尻子玉

高黄森哉

河童


 溺れる、あっしは死ぬんだぁ。そう、思た。銀の被膜のような水面が遠くに見える。チャリンコをご機嫌に乗り回してる時に、段差に乗り上げてそのまま橋から落下したんやね。ああ、我が短き人生。あっしはとうとうお医者になれなかったよ。男手一人で育ててくれた、とおさん、ごめん。


 あぶくが千鳥足で上昇するのをぼんやりと見ていると、巨大なトノさまガエルみたいなのが凄まじい速さで視界を横切った。水泡で出来た一筋の飛行機雲が、後に残される。これはなんや。


 腰に手を回される。嗚呼、あっし助かるんや。でも、その手を冷静に見てみれば水かきがついとった。それは驚いた。驚きすぎて水を飲んだ。あとのことはよう、覚えてない。気が付いたら河原に打ち上げられててん。あの生き物はなんやったんやろか。手がかりになりそうなのは口に生臭くまとわりついた粘液のみやったな。ああ、初キスは父さんでも、彼氏さんでも、委員長ちゃんでもなく、未確認生物なんてなぁ。人工呼吸ありがとさんなぁ。

 

 日差しの優しい生暖かさにくるまりながら、ごっつい河原の石の上で、しばらく真っ青な、ゆうて雲二つ浮かんでるけど、その大空を仰向けに、仰いどったんやが、ここで重大な事実に気づいてしまってん。


 人間は、たとえば心臓や腎臓、眼球や爪が無くなっとったらすぐに気付くようになってんねん。脳みそさんは例外やろうけど。その痛い身は筆舌しがたいやろなと、勝手に想像してたけどいざ抜かれてしまうとそんなでもないな。あっしは気づいてん。尻小玉がない、とな。そう、あのトノサマガエルは河童やってん。


 家に帰ってわんわん泣いた。これから、ふぬけになってしまうんや。そしたら例のとおさんがきて、『なんや、昼間からうるさいわぁ』とかクレーム入れて来てん。せやから、『大変や、尻小玉抜かれてもおた』ゆーたら、『ついに気が狂ったか』とケロっとした表情で返した。いやー、しらけるなー、白状やなー、と思ったな、その時は、うん。


 それでな、お医者になるために買った人体解剖図で尻小玉の頁を開いてみたらあら不思議。なくなっててん、そのページが。特集もせやし、全体を図解する表紙にも、ひいては辞典まで引っ張り出して来てんやけど、そこにもやっぱり尻小玉はなかった。載ってても架空の器官とされてた。誰に聞いても笑われるだけ。せやねん、つまりな、尻小玉が、全人類から抜き取られてしまってん。返してください、河童さん。


 もう無茶苦茶やなあ。何度も申しますけど、尻小玉がないと、人は腑抜けになんねん。例をだせばなあ、どこかで変えなあかん選択を、優柔不断から先延ばししたりな、誰かがしてくれるちゃうねんぞ。インターネットに無教養な誹謗中傷が溢れたりな、君らほんまに分かっとんかいな。他人の袴で相撲を取るなや。それにや、無知を誇るな。政治批判ってなぁ、国が国民作るんちゃうねんぞ、国民が国つくんねや。


 とまぁ、とにかく腑抜けた、ご様子で、どれもこれも尻小玉がないせいやねん。あっしは、忘れてしまった人たちとは違ごうて、心の中に尻小玉保管してるから、そこだけは一緒にせんといて。そして、君らにメッセージや。これだけ、覚えて帰ってな。


 ココロの尻小玉だけが、現代人を救えるねん。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

尻子玉 高黄森哉 @kamikawa2001

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説