信じない者は・・・だからお前は救われない!(信じる者は救われる)

ninjin

信じる者は 救われる?

 昼下がりの 空港のロビーで

 君が僕のチケット 握りしめたまま

 伏し目がちな君と 瞳合わす度に

 僕は作り笑いで 言葉にならない


 銀色の 翼生えた飛行機が

 屋上のフェンス越しに やけに冷たい

 手を伸ばし駆け出した 子ども達の叫び声が

 翼を震わす音で かき消されて往く



 先週の週末、いきなり上司から呼び出された僕は、二週間後の本社移動を命じられた。

「辛島くん、おめでとう。君の、達ての希望通り、本社勤務が認められました。良かった、本当に良かった。私も鼻が高いですよ。いや、君のような優秀な部下を本社に獲られてしまうのは、ちょっとばかり残念な気持ちも在りますが、それより、君がこの支社から本社に栄転出来ることは、私にとっても栄誉なことですからね」

 そう言って手を差し伸べる上司の上島部長(48歳)は、実は僕の直属の上司ではなく、支店人事部の部長だった。因みに僕の所属は営業部である。

 この部長が、僕の転勤を本気で喜んでいる訳はない。

 いや、逆か。

 僕をこの支店から追い出すことが出来て、してやったりと、思っているのか・・・。

 確かに僕は、大学を卒業してこの会社に入り、入社当初は、将来的には東京本社での勤務を希望していた。何故なら、一度は東京での勤務を経験しなければ、この会社では上位の職級に就くことがほぼ不可能だからだ。

 この上島という男もそうだ。元々こちら(地元)の人間ではなく、本社からの派遣みたいなものだ。

 その上島部長とは少なからずの因縁が、僕には在った。

 現在入社五年目の僕が、三年目を迎えた年の春の人事異動で、この支社にやって来た彼は、こともあろうに、当時僕と交際していた人事部の安田良美にちょっかいを出し始めたのだ。

 いや、倫理的、道徳的には問題はないのだ。彼は既に一度離婚をしていて、独身の男性であり、不倫や浮気と言った類の、不義理を犯している訳ではなかったし、良美と僕が付き合っていることも当初は知らないはずだった。

 良美は言う。

「今度来た、うちの部長、ちょっとダンディで、すっごくイケてる大人って感じなんだけど、知ってる?もう会った?」

 僕はあまり良い感じはしなかったが、それでも敢て角が立つような否定はせず、「へぇ、そうなんだぁ。それで性格も良ければいうこと無いじゃん」、そう言って気のないフリの受け答えをするだけだった。

「それがさ、性格も良いって言うか、兎に角、優しくて、色々部下に気遣いが在るっていうかさぁ、それでいて仕事もちゃんとこなしてる感じ?この前さ、人事部の飲み会があったんだけど、話も面白くて、『休みの日は何されてるんですか?』って誰かが訊いたら、趣味のダイビングですって。凄くない?住んでるのも3LDKのマンションに一人暮らしっていうし、仕事も遊びも確りやります、みたいな・・・ねぇ、聞いてる?」

 良美の話を聞いていない訳ではなかった。ただ、その話に対して思っていたのは、『人事部の仕事って、そんな大層なしごとか?』とか、『そりゃ、48歳独身で、然も部長職なんだから、住むところもそうだし、趣味にだってお金は掛けられるだろうさ』などと、殆どひがみみたいなことだった。

「いいなぁ、あの大人な感じ。あんなおじ様だったら、歳が離れてたって関係ないなぁ」

 僕は少し腹が立った。酷く腹を立てた訳ではない。ほんの少しだ。

「そんなにその部長が良ければ、その部長に君からアプローチすれば良いじゃないか」

「はぁ?なに?ひょっとして、妬いてんの?」

「アホか」

 確かに僕は、妬いていたのだろうと思う。

 良美と付き合い始めて一年半が経ち、何となくお互いの行動パターンや、思考の回路が分かり始め、付き合い初めの頃の新鮮さというか、ヴィヴィッドな感じが薄れてきていることは否めなかった。当時、特にそのことをどうにかしたいとか、このマンネリ感は不味いとか、真剣に考えていた訳ではないが、それがちょっとした悩みと言えば悩みだったかもしれない。

 しかしそれは、僕以外の周りの人間からすると、何とも贅沢な悩みだったに違いない。僕等は二人の交際自体を周囲に気取られないように隠していたが、もしそれがバレたら、良美と僕とは何とも不釣り合いなカップルだと、周りのほぼ全員から思われたであろうことは、全く想像に難くない。

 良美は年齢こそ同い年だが、実は会社では僕より二年先輩だった。

 良美は短大を卒業後、この会社に入社して人事部配属になり、四年制大学卒の僕は、その二年後に入社したのだ。

 既に二年の会社勤めをしている良美は、彼女のその可愛らしい容姿と、よく気の利く立ち居振る舞いで、社内だけでなく、出入りの業者などの間でも噂の女性だったようだ。

 僕も入社当時、人事部主催の社員研修の折に初めて彼女と会って、優しく、そして丁寧に新入社員の面倒をみてくれる姿に、ほぼ一目惚れ状態だった(何よりその容姿は、僕の好みに100%合致していた)。

 正直、そんな彼女と、入社間もないペーペーの僕が付き合うことになるとは、周りは愚か、僕自身も想像さえ出来なかった。

 それがどういう訳だか、その半年後、良美と僕は付き合いを始めることになっていた。

 『どういう訳だか』と言ったが、実は理由は在る。

 それは入社から半年が過ぎた秋の始まりの頃、僕は営業の外回りの帰りに立ち寄ったカフェバーで、偶然、良美に遇った。時刻は午後の七時頃だったと思う。

 良美も会社帰りに独りで来たらしく、僕等二人は一緒に飲むことになった。良美は時々独りでそのカフェバーに顔を出すと言い、その店のマスターが、高校時代の先輩なのだそうだ。

