始まりの1ページ

三上優記

『想像の外へ』

 違う世界との邂逅、ページを伝う紙の質感、文字の囁きを通じて頭の中で広がる世界は、何よりも美しく見えた。

 本を閉じ、顔をあげる。帰ってきたこの世界は、なんて無味乾燥でつまらないのだろう。詰襟が首を絞めつけて、どうにも苦しくて堪らない。僕を夢の世界から連れ帰るチャイムの音。教室に帰っても、誰かといても、この、どうにも無味乾燥な感じからは逃げられない。

 それでも帰らなくてはいけない。大きな溜息を1つ零し、僕は本を書棚に戻して踵を返した。

 高校に入っても、それが続くと思っていた。引っ込み思案が祟って友達もできなかった僕は、昼休みご飯を食べ終わると、いつも逃げるように図書室に向かった。

 いつも通り本を読んでもいいけど、今日は――――鞄からノートを取り出して、机の上に広げた。

 白い紙。何を書いてもいい。気ままに、自由に、僕だけの世界を紡げる礎。その白が少しずつ黒い鉛筆で書かれた文字によって、僕の世界の1つへ変わっていく。わくわくするような物語のトロッコに僕を乗せてくれる。心が弾むような場所へ連れ出してくれる。この紙が世界のドア、この鉛筆が世界のマスターキー。紙とペンさえあればいい。それだけで、僕を夢幻の旅路へ連れ出してくれる。

 僕の心がふわりと違う世界へ飛んでいく、心地いい感覚に酔いしれていく――――。

「あれ、君何書いているの?」

 ガツン、という音が、頭の中に響いた。不意に意識が引き戻されて、帰ってくる。僕の目の前にいるのは、快活そうな見知らぬ男の子。

「あぁ、いや、これは、その……」

 浮かんでいた風船が、しぼんで落ちていく図が頭の中に浮かんだ。ノートを急いで閉じる。この人誰だろう? クラスの人?

「小説を書いているの? 読ませてよ」

「え、でも、その……」

「いいからさ」

 怯える僕に構わず、手を伸ばしてくる。でもなぜか抗えない。まるでその手に引力でもあるかのようだった。僕はその引力に逆らえず、おずおずとノートを差し出した。彼はそれを見て、ありがとうと微笑んだ。

 ページをめくり、しばらく僕の話をじっと読んでいた彼は、溜息を吐いて、ゆっくりとノートを閉じた。

「……やっと見つけた。これならいけるな」

 どういうこと? 見つけた? 彼は困惑する僕にノートを返すと、僕の目をじっと見つめた。

「俺さ、映画を作りたくて、仲間を探しているんだけど、君、俺と一緒に映画を作ってみないか? 君の話を映画にしたら、絶対面白いと思うんだ。……どうかな?」

 キラキラと光る彼の目を見ていると、不思議と僕の心が震えるのが分かった。わくわくするような、心が弾むような感覚。

「――――俺は岩田翔。君の名前は?」

「……沼宮、聡」

 それは、本の中の世界と、よく似ていた。


 僕の頭の中の世界が、映像をもって、実体になって、この世界に現れる。

「では、本番いきます! シーン15、5秒前、4、3……」

 沢山の人たちが、僕たちの世界を表現するために、命を注いでいく。

 そうすると、今まで宙にふわふわ浮いていた世界が、一気にくっきりと輪郭を帯びて、僕らの目の前に現れる。

 役者さんの構えた剣に、コンピューターで炎を乗せるとあたかも、剣に炎が宿ったかのように見えてくる。画面に描かれた妖精の泉が、何もなかった空間に現れる。魔法が、リアルに、降りてくる。

