終章
終わる世界の中で、始まった世界に込めるもの
暗い。
周りには明かりは一つもなく、さざなみの音だけが耳に入ってくる。
青年は砂浜に一人孤独に座りながら、虚ろな目で海を眺めていた。
時刻は既に深夜の一時を過ぎている。いつもならば薬の影響で寝ているはずの時間だったが、今日は眠ることができない。家にいても落ち着なかった青年は、目的地も定めずまま車を走らせており、気づけば家から離れた場所にある、地元では有名な海岸に足を運んでいた。
「…………」
海沿いにいることや時間が深夜を回っているのもあり日中のうだるような暑さはなく、むしろ時折吹く風は涼しい。風に運ばれてくる潮の香りが、青年の涙の味を誤魔化してくれていた。
ようやく回復に向かい始めたはずの不眠症。それなのに、そう思った矢先に眠れなくなった。原因は分かりきっていることだ。
青年の頭の中に浮かぶのはあの女性の顔。一度しか会ってないはずの人物だが、なぜか明確に思い出すことができる。
あの日話したときには自殺をするような人間には青年の目には映っていなかった。事務員の、急に取り乱すなどという話が信じることができないくらには。
柔和。穏健。
そんな言葉がぴったりと当てはまるほど、優しい人柄を持った女性だと青年は認識していた。
いや、だからだろうか。
彼女が優しかったのは世界に対してだけ。その世界の中に自分は含まれていなかった。
そんな考えをあの女性を持つようになったのは必然だと言ってもいい。一番信頼が置けるはずの家族から疎まれることは、人間なら誰もが持っている最後のセーフハウスから追い出されることに等しい。
疎外感。
世界から自分だけがはじき出されたような感覚。
あの女性ほどではないものの、似たような経験を青年はしていた。
「楽に死ねたのかな……」
青年の呟きは波に消される。小さくため息を吐くと、青年は後ろへ寝転んだ。勢いがよかったが衝撃は全て砂が吸収してくれたおかげで青年の後頭部に痛みはない。眺めた空には、満天の星空が浮かんでいた。
正直なことを言うと、青年は彼女の自殺に対して肯定的だった。むしろ、尊敬さえもしてるほどだった。
青年も女性と似たような状況に陥ったとき自殺を考えた。しかし、考えただけ。青年が持つ弱さ故に、女性のように行動に移せることはなく未遂にすらならなかった。
あんなことで自殺をするなんて馬鹿らしい。
などとは時間がある程度過ぎた今でも思っていない。悩みに悩んだ挙げ句、しばらくは休学するという手段を取ったがその期間ももうすぐ終わる。
休学期間が明ければ再び大学へと通い始めなければならない。休校期間を延長するという手もあるが結局それは答えの先延ばし。現実から目を逸らしているだけに過ぎない。
だからこそ、自殺という手段を選ぶことができた女性の強さを青年は素直に認めていた。ただの逃げ、周りを不幸にさせただけの臆病者と揶揄する人間もいるだろうが、青年はとてもそうとは考えられなかった。
立ち向かうだけが強さではない。逃げ出すことだって立派な生存本能だ。
あの女性は逃げた先に道がなかっただけ。いや、道はあった。彼女にしか見えていなかっただけだ。
肉親や血を分けた妹ですら理解できない彼女の強さは青年にしか理解できない。それは弱者だからこそ。
立ち向かう強さは知らず、逃げ出す勇気しか持ち得なかったからこそ。
そして、ここにももう一つ、今にも終わりそうな命があることに青年は気づいていない。気づけるはずもない。
見ないふりをしている現実。
その中に青年が拒絶している命があることを。
「星が綺麗だよなぁ」
突然現れた第三者の声に青年は驚いたように飛び上がる。心臓は口から飛び出そうなほど跳ね、その余韻といて強く青年の胸を叩き続けた。
青年は首を左右へ千切れるほど振り回し、声の主を探そうとする。聞こえたのは女性の声。ここ最近で出会った女性といえば、あの憎たらしい占い師がその声とは違う。男女問わず友人の少ない青年であることも多少関係するが、その声には聞き覚えはなかった。
そのはず。
そのはずだったが、その声はどこか懐かしさも感じられた。
驚きと懐古。
その二つの感情の間を行ったり来たりを繰り替えながら周囲を探し続けると、ようやく声の主を青年は探し当てる。