 良美が独りで来店する理由は、知りもしないし、全く気にもしなかったが、それよりも僕にとっては、ここで良美に出会えた偶然に感謝しながら、しかし同時に、一体何の話をすれば良いのかと考え込んでしまうという、何とも歯痒く、情けない状況に陥っていた自分を、どうやってそこから脱却させるかが急務だった。

 どう考えてもぎこちない僕の態度や話しぶりに、そろそろ良美が飽き始めているのではないかとの不安が募り始めた午後八時過ぎ、店にふらりと入って来た男性客に、良美は小さく「あっ」と声を上げる。

 その男性は何ともその店にそぐわない、和装の着流しに羽織り、頭にはハンチング帽という出で立ちで、中年というより若干歳の行った風体の彼は、店に入ると、一度ぐるっと店内を見渡し、それから如何にも雰囲気のある感じで、店内一番奥のテーブルに就いた。

 良美が声を潜めて僕に話し掛ける。

「ねぇねぇ、辛島さん、あの人、知ってます?」

 有名人なのだろうか?僕の知らない役者さんか何かなのか、それとも何処ぞの業界人なのか、僕には全く分からなかった。

「いえ、俺は知りませんけど・・・」

「実は、あの人、この辺りでは有名な、占い師なんですよ。でも、何処かに場所を構えて占いをやってる訳ではなくって、何となく気が向いたときに占いをやるんですって。だから、お金を貰って営業でやってる訳じゃなくって、あくまでも悩み相談とか、人助けみたいな感じで占うらしいんです」

 僕は声は出さずに目だけで「へぇ、そうなんだぁ」というような合図を良美に送る。しかし、実際のところ、僕はあまり占いなどというものには興味はないのだ。

「それで、このお店には比較的よく現れるらしいんですけど、それがいつなのかは誰も、ここのマスターも分からないんですって。例えば一週間続けて来たと思えば、翌日から一ヶ月来ないこともあるらしくって。私もその話を聞いたのって、結構最近なんですけど、確か夏頃。それから何だか興味が湧いちゃって、ここ二ヶ月くらい、ちょこちょここのお店に通ってるんですよ」

 ああ、なるほど、そういう理由があったのか。

「安田さんは何か占って欲しいことが在るんですか?」

 良美は少し考える風にしてから、僕から視線を逸らすようにして答える。

「ある、って言えばありますし、無いと言えば、無いかも知れません。でも、興味はあります。変ですか?」

 少し恥ずかしそうにそう言った彼女に、僕はそれまでには無かった感情を覚えた。

「いえ、変じゃないです。全然、変じゃないです」

 それまでは会社の先輩社員で、人事部所属の彼女を、一目惚れをするほど綺麗な人だとは思っていたが、どちらかというと、僕とは違う世界に住んでいる憧れに近い存在だった。

 でもこの時の、少しはにかんだ少女のような表情をする彼女を見て、『可愛い』と、単純にそう思った。

「良かった・・・。ところで、辛島さんは、占いとか、興味あります?」

 一瞬答えに迷ったが、「無い」と言ってしまったら、今の折角神様?が与えてくれたこの場が台無しになるような気がしたし、それ以上に、この先の彼女との関係が悲惨なことになりそうなことを瞬時に理解した僕は、敢て大嘘を吐く。

「ありますよ。実は凄く興味があって、本格的な占い師さんに診て貰ったことは無いんですけど、毎朝の『今日の占い』は欠かさず見てから、出社してます。あれがまた、結構当たってる気がしちゃって・・・」

 勿論嘘だ。僕は天気予報は信じても、占いの類は信じない性質たちなのだ。

 朝の民放ニュースの間に挟まっている『今日の占い』などは、信じてもいないし、興味もないので、大概の場合、自分の星座であるみずがめ座の順位なんてものは、気が付く前に占いコーナーが終わっているのが、いつものことだ。(だから、僕の中では、みずがめ座は、しょっちゅう12位だ)

 そう言ってはみたものの、『こんな大袈裟な嘘って、直ぐにバレるんじゃないか?』と、内心ヒヤヒヤしていた。

「そうなんですねっ。ほら、占いを信じない人って、結構、信じてる人のことをバカにしてたりするじゃないですかぁ。私、そういう人、苦手で」

 良美の言葉に、僕はドキッとしたが、吐いてしまった嘘は吐き通すしかないと思った。

「俺も同感です。そういう連中って、どこか人情味に欠けるっていうか、他人を尊重することが出来ないみたいな、そんな感じがしますしね」

 いやいや、どちらかというと、僕も『そういう連中』側に属する人間に違いないのだが、これで自分のコース選択の余地は無くなり、言いたいことが言えなくなった。自縄自縛ってやつだ。

 それでも、良美とこうして会話が続けられるのであれば、それはそれで僕にとっては、全く問題ではないとも思った。

 そう思いながら、何とはなしに、先ほどの占い師の方に目を遣ると、彼はおもむろに席を立ち、こちらに向かって歩いてくる。

 もう帰るのかな?それとも手洗いにでも行くのだろうか?

 そう大して気に留めていた訳ではなく、何となく彼の動きを目で追っていると、どんどんこちらに近付いて来るではないか。

 あまりジッと見ているのも失礼かと思い、僕等の陣取るテーブルの傍に近付く直前には目を逸らしたのだが・・・、あれ?通り過ぎない・・・?

