3-2 終わる世界
「最近調子が良さそうですね」
医師は青年を横目に見ながらそう切り出した。
青年の目の下にあったクマは以前よりも薄くなってきている。こころなしか顔色も普段より健康的な色をしていた。
「最近眠れるようになりまして」
「と、いうことは……夢を見ることが少なくなりました?」
「全く見なくなったわけではないですけど、以前に比べると少なくなりましたね」
「いい傾向ですね」
少しだけ医師の口角が上がる。相変わらずパソコンと向き合っているので表情全てを見ることは叶わないが、横顔でも青年は医師の笑っているところは初めてだった。
「あの占い師はどうでしたか?」
医師が出した話題に青年の顔は曇る。できることなら触れないでおきたい話題だった。
青年が占い――と呼ぶべきか疑わしいもの――をしてもらってから二週間。青年の濁った気持ちとは裏腹に、あの日を境にして少しずつではあるが夢を見る頻度は減少しつつあった。
間違っても占い師のおかげだとは考えたくなかったのでたまたまタイミングが良かっただけだと思い込むように青年はしているが、心のどこかでもしかすると、と思う自分がいるのも事実として存在する。
矛盾する感情に決着をつけずにいられるので青年は意図的に占いをしてもらった日のことは思い出さないようにしていた。
「よく分かりませんでした」
青年は曖昧な返事をする。その返事でなにかを察したのか医師は「そうでしたか」と、それ以上はなにも言わなかった。
「……そうですね、どうでしょう。薬の量を減らしてみますか?」
「あー……」
このまま順調にいけば夢は見なくなる。そうすれば青年が抱える不眠症はおのずと回復するだろう。今もそれほど多い量の薬を飲んでいるわけではないが、量を減らせるのならばそれに越したことはない。
「そう、ですね。一度減らしても大丈夫か様子を見ときます」
「分かりました。では、薬は変えずに量だけ少なくしておきますので」
「お願いします」
「もしまた眠れなくなったりしたら相談してください。適宜、量を調節していきますので」
医師はキーボードを叩き、今言った内容を青年のカルテに打ち込んでいく。慣れた手付きでタイピングは進み、あっという間に終了した。
「では、今日はこれで」
「ありがとうございます」
「次回も二週間後で大丈夫ですか? 時間は午前の十時からになりますが」
「いいですよ、そこで」
「ではそこに予約しておきますので。お疲れ様でした」
医師に軽く会釈をして診察室から青年が出ていく。待合室に戻ると二人ほどの患者がおり、それぞれ離れた位置のソファに腰掛けていた。その中にあの日見た女性はおらず、青年は二人の間にあるソファに腰掛けた。
携帯を眺めながら適当に時間をつぶす。それほど時間が経つこともなく、青年は名前を呼ばれ会計をしに受付へと向かう。
「お会計、二〇〇〇円になります」
受付にいたのはあの若い事務員。会うのは初めてあの女性と話した日以来であり、同時にあの日を境に女性を見ることもなくなっていた。
「そういえば」
「はい?」
財布からお金を取り出しながら青年が事務員に話しかける。
「あの女の人、あれから見ないですね」
青年からしてみればただの世間話。普段ならばしないことだったが一度話したことがある人だったことと、睡眠不足が多少改善されたことにより青年自身は気づいていないが機嫌が良くなっていたせいもあった。
「あぁ……あの人、ですか」
トレーに料金を置く青年の手が止まる。
青年からしてみればただの軽い気持ちでかけたはずの話題のはずだったが、事務員の顔は明らかに暗い。
とりあえず料金をトレーに置き、事務員の様子が気になった青年は「どうかしたんですか」と、心配する声をかけた。
それはどちらを心配知る声だったのか。
単純に事務員か。それとも――。
「いえ、大丈夫です。何でもないです……丁度お預かりしますね」
そう答える事務員の顔色は芳しくない。それがより一層青年の不安を大きくさせ、柄にもなく事務員に青年が詰め寄る。
「なにかあったんですか?」
「…………」
事務員はなにも答えない。しばらく事務員は俯いたままだったが、顔からなにかが溢れる。
涙。
一粒落ちた涙はやがて数を増やしていき、次々と事務員の顔から溢れていった。次第に小さくではあるが嗚咽も交じるようになり、青年は困惑しつつも「すいません……! すいません……!」と、小声で謎の謝罪を事務員にかける。
青年を困らせていると理解し事務員は涙を手で拭きながら顔を上げる。涙は止まることはなかったが、嗚咽は止まった。
「すいません……もう大丈夫ですから」
