ニンゲン野郎が東屋に来てみますと、そこにクマの姿はありませんでした。いったい何処に行かれたのでしょうか? おそらく、お手洗いにでも行かれたのでしょう。茶というものは利尿作用がありますから、これは仕方のないことであります。誰も自らの生理にあらがうことはできません。


 ニンゲン野郎はさかしいことに椅子になど腰掛け、その顔に間抜けづらをたたえ、生意気に紅茶の香りを楽しみながら、クマを待ちました。


 ニンゲン野郎は、何やら無い頭でもって考え事をしているようであります。

 どうやら、剥製作成後に残るクマの内臓をどうするか、ということを考えている模様です。彼は、もつ鍋にして食ってしまうのか、それとも、ホルマリン漬けにして調度品にしてしまうのがいいのか、などという些末事をあれこれとひねくり回しながら、そのさして貴重でもない時間を潰すのでした。




 後ろから聞こえたものと思われる足音に、ニンゲン野郎は『ああ、クマがくそから戻ったに違いない』とでも思ったらしく、まるで脊髄反射せきずいはんしゃのように無意識な様相で、無礼にも後ろを振り返ることすらせず、

「紅茶のおかわりはいかがです? それにしてもどちらに行かれていたのです?」と抜かしました。

「ぜひ、頂きます。お待たせして、申し訳ない。いえですねぇ、付け合わせの、さけと木の実を探していたのですよ」

 と返る声は確かにクマのものでありましたが、無知のためなのか、ニンゲン野郎にはその言葉の意味がよく分かりません。


「ん? なんですって? 付け合わせ? 鮭?」

 そう抜かした瞬間ニンゲン野郎は、自身の、無駄毛の丁寧に処理されたうなじに、凄まじいまでの衝撃を覚え、ついですぐさま耐え難い激痛を感じました。ニンゲン野郎は急のことに驚きつつも、自身の置かれた状況を理解するべく、そのお粗末そまつ脳味噌のうみそと、有って無いような感覚器官をせっせと働かせました。その末導き出されたのは、『クマが、わたくしの首筋に食らい付いている』でした。びっくりですよね。


 ニンゲン野郎の驚愕きょうがくなどお構いなしに、クマは更に顎に力を込め、頭を激しく上下左右に動かし、彼の首を食い千切ろうと奮闘しております。ニンゲン野郎の首筋からは当然のことながら血が流れます。それは、彼の見た目に反し、割に綺麗な赤色でありました。

「クマ子爵……! い……いったい、なにを!?」

「ご休憩中、失礼いたします」

「……聞いて、いたんですか?」

 ニンゲン野郎は、先程かけた電話を、クマに聞かれたに違いないと思ったのであります。

「聞いていた? なにをですか?」

 クマはきょとんとしたご様子。

 ニンゲン野郎は訳が分からず、

「ならばなぜこんな真似をするのですか!」と怒鳴りました。それをクマは、先程までと変わらぬ感じの良い笑顔で、

「まあまあ、落ち着いて下さい」と優しくなだめました。


 平然としたままのクマこうの様子に、生意気に恐怖でも覚えたのか、ゴミくず野郎は見っともなくわめき散らしながら抵抗を試みました。右手を後ろ手に、何度も何度もクマ公を殴ります。がしかし、まるで手応えがなく、クマ公はびくともしません。しかし、殴られるのはうるさいのでしょうね。クマ公は、わずらわしいからこの腕を駄目にしてやろう、とでも考えたものらしく、彼の首から口を放し、すぐさま右肩に食らい付きました。そしてそのまま、万力まんりきのようにみしみしと噛み締めてゆきました。