 ん?

 おや?

 ふと、視線を上げると、そこに立つ占い師。そして、

「大変失礼」

 そう言って一礼する、やっぱり占い師。

「突然に申し訳ありません。今、お時間、宜しいでしょうか?」

 そう僕等に話し掛ける占い師に、僕はどう答えて良いか分からずに、良美の様子を伺うと、良美は既に瞳をキラキラ輝かせて、準備万端ではないか。

「え、ええ。勿論」

 そして、「さ、さぁ、どうぞ」と言いながら、良美は自らの席を一つずらして、占い師を自らの隣に座らせる。

 僕は何が起こっているかも、これから何が起こるのかも想像すら出来ずに、ただ二人のことを呆気に取られて見ているだけだった。

「では、失礼させて頂いて・・・」

 そう言いながら僕の真向かいに腰を下ろした占い師は、僕を一瞥し、「コホン」と如何にもな咳払いをしてから、僕に向かって「御仁・・・」と、話し掛けてきた。

 不味い、噓がバレる。僕の胸の内で緊張が走る。

 ・・・・しかし、そうはならなかった。

 占い師は暫し僕の顔をじっと見つめ、その後、今度は良美に目を向け、同じように暫し観察でもするかのように眺める。

 何故か良美はうっとりするような表情を浮かべて、黙ってそれを許していた。

 僕は思う。単純にこの占い師は、良美の美しい顔に見惚れているだけではないのかと。

 暫く良美の容姿を眺めた占い師は、それから何やら自分自身で納得したように「うん、うん」と頷くと、再び如何にもな動作でゆっくりと着流しの懐に手を遣り、一枚の和紙らしきものを取り出した。

「こちらに、あなた方のお名前を、平仮名で、そして、西暦で生年月日をお書きになってください」

 言われるがままに、先に僕が『からしま さとし 1995年2月2日』と書き込み、その紙を良美に渡す。そして、良美も同じように『やすだ よしみ 1994年8月13日』と書き、それを占い師に差出した。

 受け取った占い師は、その和紙に右の掌をかざし、目を閉じて、少しばかり眉間に皺を寄せると、何やら聞き取れない呪文のような声を小さく発した。

 暫くして目を開けた占い師が、僕等二人に向かって「もう大丈夫です」と言う。

 何が『大丈夫』なのか全く分からない僕なのだが、相変わらず良美の瞳は輝いていた。

「実は、あなた方お二人を見かけた時、このあと、唯ならぬことが起こりそうな、気配というか、脈というか、そういったものを感じまして・・・。今そのことについては、出来る限り祓っておきましたので、この先、大して心配は要らないと存じます。但し、全く問題が無いかと言うと、そうも言いきれず、そうですねぇ、兎に角、今日の所は、御仁様が、こちらのお人を、ご自宅までお送りになる方が無難でしょう・・・。何事も無いとは思いますが、万が一、何事かが起こったとしても・・・。あなた方お二人は、『魂の伴侶』とでも言いましょうか、最近の言い方だと、『ソウルメイト』ですか・・・、そういった、お互いがお互いを補完し合う関係性にあり、或る意味、最良の関係性にあるのです。片方に何かの大事が起こりそうな時にも、もう片方が居るお蔭で、その大事を回避出来たり、独りで事を成すには力及ばない時には、二人で合力すれば成し遂げることが出来たりと、そういう相性なのです。お互いを信じて、決して疑うことの無いように」

 僕には何を言っているのかはよく理解は出来なかったが、良美と僕の相性が悪くはないということは何となく分かって、悪い気はしなかった。

 そんな僕を他所に、良美はうっとりとした目で占い師を見詰め、まだ何か訊きたそうな視線を彼に投げかけていたが、その前に占い師が立ち上がる。

「お邪魔致しました」

 占い師がそう言って立ち去ろうとした時、先ほどまでぼんやりしていた良美がいきなり占い師に話し掛ける。

「あ、あの、今度また、診て貰って良いですか?」

 占い師は少し考えるようにしてから、「ええ、良いですよ。あなた方は、実に興味深い。また、ここでも、どこでも、お逢いできましたら、その時に・・・」「それと・・・先ほども申し上げましたが、今日は、充分にお気お付けて、お帰り下さい。何分なにぶんお酒も入っていることでしょうし・・・それでは、私はこれで」、そう言って、自らのテーブルに戻って行った。

「ねぇねぇ、辛島さん、また診てくれるって。どうしよう?向こうから話しかけて来てくれて、勝手に占いとお祓いまでしてくれるって、超ラッキーじゃない?私達って・・・あ、ごめんなさい、私ったら、何だか話し方、馴れ馴れしくなっちゃって・・・」

 かなり興奮気味の良美だったが、一緒に居る僕としては、会社の先輩とはいえ、同い年の良美がこうやってはしゃいでいてくれた方が気が楽になった。

「いや、気にしないでください。俺も結構、興奮しちゃいましたから」

「でしょ?ね、だよね・・・あ、まただ。そうですよね?とっても雰囲気が在るっていうか、如何にも本物感が在りましたよね?」

「良いですって、そんなに話し方とか気にしなくって」

 僕が笑いながらそう言うと、良美は少し照れくさそうに、ペロッと舌を小さく出して見せた。

 嗚呼、ダメだ、占い師なんかより、僕はこっちにヤラレてしまう。

 その後、良美が占いやら占い師のことなどを話している間、僕はといえば、先ほど良美が占い師を見ていたのと同じように、うっとりと彼女のその唇に、その表情に見惚れていた。