そうは言いつつも現在進行系で涙を流し続ける事務員の言葉を青年が素直に受け取ることは難しい。ポケットからハンカチを取り出すと、青年は事務員に差し出した。そのハンカチはあの日女性から受け取ったもの。ここにお互い通っている以上は会えるだろう。そう考えていた青年は通院する日には必ず持ち歩くようにしていた。こういう形で、しかも今度は自分が差し出す側になるとは思ってもいなかったが。
「あっ……」
そのハンカチを見て事務員が声を漏らす。収まりかけていた涙は再び溢れ出し、止まったはずの嗚咽は前よりも更に大きくなった。
さすがに不審に思ったのか待合室にいる他の患者がじろじろと青年へと視線を向ける。なにか言ってくることはなかったが、明らかに青年のことを不審がっているのは間違いない。
当の青年は善意でハンカチを差し出したつもりだったが余計に泣かせてしまう結果になってしまい、どうすればいいか困惑していた。
泣き続ける事務員。右往左往する青年。不審がる患者。
事態の収集は時間がつけてくれた。
ようやく事務員が泣き止み鼻声で「ありがどうございまず」と、言いながら青年が差し出したハンカチを受け取る。ハンカチで涙を拭くと気分が落ち着いたのか、それ以上涙が溢れることはなかった。
ようやく落ち着いた事務員を目にして青年も胸をなでおろす。一応の事態の決着がついたおかげか、他の患者も青年へ視線を向けることはなくなったが不審さが完全に消えたわけではなかった。
「……すいません、取り乱してしまって」
事務員は深々と頭を下げる。
「いやいや、こっちこそ何だかすいませんでした」
「このハンカチ……あの人のですよね?」
そこで青年は失念していたことに気づく。この事務員はあの女性に対してあまりいい感情を持ち合わせていなかった。それなのに、毛嫌いしている人の私物を渡すのは――又貸しをしている点はともかく――些かデリカシーがなかったか。
しかし、同時に青年の中に生まれる一つの疑問。
どうしてこのハンカチがあの女性のものだとすぐに分かったのだろうか。普通ならば青年のものだと考えるはず。それなのに、この事務員はあの女性のものだと分かった。その言い方はまるで、最初から知っていたかのように。
青年が借りたところを見ていたのだろうか。
果たして、青年の疑問はすぐに晴れることになる。
「これを持っていたのって――私の姉なんですよ」
「……え?」
唐突に告げられた事実に青年は驚きを隠せない様子でいる。驚く青年を見て事務員は再び頭を下げた。
「すいません。最初に話しておくべきでしたね」
「いや……えっ? どういうことですか?」
「……私と姉はそこまで仲が良くなかったんですよ。一方的に私が嫌っていただけでしたけどね。だからあの人の妹だって思われるのが正直嫌で……黙っていてすいませんでした」
「はぁ……」
とりあえずはこの事務員とあの女性が姉妹だということは青年は理解することができた。しかし、肝心のなぜ泣いたのかは未だ分からないまま。
「ハンカチ、ありがとうございます。姉には私の方から返しておきますので」
事務員は話はこれで終わりだと言わんばかりに料金を受け取り、レジに仕舞う。
なにかをはぐらかそうとする事務員の姿を見ながら、彼女の言葉にどこか引っかかるようなものを青年は感じる。
なぜ過去形で話をするのか。
その疑問の意図するところとは――
「……間違ってたら、すいません」
青年は一泊を置いてから次の言葉を言おうとする。できることなら間違っていてほしい。その言葉の先にあるものは、悲しみだけということが分かっていたから。
「お姉さんは……自殺を?」
青年の言葉に事務員は小さく頷く。
一気に体から力が抜けていく。青年はその場に座り込みそうになってしまったが、カウンターに手を置き踏ん張ったおかげで、足はしっかりと地面を踏みしめたままでいる。
言葉が出なかった。
なんと声をかければいいのか分からなかった。
できることはその場にウドの大木のように立ち尽くすことだけ。たった一度話しただけの相手であっても、死んだという事実は青年の顔にも暗い影を落とす。
「あの日……貴方と話した数日後に亡くなりました。遺書には、こんな自分でも誰かの役に立てて嬉しかったって……」
誰かの役に立つ。
それは青年にハンカチを渡したこと。
ずっと、ずっとずっとっずっと。
両親から、妹からも。
疎まれ続けてきた自分にとって、生きていてはいけないんだと思っていた自分にとって。
誰かの役に立つことなんて一生ないと思っていた。でも、それは違った。
あの日、青年と出会えたことで世間から見ればほんの少し、だが彼女にとって大きな意味を生んだ。
それは希望だったのか、絶望だったのかは今では分からない。
姉の死を思い出してしまったのか、事務員の目には再び大粒の涙が浮かぶ。
あの女性は希望を抱いて死んだ。
青年にできることは、そう願うことだけだった。
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