか、もっとできない。そんなわけで、かれらは紙の上で破壊のかぎりをつくすのです。


 世の中はますますハイデガーが予見したように、有用・無用で区別されてゆきます。ひとびとはいいます。システムが問題なのだと。システムを変えさえすればよいことに、いちいち手間取るのは、賢い選択ではないと。差別をするものは、差別されるものなのだと。誰もが加害者であり、被害者なのだと。


 何かが違ってしまっているとはおもいませんか。わたしたちは社会の歯車の一部であるかもしれませんが、よくしたいと思っていないひとなど、ひとりもいないはずです。ではどうしてよくならないのか。答えはないです。いつまでも弱いものを殺しつづける私たちに、進歩など語れない。絶望は未来をつれてこない。できうることならばその場にいるものを救い、救われたものはまたそのようになるべく一人で立つ。それが普通のひとの本来の営みかたです。すくなくとも、わたしは一人立ち、おおくのひとが気軽に行う「そういうひと」というジャッチメントの檻には捕らわれたくない。それは厳しいことでしょうか。


 加害者は昔被害者だった。つまり「そういうひとだ」。社会が救うべき弱者である。しかし世の中はそこまで進歩していない。そういう方面にこそ私たちの世の中は改善の余地がある。システムの改善の余地がある。そこを改善すれば物事は円滑になる。ますます世の中は円滑になる。早く早く、もっともっと遠くへ。


 一見すると、全然悪い気持ちではないかもしれないが、決定的に間違った考えが底の方に転がっていると私は思います。私は底のほうをみる人間です。なぜなら、そのどん底をよく知っているうえに、いつでも思い返せるほどに忘れられない経験をしたからです。私の目にはたくさんのひとの優しげな言葉の底のほうに、できうることならば綺麗に整理をしてぱっと見てわかるようにしてほしいという、異常なほどの整理整頓の欲求が見えます。


 ナチスは克明な記録を残したそうです。あるひとびとは後にナチスを「あまりに理知的すぎる」と読んだ。ヒットラーはユダヤ人の少女を愛していました。大きな矛盾です。ナチスを英語に戻すとnationです。国民の為の政党でした。ユダヤ人など殴りつけておけばよい。ひとつの国家にひとつの民族。


 わたしには、ほとんどのひとがナチの残党に思えてしかたがありません。世の中が切り分けられたパイのように綺麗に分かれていれば、それがよいことなのでしょうか。加害者に人生の喜びはないのでしょうか。むしろそういうひとこそ、ささいなことに喜びを見出しているはずです。かれらは、静かな生活のいちばんの耽溺者です。被害者は、永遠に悩みに沈んで打ち砕かれているだけの存在なのでしょうか。そのひとの言葉には、力があります。その言葉は、ひとりの人間のために作られたように読むひとの心を打ち、ひとりだけでなくたくさんのひとに伝わります。


 綺麗な二項対立に満足しているのは、誰なのでしょうか。感じない反応しないという制御の充実に浸っているのは、だれなのでしょうか。システムのエラー、人の心を穿つ言葉、思いもしない一言、予期せぬ出来事。そんなものはここでは許されない。では、許すあなたはだれなのでしょう。


 ひとを思いどうりに動かしたいというのが、普通の人の内面です。自分にふさわしい友人、恋人。自分にふさわしいひとびとをセレクトする。バグが出れば徹底的に排除する。気に入らない人間の予期せぬ行動など、総力を結して排除すべき事項である。これは許されない。これはありえない。自分を脅かそうとしているのではないか? それが普通のひとです。これは誰にも動かしようがありません。そのひとにはいるのでしょうか。「そんなことをしていてはいけない」と言う友人が。恋人はその人が誰なのか、はっきり示してくれているのでしょうか。


 さて、もうそろそろわかったことがありますね。いかに書くか。それはですね、こんな風にどんづまりまでやってきて、ひねり出してから本番がやってくる。そういう運動が唯一の方法論なのですよ。あなたにそれができたなら、それはもう立派なひとつの奇跡です。いつでもよいからできあがったらぜひ見せてくださいね。
































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Happiness in Writing つちやすばる @subarut

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