 そして、そうしながらも、僕はあの占い師が自分のテーブルで何をしているのか、それが少しばかり気になって、ちょこちょことそちらに視線を飛ばしていたのだが、僕が気付かないうちに、彼はいつの間にか、テーブルから消えていた。

 テーブルには、恐らくウィスキーが入っていたであろうロックグラスが、ポツンとひとつ、置き去りにされたままだった。


 お店を出て、その帰り道、僕たちは占い師に言われた通り、僕が良美の自宅まで送っていくことになった。

 送っていくと言っても、実は良美の実家はそのお店からそう遠くにある訳ではなく、のんびり歩いても二十分程度の、結構な街中だった。

 街中ということで、夜の十時を過ぎても人通りも往き交う車もそこそこに有り、まだビルや商店の灯りも消えることも無く、あまり危険なことが起こりそうも無い雰囲気なのだが、それでも一応は、あの占い師の言いつけ通り、僕は良美を自宅まで送り届けることにした。

 その時もやはり、占いなんてものは信じていなかったのだが、逆に何かが起こると、それが単なる百万分の一の確率で起こった偶然だったとしても、死ぬほど後悔するんではないかという強迫観念にも似た切迫感も相まって、結局は送っていくことに決めたのだった。

 いや、本当はそれも嘘だ。

 占いを信じない、これは本当。

 何かが起こっては困るから送っていく、これは嘘。

 良美と少しでも長く居たいという下心、こちらが正解。

 そういう訳で、この時既に、占いを信じる信じないは別にして、あの占い師に対しては、感謝の念しかなかった。こんな状況にまで導いてくれた良い占い師だと思った。

 店を出る頃には随分と打ち解けた雰囲気になった二人で歩く大して長くもない帰り道、僕の傍らの良美が言う。

「何も起こりそうにない気がしない?」

「ん、そうだねぇ。でも、何も起こらないかもって、あの占い師さんも言ってたし・・・それに、何も起こらないに越したことはないし」

「そっかぁ、そうよね。変なことが起こっちゃ、それはそれで困るもんね」

「え?ほんとは何か起こって欲しいって、期待してる?」

「ううん、そういうんじゃないけど、なんかね、こう、何て言えばいいのかしら・・・当たるって噂の占い師さんじゃない?だから、その何かが起こったら、ほんと、すごいな、って」

「そうかい?俺は嫌だよ、おっかないじゃん、そんなの。それより、『何も起こらない』方が当たった方が良いと思うよ」

 少し考えて良美は「そう言われれば、そうね」と笑う。

 その時だった。

『パンッパーンッ』というけたたましい車のクラクション音と同時に、『キッキーッ』という急ブレーキの響き、そして、タイヤのゴムがアスファルトと擦れて滑る摩擦音・・・近付いてくるっ。

「危ないっ」

「キャッ」

 僕は咄嗟に良美に抱き着くようにして、彼女の頭を抱えながら、歩道の植え込みにダイブしていた。

 背後でドカっと、車が縁石に乗り上げる音がし、少し離れたところから、女性の悲鳴が聞こえた。

「イッターイッ」

 一瞬、自分が何処に居るのか分からなかった。あまりに急なことで、植え込み飛び込んだまでは良かったが、目を開けた時に周りを細かい枝葉に囲まれた状態と、目の前30センチメートルに迫った美しい良美の顔に驚いて、僕は思わず「え?」と声を漏らす。

 そしてすぐに思い出す。そう、僕はここに自ら飛び込んだ、良美を抱きかかえるようにして・・・。

「大丈夫かっ?」

「え、ええ・・・。ちょっとびっくりしたけど・・・大丈夫みたい・・・」

 僕は植え込みから立ち上がり、それから手を差し伸べて、良美をゆっくりと抱き起す。

 抱き起して、良美を一瞥すると、薄手ではあるが、確りと上着を着ていたのと、下半身はパンツルックだったお蔭もあって、特に怪我をしている様子もなく、僕はホッと胸をなでおろした。

「特に痛いところとかない?」

「うん、多分、大丈夫」

 そう言って良美は、肩、腕、膝の関節を確かめるように動かし、上半身を軽く、体操のように捻って見せた。

「良かった・・・。あ、それと、頭は大丈夫?」

「・・・・・・それって、ちょっと酷くない?」

「?・・・・?、ん?・・・違うよ、そういう意味じゃないって」

「冗談よ」

「・・・・・・・」

 僕等二人は目を合わせて、何だか堪えきれなくなって、クスクス笑い出し、そのうちその笑いはエスカレートして「あははははっ」と、声を立てて笑い出してしまった。

 周辺には野次馬が集まってきており、僕等の様子は、交通事故に巻き込まれた恐怖で、気が触れてしまったカップルのように見えたかもしれない。

 その後、警察が来て、一応の事情聴取を受け、僕が少しばかり腕にかすり傷を負っていたので、救急車に乗せられ、病院に運ばれた。良美も付き添いで一緒に救急車に乗り込んだ。

 病院ではただ傷薬を塗って、ばんそうこうを貼るだけの、自宅でも自分で出来そうな治療

だけして貰い、翌日に筋肉痛が出るかもしれないということで、鎮痛剤を良美と二人分処方された。

 そんなことが在って、病院からタクシーで良美の自宅に戻ったのは、日を跨いで、午前一時を少し回った頃だった。

 僕が病院で治療を受けている間、良美が彼女の家族には状況を電話で説明していたようで、自宅で良美の帰りを待ち受ける両親には、「ありがとうございます」と、お礼を言われたことに、却って恐縮してしまった。

