畜生はまるで、お馬さんごっこに興じるガキのように無邪気な表情を浮かべると、ゴミ屑を仰向けに組み伏せ、実際にその上に馬乗りになったのであります。


「ああぁあ! くそったれぇ!! この人でなしがあ! ああ!! このくそがあ! 人間味の欠片さえないではないか!!」


 人間味? いったい人間はどんな味がするのだろう? と馬鹿で呑気者なゴミ屑は、自分で発した言葉であるのにもかかわらず、そのようなことを頭にぎらせました。もはや恐怖のあまり頭がどうにかなっているに違いありますまい。叶わぬ想像などせず、走馬灯でも見ておればよいのに。もっとも、彼の粗末な人生では、元より走馬灯など起こらぬのかもしれませんが、そこはご愛敬あいきょうでありましょう。


 ゴミ屑はなおも思案を続けているようであります。

 人間は、さぞかし美味で、奥深く濃厚な味がするのだろう、当然だ、人間の叡智や可能性の、その全てが詰まっているのだから、うんぬんと。


「ええ。はい。そうですね。ご指摘の通り、僕は人間ではございません。それはそうと、大変に心苦しいのですが、ご相伴しょうばんに預からせていただきますね。それでは、『いただきます』」

 そのお行儀の良い挨拶のどこが不満なのか分かりませんが、ゴミ屑は何の脈絡みゃくらくもなく暴れ始めます。畜生の胸やお腹を力いっぱい殴り続けますが、その全ては馬鹿の上塗りでありますし、どこまで行こうと馬鹿のひとつ覚えであります。それをどんなに続けたところで、畜生の体の血行を、程よくうながすくらいのものでしかありません。


 しかし、ゴミ屑の様子は見ていて吐き気をもよおすほどに見っともなく、また、同じことを執拗しつように繰り返すので、畜生はふと思いました。馬乗りになってる屑の暴れるのが鬱陶うっとうしいな、と。そしてその思いは徐々に募ってゆき、段々とそれが嫌で堪らなくなってゆきました。ですので畜生は、ゴミ屑を半殺しにしてやるべく、両方のおててを使ってゴミ屑のお顔をぽこぽこ叩きました。

 そしたらもうズタズタだよ。だって、さっきまであんなに仲良く話していた相手なのでありますから、畜生の心が痛むのは当然であります。しまいにはグチャグチャだよ。だってさ、急に食欲が起こってどうしても我慢できなくなったとはいえ、話の分かる相手を食わなければならないとなれば、畜生の心が張り裂けそうになるのは至極しごく当然のことなのであります。果てはグズグズだよ、もう原形なんかとどめちゃいねえぞ、そりゃあそうだろ、畜生はこんなに悲しいんだからよ、もう畜生の心はボロボロであります。そのあまりの悲しみのために、畜生の心は表面がずるりと全てけ、その内容物が次々とがれ落ちてゆくではありませんか。



 え?



 人を叩いちゃう人は、自分の心を叩いているのと一緒なんだね。

 分かるかい? 自分のあったかい両手と、相手のあったかい笑顔は、ラブラブなお友だちなのさっ!

 ダメさ、いけないよ。人はぜったいに叩いちゃダメさ。自分のためにも。もちろん、相手のためにもね。

 ノンノン! 叩くなら、胸を張って、友だち思いの自分の胸をねっ!



 え!?



 畜生は我に帰り、自省じせいやら悔恨かいこんやらの念にられそうになったのでありますが、そこに邪魔立てが入ります。畜生はふと、思い出したのです。大まかにいうと、『このゴミめ野郎、ついさっき、蜂蜜がどうたらこうたら抜かしてやがったな』というようなことを。

 するとどうしたことでしょう。記憶をまさぐるその一瞬かんに、つい今しがたまで馬乗りになっていたはずの、ゴミ屑の姿が消えているではありませんか。そしてその代わりとばかりに、畜生のお粗末な股の間には、人型ひとがたに組まれた大きなはちの巣のかたまりが横たわっていたのです。