青年の背後に立って星を眺めていた声の主は、自分への視線に気づき顔を青年の方へ向けた。
そこにいるのは一人の少女。年齢は青年よりも少し若い。端正な顔立ちをしており、腰まである長い銀髪は明かりがない暗闇であるにも関わらず、淡く輝いているように見えた。
まとう雰囲気は年齢にそぐわない大人っぽさを感じさせたが、ポロシャツにショートパンツという女性にしては単純すぎる服装が、その雰囲気を中和していた。
「や〜っと会えたぜ、コンチクショウ!」
嬉しそうに笑顔を浮かべながら少女は青年へ近づき、思い切り頭を叩く。小気味よい音が砂浜に鳴り響くと、その衝撃でどこか少女が浮世離れしているかのように感じて別のところへ飛んでいた青年の意識が現実へと返ってきた。
「八一九回、何の数字か分かるか?」
「知るかよ……ってか、誰だよお前!」
ニコニコと無邪気な笑顔を浮かべる少女に反して、青年は意味も分からず頭を叩かれ腹を立てている様子だった。
「……話に聞いてた通り、か」
青年の言葉を聞いて一瞬少女が曇る。しかし、すぐに笑顔を取り戻し「べっつにいーけどよぉ!」と、豪快に言い放ち青年の隣へ腰を下ろした。
「お? どうしたんだ、泣いてんのか?」
少女に指摘され慌てて青年が涙を手で拭う。しかし、手に張り付いた小さな砂が拭ったときに目に入ったせいで余計に涙が出てくる。少女は青年の様子を見てケラケラと意地悪そうに笑って見ていた。
「なんだなんだぁ、悲しいことでも会ったのかよ? お姉さんに言ってみろよ、少しは楽になるかもしんないぜ」
「誰がお姉さんだよ。年下だろ、お前」
涙は止まったが、代わりに目を充血させながら青年は少女を睨む。
「はぁ? アタシはアンタより遥かに年上だっつ―の。敬語使えよな、け、い、ご!」
少女はいーっと青年に歯を向く。青年よりも年上だと言い張りながらも、所作の一つ一つが子供っぽい。その姿はなにかに喜んでいるようにも見えた。
「見え透いた嘘すぎるだろ……」
「嘘ついてんのはどっちだよ! アタシとの約束を気持ちいいくらい忘れやがってよぉ!」
「約束? なんのことだよ、そもそも俺とお前は初対面だし、約束もクソもないだろうが!」
「へーへー、もういいですよーだっ」
少女は舌を突き出しそっぽを向く。青年は「何なんだよ……」と、訝しげに少女を見ながら言うと、それ以上会話を続けることはなかった。
突然現れた謎の少女。少女は青年を知っているような物言いだったが、青年には会った覚えも話した覚えもない。もし、一度でも顔を合わせて言葉を交わしているのであればこんな奇天烈な少女を忘れるわけがなかった。
しかし、青年の記憶には存在しないはずの少女にどこか懐かしさも感じている。その懐かしさが出てくるのはどこからか。頭を捻っても見えてこない。もしくは、無意識に見ないようにしているだけか。
波が寄せては返すを何度か繰り返した後、少女は静かに口を開いた。
「……で、なんで泣いてたんだよ」
少女の口調はさっきの小馬鹿にしたような言い方ではなく、優しい口調だった。青年は誰かも不明な少女に自分の身の上話をする必要ないと思い口を閉ざしたままだったが、やがてため息交じりに「知り合いが……死んだんだ」と、簡潔に答えた。
「その人はアンタにとって大切な人だったのか?」
「そんな大層な相手じゃない。一度だけ話したことがあるだけで、知り合いとすら呼べないかもな」
「その割にはえらく傷心気味だったんじゃないか?」
「そう……なんだよな。実を言うと、俺にも分かんないんだよ。大した関係じゃないはずなのにさ」
言いながら青年の頭の中にあの女性の顔が浮かぶ。途端に目に溢れ出しそうになった。青年はとっさに頭を振って乱暴に女性の顔を掻き消し、涙の奔流を無理やり抑え込む。
「悪い、自分でも言ってて意味分かんねえって思ったわ」
「んなこたぁねえよ。簡単な話じゃねえか」
「……? どこかだよ」
「要は、アンタはその人が死んで悲しかったんだろ? 誰かがいなくなって涙が出る理由なんて、それ以外はないさ」
至極単純な答え。しかし、あながち間違いでもない。
少女の答えに「そうなのかねぇ……」と、青年は呟くも言葉とは裏腹に妙に納得している部分もあった。
「人間、悲しくなったら海に来るもんだよ。アタシの知ってる奴もそうだったし――もっとも、アンタはそれだけじゃなさそうだけど」