 後日、事故を起こした運転手の保険会社から連絡があり、僕と明美とで、治療費、慰謝料、ダメにしてしまった洋服代等、合わせて約十万円の振り込みがあった。


 そういう不思議な体験をして、僕等は何となく、そういった関係になることに抵抗はなかった。どちらかが「付き合おう」と言った訳ではなく、何となくだ。


 それから半年くらいだろうか、その間、僕等二人は、随分と足繁く、あのカフェバーに通い詰めた。占い師に再度会う為に。

 結果から言うと、その希望が叶うことはなかったが、それはそれで、当初は二人の共通の目的を明確に示すものであり、それから時間が経ち、次第に占い師に会うことが難しそうだという認識が進むと共に、僕等二人の関係も、特別感はないにせよ、それなりに普通のカップルのような、日々の生活とリンクして、二人の時間を楽しめる仲になっていったのだと思う。

 そして、何故か使わずに僕が預かり取っておいた、保険会社からの十万円は、事故から丁度一年後の秋、二人で旅行に出かける費用に充てられることになった。

 良美がどういうつもりだったかは知らないが、僕にとってはその当時、これは婚前旅行に違いないという位置付けのものだった。いや、良美もそういうつもりだったと信じて疑わなかった。

 僕等が付き合い始めてから、二度目の冬が過ぎ、春を迎え、その男はやって来た。

 上島、そう、上島人事部長だ。

 上島は、着任して二ヶ月が経とうという頃から、あからさまに、何かと僕を特別扱いし始めた。

 事あるごとに僕を人事部に呼び出し、営業成績がどうだ、勤務時間がなんだと、殆ど言い掛かりのようなダメ出しをし、挙句の果てには、「本社勤務が希望なんだろう?」と、半ば脅迫のようなこと言ってくる。

 然も、他の人事部社員も居る前で、ねちっこくだ。勿論そこには良美も居た。

 ハッキリ言って、僕の営業成績は、営業部全体では上の下、つまり若手の中ではトップクラス。更に言うと、営業職の勤怠管理などというものは有って無いようなものなので、営業成績さえ上げれば、定時前に退社しようが、休憩時間を長めに取ろうが、そんなことは業務には関係無いはずだった。実際に直属の上司にはそう教わっていた。

 直属の上司の営業部長に言われるなら、まだ分かる。しかし相手は人事部長だ。

 確かに支社から本社への移動者推薦の最終権限は、人事部長に在るのかもしれないが、それは飽くまでも形式上のものであって、実際に推薦を行うのは営業部としてである。

 それに、着任二ヶ月辺りから、急に僕への風当たりが強くなってきたことにも違和感を覚えていた。

 四月、僕は入社三年目を迎え、仕事に関してはそれなりの成績を上げ、私生活に於いても(主に良美との交際を中心に)、自らも満足し、自分に対しての自信も持ち合わせるようになっていたと思う。

 良美との交際については、昨秋の旅行以来、特に大きなイベントごとも無かったが、日々のデートや仕事合間の連絡、そして週末は僕の部屋で過ごすという一連のスケジュールも、特に大きな波乱があるでもなく、順調に進んでいると思っていた。

 勿論、ちょっとした口喧嘩程度のことはあったにせよ、大凡その日のうちに片付いてしまうような、そんな他愛もないことだった。

 但し、後々になって気付いたことだったのだが、多分僕は初めて良美に出会った時のことなどすっかり忘れ去ってしまっていて、あんなに高根の花だと思い、憧れの存在だった彼女に対して、かなりぞんざいな態度を取るようになっていたのだとは思う。


「ねぇ、来週の週末、何処か、ドライブでも行かない?」

「いや、来週は土曜に、クライアントの店のオープンセレモニーがあって、夜も遅くなりそうだから、日曜は多分ずっと寝てるよ」


「ねぇ、今度さ、○○○○のライブチケット、買っても良いかな?」

「え?良いんじゃないの?行きたいんでしょ?行ってくればいいじゃん」

「?あなたは?」

「ああ、俺は平日はいいや。次の日に響いちゃうし・・・」


「明日なんだけど、久しぶりに高校時代の友達に誘われちゃって、皆で飲みに行くことになったんだけど、行っても良いかな?」

「え?そんなこと、一々俺に聞く?そんなの好きにすればいいさ」


 今思えば、そんな会話の後の良美の表情が、何となくではあるが、少し寂しそうにしていたように思える。よく覚えてはいないのだが・・・。


 そして、その日が訪れた。

 確か六月初旬、梅雨入り宣言の直ぐ後くらいのことだったと思う。

 その日僕は、ほぼ確実に獲れるはずだった大口クライアントの案件で、相手方から「再度検討したい」という趣旨の、云わば土壇場での契約破棄の連絡を受けてしまった。

 本来であれば、前の週に契約まで済ませておくべき案件ではあったが、その頃の僕は、仕事にも慣れ、順調に業績も上げていたこともあり、調子に乗って、複数の契約交渉やプレゼンを抱え込んでいた。

 自分の中でほぼ間違いがないと踏んだ案件に関しては、勝手に後回しにして、日々の業務を回していたのだ。それが間違いだった。

 保留にしていた未だ未締結の大型契約に、ライバル社からの横槍が入り、まんまと契約を掻っ攫われる寸前まで追い込まれてしまっていたのだ。

 慌てた僕は、即、営業部長に報告を上げ、その指示を仰ぐ。

「ばかやろーっ。だから毎回言ってるだろっ。プライオリティは絶対に間違うなって!」

 怒鳴られても仕方がなかった。完全に自分のミスだ。

 それでも部長は言う。

「いいか、辛島、今回のことは仕方がないかも知れない。お前もまだ入社三年目で、これだけ立派な成績を上げているんだ。何処かで大きなミスをすることだって、そりゃあ、あるだろう。そのミスを糧にして、誰でも上に上がっていくんだ。でもな、最後まで諦めずに、足掻け。