 詳細は分かり兼ねますが、おそらく事の顛末てんまつはこうでしょう。

 あのゴミ屑は趣味人でありましたから、手品、あるいは何かの競技のイカサマにでも通じており、何か小細工し、採集さいしゅうしその身に隠しておった蜂の巣を身代わりに、この場を去ったのでありましょう。


 そうとしますと、先程までの、ゴミ屑のあの様相の見方も変わろうというもの。

 これほど見事な真似ができるのです。ただガブリと首や肩をやられるとは考え難い。何か策を講じていて、実際のところは無傷でありながらも、痛がる演技をしておったのです。それは何故かといえば、畜生の顔を立てるため、もしくは、驚きでもって畜生の心を遊ばせるためだったのです。畜生の悪戯いたずらに腹を立てるでもなく、ただそれを軽くあしらい、そればかりか、畜生の好物を置き土産に、颯爽さっそうとこの場を去っていったのです。そうに違いありません。というかそうです。そうなんです。


 あのゴミ屑は粋人すいじんであったのです。


 あのゴミ屑は誠の紳士であったのです。


 この驚くべき事実に、考えが至っているのかそうではないのか分かりませんが、畜生は呆然ぼうぜんとした顔でよだれを垂らしながら、じっと人型の蜂の巣を見詰めておりました。

 人でいうところの顔の辺りでは、ぶんぶんとうるさく蜂の翅音はおとが鳴っております。それはそうでありましょう、目の前に天敵がおるのですから。

 先程から、中で蜂共が騒ぐためなのか、人でいうところの手足がびくびくと痙攣けいれんするように動いております。それはそうでありましょう、目の前に天敵がおるのですから。

 この畜生は、蜂蜜が大好物なのであります。


 びくんと我に帰った畜生は、口の周りを可愛らしくぺろりんと舐めると、さっそく事に取り掛かりました。

 畜生は、両手をわくわくさせながら人型の蜂の巣に腕を伸ばし、そして、人間でいうところの腹部を、爪で強引にこじ開けました。

 すると中には、あふれんばかりの蜂蜜が詰まっているではありませんか。

 それは極めて濃厚と見え、それがあまりき過ぎているためか、鼈甲色べっこういろを通り越し真っ黒であり、また、凝固ぎょうこ白子しらこのような形をとっております。あるいはそれは幾匹いくひきものへびが寄り添って眠っているかのようで、また、絶対にそうではないのですが、ややもすると、人間のはらわたのようでもあります。


 まるで色気をただよわせているかのような、蜂蜜のあまりに旨そうなその様子に、体や精神に根を張る欲という欲を駆り立てられ、存在そのものがぶるぶると震えるのを抑えることがどうしてもできず、もはや畜生はおのが快楽にぬるりと呑まれ、恍惚こうこつに奥歯を噛み締めながら、その痙攣的金縛かなしばりが去るのを待つより、ほかにありませんでした。

 やがて、最後に畜生の顔をひとつ引きらせ、快楽の波は去っていきました。


 さて、これよりからは、実地の時間であります。


 そこからの畜生は、もう無我夢中です。全てのことに、おぼれるかの如くの必死さで当たりました。人型の蜂の巣の、人間でいうところの腹部に両手を突っ込み、凝固した蜂蜜をぐちゃりと握り締めると、まるで糸車から糸を抜き取るようにずるずると全て引きずり出し、そしてそれを、食べます、食べます、食べました。

 あ。という間に平らげたせいかしらん。畜生の息は上がり、はあはあと息を吐いております。やがてそれが落ち着き、人心地と相成りました。苦虫にがむしをぶちゅりと噛み潰したような顔を浮かべるでも、好物を吐くまで食って満足そうという顔を浮かべるでもなく、ただ、のっぺりとした平坦な表情で、畜生は、ひとつ呟きました。


「うーん。なんだか食った気がしないなぁ」

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森の中での食い違い 倉井さとり @sasugari

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