 気のせいだろうとは思われますが、ゴミ屑野郎は自らの肩の骨が砕ける音を聞いたように思われ、全身の力でもって抵抗をし始めました。

「どうか落ち着いてください。紅茶、飲まれますか?」

 そう言いながらクマ公は、ゴミ屑野郎に紅茶のカップを差し出しました。しかし、ゴミ屑野郎は、失礼極まりないことに、それを払いのけやがったんだよ。

 紅茶はその拍子にゴミ屑野郎のズボンに零れてしまい、立ちどころに優雅な香りが辺りに漂い始めます。


 クマ公は少々はしたなく鼻をすんすんと鳴らしてみせると、

「うーん、ふぅ。やはり良い香りだ。これは、グレイ伯爵に感謝しなければなりませんねぇ」と呑気な語調でゴミ屑野郎に語り掛けました。

「や、約束が違う! 放してくれ!」

 何故だか分かりませんが、ゴミ屑野郎はクマ公の言葉を黙殺し、そのような世迷い言を言い放ちました。がしかし、クマ公は気にめる風でもなく、

「人間の皆さま方は、約束などというものを大事にされているのですね」と言った。

「当たり前だ! 人間が一番大切にしていることだ! 約束を守らない者はしかるべきむくいを受けるんだぞ!」

 ゴミ屑野郎は、殊更大きくそう叫びを上げました。


 すると少し間を置いて、

 ――……当たり前だ……人間が一番大切にしていることだ……約束を守らない者は然るべき報いを受けるんだぞ……――

 と山びこが返ってまいりました。


 何か気にさわることでもあったのか、ゴミ屑野郎は突然に、恥辱ちじょくにまみれたような表情を浮かべ、半狂乱はんきょうらんみたくになりながら無茶苦茶に暴れ出すではありませんか。これにはクマ公もびっくり仰天ぎょうてん。ゴミ屑野郎の、その薄気味悪い変わりざま唖然あぜんとし、顎の力を一瞬かん緩めてしまったのであります。

 ゴミ屑野郎はクマ公のいましめから逃れました。が、それは束の間のこと。

 クマ公は、右手を可愛らしくいっぱいに広げ、わしの足のようにして爪をき出しにして、ゴミ屑野郎のその貧相ひんそうな背中に、強烈な一撃を加えました。

 その瞬間ゴミ屑野郎は、打てば響くように肥溜こえだめの腐臭ふしゅうじみた汚らしいうめきを発しながら、地面にうつ伏せに叩き付けられました。そして、何やら胴体に感じたようなのです、肺や心臓や背骨が丸ごと体外に飛び出したかのような衝撃を。


 肺をおかしくしたのか、はたまた大袈裟が過ぎるのか、ゴミ屑野郎はしばしの間、まるで、息のできないかのように顔を赤らめつつ、頭を千切られて狂ったミミズのように地面にのた打ち回っておりました。するうち人心地付いたとみえ、その腹に寄生虫きせいきゅうをたんまり抱え目を回すカマキリのごとくのっそりと頭をもたげ、クマ公を見上げました。

 するとクマ公は、ひとつニッコリと笑い、

「約束とはどんな味がするのです?」と質問した。


 真面目というより馬鹿真面目な性分ゆえか、ゴミ屑野郎はそれに律儀りちぎに答えます。

「……しいて言うならな、……緻密ちみつ飴細工あめざいくのような味だ……!」

「なぜ、飴細工なのです?」

「約束ほどデリケートで壊れやすいものはないからだ! 作るのに苦労するわりに、じつに簡単に壊れる!」

 それを聞いた畜生ちくしょうは目を爛々らんらんと輝かせ、ゴミ屑に一歩踏み出しながら、

「なるほど、それは興味深い。ますます貴方を召し上がりたくなりました」と、まるで好きな異性に告白でもするように言ったのであります。

「や、やめろ! 分かった! ありとあらゆる美食の数々を振る舞うと約束しよう! だからやめてくれ! 後生だ、命だけは、命だけは取らんでくれぇ!」

「ありとあらゆるですか?」

 畜生はぴたと動きを止め、少し興味を持ったご様子。

 ゴミ屑は、これはしめたぞ、とでも思ったのか、ここぞとばかりに、

「ああ! それで足りないというのなら、調度品や宝石の秘蔵のコレクションも差し上げよう! それらは今だけでなく、死ぬまでずっと楽しめるものだ! どれも素晴らしいものばかりだ! きっとクマ子爵殿も気に入るはずだ!」とまくし立てました。すると畜生は満面の笑みになり、

「なるほど、人間の皆さま方は色々なものを食べ、色々なものを大切にされているのですね」と感嘆かんたんの声を上げた。


 畜生にようやく言葉が通じたと思ったようで、ゴミ屑は安堵しながら、

「ああ! そうだ! おっしゃる通りだ!」と言いました。そしてその場に起き上がり、両膝を地面に付け、胸の前で両手を組むと、ありがとうありがとうというように、何度も頭を頷かせました。

 それを見た瞬間、畜生は真顔になり、まるで世界の真理を読み上げるかのように、

「しかし、腹に収めてしまえば、全て同じこと」

 と発音した。そして言うが早いか、こいつはさっきから何を言っているんだ、というような心底不思議そうな表情で、ゴミ屑のことを凝視ぎょうしし始めました。


「なにを言っているんだ! わたくしを殺さなければ、ほかの食い物をあとからたらふく食えるんだぞ! すこし考えれば、どちらが得か分かるだろうがあ!」

「申し訳ありません。僕には『今』しか見えないのです」と言う畜生の表情は、ゴミ屑の話は難しくて何ひとつ理解できない、とでもいうように、どこか悲しげ。しかし、気丈にもそれをすぐに爽やかな笑顔に変え、言葉を続けました。「何事も、大袈裟にとらえてばかりでは、良いことがありませんよ。あまり気にし過ぎないことです。気楽にいきましょう。それでは失礼いたしますね」

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