それでも獲れなかったら、それはその時だ。恐らく先方も、今日の契約破棄通告で、まだあちらさんとの契約は済ませて無いはずだ。今夜中に新しいプレゼン、書き直して、明日、朝一で先方に飛び込み掛けるぞ。勿論、俺も一緒に行ってやるし、出来上がったプレゼンにも先に目を通してやる。どうだ?出来るか?」

 部長の情熱にほだされるように、僕は「はい、分かりました。出来ます」と答え、会社を後にして、自宅へと帰った。

 自宅アパートの玄関ドアを開けると、カレーの何ともいい香りがする。良美が来てくれていたんだな。今夜はカレーかぁ、美味そうだな・・・。

「ただいま」

 早くPCに向かって、明日のプレゼン用の資料を作らなければとういう焦りもあるのだが、僕は出来る限り明るい調子で、良美に帰宅したことを告げた。

「あ、お帰りなさい。今日はカレー作ったの、あなた、好きでしょ?あなた好みにちょっとカレー粉足して辛くしといたよ」

 そう言いながら笑顔で玄関まで出迎えに来てくれた良美に、何故だか僕は苛立ちを覚えた。

「どうする?先にシャワー浴びる?それとも食事にする?」

 僕は自分でも何故なのか分からない苛立ちを、必死に隠そうと、敢て良美から目を逸らし、「そうだな、先にシャワーを浴びるよ」と、感情を押し殺すように返事をした。

「そう。じゃ、上がったらすぐ食べられるように、準備しておくね。それと、ビールも用意しとくね」

「あ、う、うん」

 僕はそそくさとバスルームに入った。

 どうしたのだろう?良美に当たっても仕様がないことじゃないか。

 そんなことは分かっている。

 じゃ、何故だ?

 何故、良美は今日、今、ここに居る?約束していたか?

 僕の仕事の邪魔をしに来たのか?

 いや、そんなこと無いだろう。あるはずない。

 のんびりカレーなんか食ってる場合じゃない。

 それでも、折角来てくれたんだ。カレーだけは一緒に食べて、そうしたら、今日は帰って貰おう。

 シャワーを浴びながら、グルグルと歪(いびつ)な想いが頭の中を駆け巡る。

 バスルームから出て、ダイニングテーブルに就こうとしたところで、キッチンカウンターからサラダを運ぼうとしていた良美が話し始める。

「あのね、今日さ、部長から『今度、一緒に食事にでも行きませんか?』って、誘われちゃって、それで、あたし、何て答えたと思う?」

 良美の表情は、正に無邪気というに相応しい、何処にも、そして一点も曇りのない笑顔だった。

 瞬間、僕の理性のボタンは、パチンと音を立てて外れたように感じた。

「おまえさ、いつも聞いてりゃ『部長、部長』ってさ、そんなことは俺にとってはどうでもいいんだって。そんなことより、俺は今日、これから仕事が残ってて忙しいんだよ。カレーもいいから、もう帰ってくんねぇか」

 見る見るうちに、良美の瞳が涙で一杯になっていくのが分かった。

「・・・・ちがう、違うよ・・・あたし、カミングア・・・・」

「いいから、出て行ってくれっ」

 僕は良美の言葉をかき消すように声を荒げた。

「いい。もう知らない」

 良美は自分のハンドバッグを鷲掴みにするように手に取ると、うつむいたまま小走りに玄関に向かい、そして、そのまま出て行った。

 僕は何も言わずに、その後ろ姿を見送った後、ブリーフケースからノートPCと資料を取り出した。

 当たり前だが、翌日のプレゼンは、部長にも同行して貰ったにも拘らず、見事に大失敗に終わった。

 一晩で無理矢理作成した上に、僕の支離滅裂で全くの情緒不安定な精神状態で書き上げたプレゼン資料が、相手方に受け入れられるはずもなく、見事に木っ端微塵の自爆をした体だった。

 その日、部長は僕に「今日はそのまま帰宅しろ」と言う。

「今回の報告書は俺から上げておく。気にするな、こういうこともある。但し、同じ過ちは繰り返すな。それで良い。辛島、お前はまだ若い。若いうちにこういった失敗が出来たってことが、逆にこの先、お前の強みになる。分かったら、今日は帰って休め」

 僕は「すみませんでした」と、深く頭を下げ、部長と別れた。

 金曜日の昼前、自分に対する怒りと情けなさで、何処に身を置けば良いのか分からない。

 ふと、良美のことが気になった。

 昨日は、あんなに酷いことを言ってしまった・・・。怒っているだろうな・・・。

 然も、良美は何かを言おうとしていたのに、僕はそれを遮り、聞こうともしなかった。

 自宅アパートに着く直前の路地で、僕は携帯電話を取り出し、良美に電話を掛けてみたが、良美がその電話に出ることは無かった。

 そりゃそうだよな・・・。

 この週末は、大人しく独り、部屋に引き籠ろう・・・。

 僕は部屋に戻り、昨晩、良美が作ってくれたカレーを温め直し、皿によそい、食べるでもなく、カレー皿を見詰める。

 涙が出てきた。


 月曜日、土日で気分が晴れるようなことは無かったが、それでも僕は会社には出る。当たり前だ。

 営業部長は、既に先週のことは忘れたと言わんばかりに、落ち込んだ僕を励ますつもりだろうか、「よぉ、辛島、おはよう。今週も張り切って行こうな」そう言って、僕の肩をポンポンと叩いた。

