病める時も健やかなる時も、美しき日々に祝福を

椰子草 奈那史

メアリー

 エドモンド・スミスは短い午睡に耽っていた。


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 メアリー、僕の愛しい人。

 初めて君を見た時から、僕の心の全ては君の虜になった。

 柔らかくカールしたブロンド。キューバの空のような青い瞳。君の美しさを言い表すには地上の言葉はひどく物足りない。

 神が創り上げた最も尊いものが何かと問われれば、メアリー、それ以外に答えはあるだろうか。

 マイアミの砂浜、ブルックリンの街角、どこにいたって君は地上に降り立った女神だった。

 君の手を握り、抱きしめて口づけする。

 ああ。

 僕はこの世界で最も幸福な男だった。

 君の微笑み、眼差し、そして柔らかな肌を独占した僕は、アラブの大富豪や合衆国大統領もおよばない世界の王だった。


 メアリー、愛しているよ。


 なのに、なのに君はもう……。


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 エドモンド・スミスは、足元で愛用のマグカップが砕けた音と女の金切り声で目を覚ました。

 メアリーという妻と同じ名前のその女は、だらしなく緩んだ体を震わせて動物園の檻のベンガル虎のように部屋の中を行き来しながら、聞くに耐えない罵詈雑言を喚き立てていた。


 アンタ、いったいいつになったらユニバーシティの教職に就けるのよッ。三流カレッジの非常勤講師じゃいつまでたってもこんな掃きだめみたいな街から出られもしないわッ。そういえば壊れた乾燥機はどうするの? もう2ヶ月も〆られる七面鳥みたいな音だけ出して使えやしない。それにカードの請求だって払えないわよ。一体どうするつもり!?


 エドモンド・スミスは女をなだめようと椅子から立ち上がり、女が喜びそうな希望的展望を口にした。

 しかし、女は耳を貸そうとはしない。


 ふざけないでよッ。もうそんな話は聞き飽きたわ。どうしてこんなことになったのかしら。将来有望な学者だと聞いたから選んだのに! ああ、とんだ貧乏くじよ。こんなことなら、不動産ディーラーのデービッドを選んでおけばよかった。そうすればこんな惨めな人生を送ることもなかったわッ。全てはアンタのせいよ。


 エドモンド・スミスは彼の持つ最大限の誠意と忍耐を持って女に言葉を繋いだ。

 しかし、女は侮蔑と嘲笑で応える。


 いい加減にしてッ、もうたくさんよ。アタシはウンザリしてるの! はぁ……むしり取れるぐらいのお金があるなら今すぐにでも出て行くのに。全く、どうにもならないわね。


「それでも、君のことを愛しているんだ」


 エドモンド・スミスの言葉は一笑に付された。


 ハッ、何言ってるのよ。言葉なんてどうでもいいわ。愛しているならお金を持ってきてよ。そしたら、ぐらいしてあげてもいいわよ。


 エドモンド・スミスは力無く椅子に崩れ落ちる。


 メアリー、僕の愛おしい人。

 ああ、君と……君ともう一度やり直せるなら。


 女は相変わらず聞くに耐えない言葉を発し続けていた。

 視線をおとすと、目の前のテーブルには重厚なチェコ製カットグラスの灰皿が硬質な光を放っていた。

 エドモンド・スミスが灰皿に手を伸ばす。

 背中を向けたまま能弁に語る女の後ろに立ったエドモンド・スミスが囁いた。


「メアリー、愛しているよ」


 高く掲げられた灰皿が振り下ろされた。


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 後年、田舎の村へ隠遁したエドモンド・スミスは「町の先生」として村の人々から尊敬の念を持って迎えられた。

 ある日、村の純朴な青年がエドモンド・スミスの下を訪れた。


「エド先生、オレもそろそろ結婚てものをしてみたいと思うんだが、いい嫁てのはどんなもんなんだろうか」


 安楽椅子に身を沈めたエドモンド・スミスは、柔和な笑みを浮かべながらパイプをくゆらせた。


「そうだな。よき妻の条件というのはいろいろある。ただ最も重要なのは一つだけだ。死んでくれた妻、これに勝るものはない」


 そう言うと彼は「メアリー」と書かれた骨格標本を愛おしそうに撫でたという。



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病める時も健やかなる時も、美しき日々に祝福を 椰子草 奈那史 @yashikusa

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