少女の言葉に青年はドキリとする。自分の心が見透かされているような気分になり、丸い目で少女を見た。
「……よく分かったな。お前が来なかったら多分、俺は今頃海の中だろうな」
青年は自身が自殺を図ろうとしていたことを素直に吐露する。今までずっと抱えていた、しかし誰にも話すことはなく、実行に移せるわけでもない、もうどうしようもないほどまでに腐り果てた思いを青年は初めて言葉にした。
最初から自殺をするために海に来たわけではない。ただ、海を眺めながらあの女性のことを考えていると自然に浮かんだ考え。自分では行けなかった幻想の世界に姿を消した彼女。その事実は現実に縋りながらも幻想を求めていた青年にとって勇気を与えるものになっていた。
「ほぅ? その言い方だとまるで今は違うみたいに聞こえるが?」
「実際その通りだよ。何でかは分かんないけど、今はそんな気持ちはない。……完全にってわけじゃないけどさ」
青年の言う通り自殺を願う気持ちがなくなったわけではない。ふとした拍子に顔を出さないとも限らないのだ。なにせ青年を取り巻く問題は悲しいほど解決していない。事態が進んだ方向によっては今度こそ簡単に命を可能性だってゼロではなかった。
「多分、お前のおかげなんだよな。お前を見てたら――」
少女の方へ青年は振り向いたが、さっきまでいたはずの少女がそこにはなかった。
消えた。
手品のような消えっぷりにあの少女は自分が生んだ幻かと疑ったが、そんな馬鹿げた考えはすぐに失せる。
青年の隣には確かに少女が座っていた跡が残っていた。
確かに少女は実在した。現実に存在していた。
慌てて探しに行こうと青年が立ち上がろうとした瞬間、少女が今までいたはずの反対方向から急に姿を表した。
「っぶねー……マジで危なかったわ……」
消えたと思ったら再び現れた少女に対し、青年は戸惑いを隠せない。震える指で少女を指差し、声にならない声を出すことで精一杯だった。
「悪い悪い。こっちの都合だ、気にしなくても大丈夫だぜ」
何が起きたのか把握できていない青年に対し少女は親指を立てて軽快に笑う。気にするなと言われてもそれは無理な話だったが、少女は困惑する青年をよそに勢いよくその場に座った。
「なあ」
もう時間は残されていない。
この世界にも、少女にも。
体ごと青年の方へ向き、じっと少女は見つめる。未だ目を丸くする青年に静かに、しかし力強く少女は尋ねた。
「アタシのこと、覚えてるか?」
少女の問いに青年は答えることができない。
意味が分からなかった。
質問の意味も、目から溢れる涙の意味も。
もう少し時間があれば青年にも理解できたかもしれないが、今まで見ないふりをし続けてきた青年にその猶予は残されていない。だが、微かではあるが、青年の中にまだ残っている。
あの日の約束が。
その涙で、少女は全てを理解した。
「……そっか。間に合ったんだな、アタシ」
少女の口元が緩み、目尻に涙が浮かぶ。
あの日全て流れ切ったと思っていた少女の涙は枯れることを知らないようだった。
「ごめん……俺、俺は――俺たちは……!」
「いーんだよ、謝らなくって」
涙を流し続ける青年の肩を優しく少女は叩く。
もう二度と会えないかと思っていた。約束を忘れられたと思っていた。
でも、違った。
時間はかかったが、こうしてもう一度巡り合うことができた。
会いたかったあの人と、そして――
「アタシは、アンタらに会いに来たんだ」
少女は青年を両手で抱きしめる。青年よりも小柄な少女の体は抱きしめると壊れてしまいそうだった。震える手で、壊れないように、どこにもいかないように青年も少女を抱きしめた。
「ゆっくりと時間をかけて思い出していけばいい。時間は幾らでもあるんだ」
それが叶わぬ願いだと知っていながらも、幻想に生きる彼女は嘘をつく。
あの日の嘘の続きを夢見て。
「まっ、兎にも角にも――」
少女は青年から体を離し、青年の手を引きながら立ち上がる。
「海底二万マイルまで、潜ってみるか!」
少女は笑う。
もうすぐ終わる世界の中で。
始まったばかりの、世界に向けて。
世界の表側より、××を込めて わさび醤油 @syou_yu
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