「おはよございます。先週は、すみませんでした」

「違うぞ、辛島。『すみません』じゃなくって、どうせ言うなら『先週』だ。カスタマー対応の基本だぞ」

 仕事の面では、こういう上司は非常に有難い。自分の失敗で、部長に迷惑を掛けたことへの申し訳なさが完全に拭える訳ではないが、少なくとも、このマイナスをいずれは取り返そうという、やる気にはさせてくれる。

 営業の仕事の方は、気持ちを切り替えていかなければならない。自分自身の問題だ。

 それよりも、僕は良美のことが気になって、人事部のフロアの前を、如何にも唯の素通りしている体を装って覗いてみる。

 昨日も一昨日も、良美が僕の電話に出てくれることは無かった。

 こんなにも胸の張り裂けそうな思いをするのは、何時ぶりのことだろう。

 良美のデスクが確認できる位置で、周りに怪しまれないように、一瞬でチラ見をして、彼女の様子を確認しようとした。

 あれ?良美は居ない。席を立っているのかと思い、再び一瞬でそのフロアを見渡すが、やはり良美の姿は何処にも無さそうだった。

 席を外しているのか・・・。

 僕は午前中の顧客とのアポイントを済ませ、一時帰社した午後一時過ぎ、再び人事部のフロアを覗きに行った。

 昼休みが終わって、一時過ぎ。午後の業務が始まったばかりで、席を外す用事もないだろうと思い、良美のデスクをチラ見する。

 やはり居ない・・・。

 僕は居ても経っても居られなくなり、丁度その時席を立ち、フロア入口にあるコピー機にやって来る女性人事部社員を捕まえて、小声で訊く。

「お仕事中、すみません。ちょっとお伺いしたいのですが、人事の安田良美さん、今、どちらに?」

「ああ、安田なら、今日もお休みですよ」

「え?今日もって?」

「ええ、先週の金曜日から、ちょっと体調崩したみたいで。ええっと、確か、あなたは、営業部の辛島さん・・・でしたっけ?何か人事の書類提出とかで、お約束されてました?もしよろしければ、私の方で受け付けますけど」

「あ、いえ、そんなに急ぐことでもないので、また、伺います」

 僕は逃げ帰るようにその場を離れた。

 何故逃げるようにだったのかは、その時は自分でもよく理解出来なかったが、何とはなしに、その場の空気が嫌なものに感じたから。

 翌日も人事部を覗いたが、良美の姿はない。

 そして、僕が掛ける携帯電話にも、勿論彼女が応答することは無かった。

 水曜日、半ば諦め気分で人事部フロアに立ち寄ると、そこにはいつもの良美がデスクのPCに向かって何かの打ち込み作業をしていた。

 ホッとすると同時に、一瞬、声を掛けてみようかという気になったが、直ぐにそれは止めにした。

 五日間も僕の電話に出てくれないのだ。そんな状況で、どんな顔をして良美と顔を突き合わせて良いのか分からない。

 人事部フロア外の通路で思い悩む僕は、ふと、誰かの嫌な視線を感じて寒気を覚える。

 何事かと思い、周りを見渡した視線の先には、人事部長の上島が居た。

 直属ではないとはいえ、職級上位者だ。目が合ってしまった以上、無視する訳にもいかず、僕は取り合えず会釈だけをして、その場を離れた。

 上島も目だけでこちらに応答を寄越しはしたが、それは決して好意的なものではなく、寧ろ敵意、いや、僕を卑下しているような目付きのようの思え、僕は吐きそうになった。

 そして、恐らくは、良美は僕のことに気付いてはいなかっただろう。


 その翌々日の金曜日からだった。

 僕が度々人事部に呼び出され、上島部長から嫌味を言われ続ける羽目になったのは・・・。


 その後、良美とは縒(よ)りが戻ることも無く、二年の時が流れた。

 

 僕の営業成績は、以前ほどの伸び率は無い。安定してはいるものの、以前ほどの勢いは無くなっていたが、それでも少しずつ、着実に実績を積み上げてはいた。


 良美は人事部長の上島と付き合い始めたと噂になっていたが、実際にどうだったかは分からない。(僕はそのような噂は信じたくなかった)


 良美とは社内で顔を合わせれば、会釈をすることが出来る程度にはなった。


 営業部長から、次期本社移動に僕を推薦すると告げられた。


 良美と疎遠になってから、一度だけ、良美の両親と、バッタリ街中で出会った。

 良美の母親は「今度、遊びにいらっしゃい」と優しい笑顔でそう言った。そう言った?

 そう聞こえた?

僕の聞き違いだろう・・・。


 僕はカレーを食べなくなった。最後に食べたカレーの味が忘れられない・・・。いや、そうじゃない・・・。忘れたくないから・・・。


 それから僕は、時間は前にしか進まないということを覚えた。


 そして、上島人事部長からの、最後の呼び出しを食らった。

「辛島くん、おめでとう。君の、達ての希望通り、本社勤務が認められました。良かった、本当に良かった。私も鼻が高いですよ。いや、君のような優秀な部下を本社に獲られてしまうのは、ちょっとばかり残念な気持ちも在りますが、それより、君がこの支社から本社に栄転出来ることは、私にとっても栄誉なことですからね」

