Happiness in Writing

つちやすばる

Happiness in Writing

 私は元々絵が大好きで、画集も本棚が歪むほど集めてきたし、所謂マスターピースも展覧会にせっせと足を運んではその度に記憶喪失と軽い脳溢血を起こしてきたし、学生時代は肩の位置がずれるほど、大判の画集を家に持ち帰るため駅までの道を死にかけながら這い、とうとう健康診断で「背骨が変形していて、普通は痛いはずだ」と医者に言われているが、長年書架の前に立ち続けて鍛えられた足腰のせいか、なんなのか、不思議と痛くはない。その為に、私は人の力と神の存在を信じている。


 何の話かわからなくなる前に話を軌道修正すると、ようするに私は絵に憑りつかれた人間であり、映画もマンガも小説も絵があるから大好きなのであり(おやおや、挿絵付きを除いて小説には絵などありませんよ、という御方はここでさようならです)やや絵のないと思われる写真やドラマの類が遠く感じるのも、すべては心を通じてしか物事を認識できない私の特質によるものだろう。


 そのような特質をもっていない、それゆえに幸福に生きていけると思われる貴君の為に(あなたのことです)余計な説明をすると、このタイプの人間は、この地球上に存在するあらゆる無機質な表現物が、勝手に浮いたり動いたりし、5分でも見つめようものなら、精神がバラバラになり、おまけに訳もなく悲しくなってきて、他のストレスと混ぜ合わさると、悪いときにはさめざめと泣きだすという、傍からみれば社会不適応な人間になってしまう。つまり、社会不適合者である。


 一体何を言っているのか、という人達の為にももう少し説明すると(私が人生で一番避けているからここでは特別に)例えばここにひとつの小説があるとして、それは文法的にも修辞的にも中々「出来が良い」とされるものだとする。所謂仲間内で「すばらしい」と称賛される類の小説。ところがどうだろう、私の目から見ると(これはそのまま読んでいただきたいのだが)なんだか蛇の抜け殻が伸びきったような黒い文字が数行に、新聞記事を一字づつ切り取った殺害予告か、というような文章がでかでかと並び(けしてそんな内容なのでない)時折の台詞は読めはするが、それだけで読んだことにはならないので、これまた奇妙な果実よろしく目の前にぶら下がる死体のように、風でわずかに揺らめき、全然私の視線を定める役割を果たしてはくれない。勿論、全ては私のせいであり、その小説は少しもおかしなところはないばかりか、このインターネット時代にはこれこそがreadableでunmistakenな小説だ、とそのうちに評価され出すに違いない。きっとそうだ。


 私は文章を読むとき、書き手のカメラアイに乗り移って、ロードムービーを見るように読む。ところで、人はよく、思い浮かんだものから書こうとする。でもそれではわずかに遅い。何であれまず一行、拙くとも書き始め、書きながら宝石のように浮かびあがるものを大切にするべきで(この言葉は嫌いなのだが)ライフプロジェクトたる念願の小説とやらは、ワインのように熟成して眠らせて、ある日突然、その姿をわずかに見せてくれるチャンスを捕まえさえすればいい。捕まえられなかったら、また出会えるまでさようならだ。


 何の話だったか。そう、ロードムービーだ。私はそれをただ眺めている。書かれてある文字から、作者の宿した魂なのか、あるいは幽霊のような気配とでも言おうものなのか、それに気がつき、彼の(その幽霊のことだが)書きながら見えている内側の世界の映像をキャッチし、入りの悪いAM放送をチューニングするように合わせる。そうすることで文全体が、たとえようもない雰囲気を湛えて、目の前に迫ってくる。少しずつ声が聞こえる(ような)気がする。そう、わたしにとって文章とは声なのだ。


 恥ずかしい話なのだが、私がこうしてある程度まとまった文章を書き始めたとき、文章を書くとは記憶の再現なのだと思っていた。今では書くことは matter of fact(実地に即したもの)だからそのようなものは忘れるに限る、と思う(だって、つくることは自由だ)。あるいはそのような定義は、商品化され、派閥として認められる為には、ある程度不可欠なものであるが、私は日本の文壇や文芸雑誌や文学史的な営み等々エトセトラサムシングにいっさい関心がなく、日本の現代小説もほとんど読まず、作家の責務や行き詰まりや苦悩逡巡、世間に認められたいとか世間がそれを許さない、とかなんとか、作家志望の青年が必ず思い悩み足を絡み取られる事柄とは、一切付き合いがない。私にとって書くことは自由という言葉の意味そのものであり、部屋をほの明るく照らすランプであり、暖炉の前の対話であり、冬の朝の暖かいふとんのようなものなのである。ちょっとはずいですね。


 一枚一枚切り売りしてる専業作家のなかにも、そのような心持の人が一定数いると信じているが――いや、私にはどうでもいいことなのだ。人が何を売ろうと、小金を稼いでツイードのジャケッドや革靴や鞄やはたまた煉瓦造りのあたたかい家を買おうが――それだってその人にとっての自由なのだ。まあ、そういうわけで、記憶の再現とかなんとか、多分にプルースト的に文章に取り掛かる態度は、うっちゃってある。そしてこの駄文もついでにうっちゃいたいところなのだが、親切さと良心を思い出して結論をひねり出すと、この世のありとあらゆる文章は、その人の告白なのである。だから異性愛に飛び込めてないとか、潜在的な同性愛者であるとか、これは葬送の文学であるとか、希望へと向かう光とかなんとか、そんなふうに解釈して人の話をさえぎるのは、もったいないことなのだから、今日からそれを御終いにしましょう。そんなことより、君の話をきかせてください。すべての文学は、アンサーソングなのですから。













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