 現実になかった世界が、現実になる、あの瞬間。

「な? 面白いだろ? ぬーさん」

「凄い。……凄いよ、かっち! こんなことが出来るんだね……!」

 君は魔法使いだった。僕の世界を現実にしてくれる、魔法使い。僕の世界をちゃんと分かってくれて、一緒に世界を作り上げてくれる人。最高の相棒。

 画面に馴染んだ美しい炎と澄みきった水面を見て、僕はその時、それを確信したんだ。



「随分と情熱的な告白だな。それを女の子に言うアテはないのかよ?」

「冗談はよして欲しいな。真剣にそう思っていたんだよ、こっちは」

 珍しく頼んだ赤ワインのグラスをくるりと回して、かっちが笑った。流石にちょっと皺が増えたな。居酒屋の明かりに照らされて、こうやって相対して座っているとそれがよく分かる。

「……それって、今も?」

「……今もそう思ってなかったら、こうして一緒に働いてないでしょ」

 その言葉にあははと大笑いする。全く……言わせた癖に。

「ただ、少し驚いた」

「何が? ……僕がこんな真似をしてしまったことに?」

「いや、違う。君が現実の世界をそんなに……つまらないと思っていたことに、だよ」

 コトリ、と中身の減ったグラスが置かれる。

「今のぬーさんからは、想像もつかない。君はもっと目の前にあるものを見て、色んなものを感じ取れる人だとずっと思ってたから」

「でも現実世界が不満だから、何かを想像し、作ろうとするものじゃないのかな。もし、今いる場所が1番いいと思えるなら、それこそ別の世界を夢想することもないんじゃない?」

 あぁ、確かに……とかっちが考え込む。

「そうだな、だけど不満がなくても、こう、こういうものがあったらいいな、とかこういうものが欲しいな、から何かが出来ていく場合もあるだろ? それだって物を作る原動力だ」

 ううん、確かに。今度は僕が考え込む。互いにグラスから酒を飲んだ。アルコールの熱が喉を流れていく。

「うん……そうだね。君に出会う前は、現実世界というものは実につまらないものだと思っていたのは、事実だよ」

「なんで更に墓穴を掘ろうとしているんだよ。これ、終電逃したら大変なことになるんじゃないか? 万が一何かあったら明日会社で会うの、凄く気まずいぞ」

「茶化さないでくれる? まぁその、言い回しが大分ロマンチックになってしまったのは認めるけど、こう表現するしかなかったんだ。君に会うまでの僕は、世界が本当に退屈にしか思えなくて……周りに溶け込もうとせずに本ばかり読んでいたんだ。

……想像の世界に生きる方がずっといいと思っていたから」

 かっちの顔から笑みと赤みが消える。

「それは、もしかして、虐められていたから、とか……?」

「いいや。虐められてはいなかったよ。単純に……退屈だったのだろうね。中学生の時は特にそうだった。周りの同級生たちも先生も勉強も……どうにも面白いと思えなかった。誰々がと付き合いたいとか、期末テストの点数の比べあいとか……どうも、ね。本だけが楽しみだったんだ。誰とも話さず、授業も聞く気になれなくて……ずっと本を読んでいた。森絵都とか、有川浩とか、海外の作家だと、カズオ・イシグロとか、色々」

「カズオ・イシグロを読む中学生ってませ過ぎてないか? ぬーさん、どんだけ老成した中学生だったの。……それはそれとして、退屈って、どういうこと?」

「申し訳ないけど、そうとしか言えないんだ。なんで魔法は現実にないんだろう、とか、心震わせるような冒険譚はここにはないんだろうとか、部活で繰り広げられる人間関係は本みたいに綺麗じゃないんだろう、とか……そんなことばかり思ってた」

 そこで僕は顔をあげて、まっすぐ彼を見つめた。

「でも、君に出会って、それが変わったんだ。想像の世界を、現実にすることが……あんなに楽しいものだって分かったから。だから……ここにいるのも、いいなと思えた。

君だけじゃない、君の周りの人たちは面白いと思えたし、一緒にいて楽しかった。

だから……ありがとう。君がいてくれて、本当に良かった」

 僕の言葉を聞いて、かっちは満足そうに笑って酒を煽った。

「そうか。俺がぬーさんを本の世界から現実世界へ連れ出しちゃったんだな。なら、その責任は取らないとなぁ」

「……責任って?」

「ちゃんと、この現実世界は楽しいと、君に思ってもらい続けるってことだよ」

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