 ふざけるな。よくもまぁ、そんな嘘八百を眉一つ動かさず言えたもんだ。

 流石は人事部長様ってか。

 僕の良美に・・・、いや、違う・・・良美さんのことを泣かせたら、俺が許さない。絶対に、許さないからな。俺が、俺が・・・、俺が言えた義理では無いけれど・・・。

 人事部を出る時、僕は握り締めた拳を、隠すようにポケットに突っ込んだ。


 僕はその後の十日間を業務の引継ぎに充て、残りの四日は引っ越しの準備を行った。東京での部屋は、取り敢えず社員寮を用意して貰えることになっていて、身の周りの荷物だけ梱包して、社員寮へ発送すれば良い手筈になっていた。

 出発の前日、営業部長主催で僕の送別会が行われたが、他部署からの参加は無く、だから勿論、その場所に良美の姿は無かった。

「残念ながら、明日は平日ということもあって、業務の都合上、空港まで辛島君を見送りに行くことは出来ません。なので、今夜は、辛島君の前途を祈願して、そして盛大に送り出しましょう!次に会う時は、辛島部長としてこちらに戻って来ることも有り得るので、特に若手社員の皆さんは、今のうちに、確りおべっかを使っておくように!おい、ここ、笑うところだぞ」

 営業部長が大いに盛り上げてくれたお蔭で、最後の夜は可笑しな感傷に浸らずに過ごすことが出来た。営業部長には感謝しかない。


 送別会の翌日午後、昨夜は少し飲み過ぎて、まだ少々アルコールが残っている感じがしたまま、僕は随分と早めに空港に到着していた。

 東京には親戚、知り合いの類は誰一人居ないのだが、社員寮に入居するにあたって、寮母さんと文字通り同僚となるであろう社員仲間に土産を買おうと、空港の売店に立ち寄る。

 土産を買い、チェックインを済ませ、それでもまだ時間は一時間以上余っていた。

 早すぎたか・・・。ま、遅れるよりは良いさ。

 さて、余った時間はどうすごそうか・・・。

 そう思って、何とはなしに振り返った僕の目に飛び込んできたのは・・・。

 十メートルくらいは離れているだろうか、

 そこに立っていたのは、安田良美。そう、良美だった。

 僕は目を疑った。他人の空似か?いや、そんなことはない。間違いなく良美なのだ。そして、その傍らには、ことも有ろうに上島が、まさしく、人事部長の上島が並んで立っている。

 僕は気が狂いそうになる。何なんだよ、そこまでするか。

 耳鳴りがする。

 くそっ、まだアルコールが残っていやがる。

 耳鳴りが酷くなる。誰かが何かを言っているような気がする。

《・・・・・・・・・・・・・のか》

 耳鳴りだけじゃなく、幻聴もかよ・・・。

 何て言ってる?

 僕は耳を澄ます。

《おま・・・・・・・・・ないのか》

 今度は目まで霞んできた。

 僕は慌てて瞬きをし、そして手の甲で目を擦る。

 おや、あれ?あれは、本当に上島・・・か?

 上島だろう・・・。違うか?

 いや、何処かで見たことがあるような・・・気が・・・

《・・えは・・・・・・いない・・》

 頭がクラクラしてきた。あんなに飲むんじゃなかった・・・。

 兎に角、最後に上島をぶん殴って、それから飛行機に乗り込みたい。

 僕は一歩、二歩と足を前に踏み出す。足元が覚束ない。

 良美と上島はすぐそこだ。

 ん?お前は、誰だ?

 上島じゃないのか?

《お ま え は ま だ き づ い て い な い の か》

 上島の風貌が徐々に歪んでいく。

 何なんだ、これは・・・

 誰なんだ、お前は・・・

 何処か、見覚えがあるぞ・・・

 着流し・・・ハンチング帽・・・

 ・・・ああ、そうか、あなたは、あの時の・・・


 僕はそのまま突っ伏していくような感覚があり、気を失った。


 目が覚めた時、僕は空港の救護室のベッドの上だった。

 傍らに誰か居ることに気付き、ゆっくりとそちらに顔を向ける。

 涙を瞳一杯に浮かべた良美が、横たわったままの僕にすがりつき、わっと泣き出した。

 その後ろには一人の男性が立っている。

「上島部長・・・いえ、あなたは・・・」

 上島は僕の言葉に少し怪訝そうな顔をして、それから「コホン」と一つ如何にもな咳払いをする。

「良かったですね、辛島くん。あなたが搭乗予定だった東京行きの便、乱気流に巻き込まれて、途中、中部国際空港に緊急着陸したそうです。幸い、墜落などという大事には至らずに済んだのですが、やはり複数の怪我人は出たようで・・・。あ、それと、代わりのチケット、安田さんに預けておきましたので。今日の最終便です。辛島くん、昨晩は随分飲んだようですね。こちらの空港の医務課の先生の話ですと、二日酔いだそうですよ。気を付けてくださいね、移動も業務の一環ですからね。それでは私は、まだ業務が残っていますので帰社しますが、安田さん、君は今日はもういいから、辛島くんのアルコールが抜けるまで見張っておいて、それからお見送りしてあげてください。それでは、私はこれで」

 そう言って上島部長は踵を返して、救護室を出て行こうとしたところで、ピタッと立ち止まり、もう一度振り返った。

「そういえば、忘れるところでした、大事なことを。来月、安田さんも、本社人事部に栄転です。それでは」


 その先、僕等がどうなったか?

 それはあなたの想像にお任せします。

 今、僕は、笑ってこの話を書いています。

 その笑った顔は、泣き笑いなのか、悔し泣きなのか、満面の笑みなのか、それとも・・・





  おしまい

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信じない者は・・・だからお前は救われない!(信じる者は救われる) ninjin @airumika

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