森の中には気持ちの良い風が流れ、それに伴い木々が揺れ、ハープのようにさらさらと音を立てています。それに合わせ、小気味よく歌うのは、小さな小鳥たち。近くを流れる小川は、木漏れ日を受け、清らかな光を放っています。

 様々な音や色に溢れているというのに、森の中には特有の静けさが存在し、何もかもを受け入れてしまう懐の深さのようなものが感じられます。本当の叡智えいちは、森の奥深くに眠っているのではないかと思われる程に、辺りには知的な雰囲気が漂っています。


 そのような空気に触発されたのか、ニンゲン公爵はあれこれと思案しているようでした。

 自分は一動物でしかないのだという謙虚な気持ち。自分は人間という特別な存在なのだという傲慢ごうまんな気持ち。人間は、そのどちらの感情も決して失ってはならない。そのどちらか片方でも失ってしまえば、それはもう、人間とは呼べない別の存在なのだ。その二つの感情の共存こそが、人間を人間たらしめるものなのだ。


 クマ子爵には大変申し訳なく思うが、医者になど電話しない。するのは猟師りょうしに、だ。それも飛びきり腕の良い。それから剥製師はくせいしも呼ばなくてはならない。

 クマ鍋に興味がないわけではないが、食事は一瞬の快楽でしかない。


 あれほどまでに教養があり、あんなにも若い内から人生を謳歌おうかしているような、未来輝かしい若者などはそうそういるものではない。その若者が生きるはずだった時間と未来を、剥製に閉じ込め、その残り香を味わう。これほど甘美なことはないだろう。

 若者が見るはずだったものを、そのうつろな瞳を覗き想像し、するはずだった恋を思い浮かべそれに浸り、輝くはずだった魂の情熱を舐め嗅ぎ吸い込み、そうしてわたくしは少しの若さを得る。


 クマ子爵と友情をはぐくめたのなら、それが一番だったのだが、わたくしに危害を加えようというのだから致し方ない。通人であるのは実に結構だが、わきまえることを知らなければいけない。彼がもう少しばかり世間擦せけんすれしていたなら、私たちは良き友人としてやっていけたかもしれないのに。クマの友人なぞいれば、さぞや周りに自慢できただろうに。本当に残念だ。やはり、人間と獣のたぐいとでは、分かり合うことは叶わぬのかもしれない。

 うんぬんと。




 彼らは、山の中腹の、山小屋の多く建つあたりに差し掛かりました。

 ニンゲン公爵は、少し息を切らしながら「ここで一息つきましょうか」と声を漏らしました。それに、クマ子爵は平然と「ええ。そうしましょう」と応じます。ニンゲン公爵はあごをさすりながらクマ子爵を眺め、さすがお若い、全く疲れている様子がない、と感心し、何やらとても嬉しそうな様子です。


「ああ、そうでした。サンドウィッチと紅茶を持ってきているのですが、いかがですか?」とニンゲン公爵は言った。

「ぜひ頂きたいです。なにからなにまでありがとうございます」

 彼らは、その一帯の片隅に建つ、東屋あずまやの椅子に腰を降ろして休憩を取りました。ニンゲン公爵のリュックサックの、その内部より取り出された、水筒に入った温かいアールグレイの紅茶と、べらぼうに旨いサンドウィッチを味わいながら。また先程に引き続いて、互いの趣味について語り合いながら。




「ふー。とても美味しいです。ふー。それにしても、このサンドウィッチという代物しろものは、休憩にはもってこいの食べ物ですね。これは、サンドウィッチ伯爵はくしゃくに感謝しなくてはなりませんねぇ」と呑気に言うクマ子爵を尻目に、ニンゲン公爵は椅子から立ち上がり、

「妻に電話を掛けてきます、先に料理の準備を始めていてもらいましょう」

 と言い残し東屋を離れた。そして、そのまま歩を進め、森の暗がりの中へと入っていった。少ししてニンゲン公爵は立ち止まり、クマ子爵の付いて来ていないことを注意深く確認すると、懐から携帯端末を取り出し、地元の猟友会りょうゆうかい懇意こんいにしている剥製師それぞれに電話を掛けた。通話を終えたニンゲン公爵は、ちらと空を見上げ、ひとつだらしない笑みを浮かべると、右手を懐に挿入して、上着の内ポケット内部に携帯端末を収め、ついで踵を返し、東屋の方へ歩き出したのであります。


 その道中で、ニンゲン公爵はあるものに目を引かれた。それは、地面に転がる動物の骨でありました。

 はて、来た時に、こんなものあっただろうかと思いつつ、ニンゲン公爵は屈み込み、骨を手に取りまじまじと見詰めました。

 その骨は細かく砕けていて、ニンゲン公爵には、どんな種類の動物のものなのか判別が付かないようでありました。しかし、ニンゲン公爵にとっては些細なことでありました。


 彼は、骨というもの全般を、忌諱しておりました。常々彼はこう思っておりました。こんなに無機質で作り物めいた玩具がんぐのような物体が、私たちの中に入っていて、私たちの体を支えているなんて、本当に薄気味が悪い、と。綿の詰まった人形にんぎょうの方が、余程正常なのではあるまいか、と。いっそ剥製の方が、自然に近いものなのではあるまいか、と。


 彼がこのような考えに行き着いたきっかけというのは、彼の幼少期にまでさかのぼります。

 彼の父親であるニンゲン大公だいこうというのが、狩猟しゅりょうを趣味としており、彼の書斎には拳銃やら猟銃やらが壁にいくつも掛けられてありました。男児だんじにはままあることでございましょうが、ニンゲン公爵は物心ついた時から、それらの銃に惹かれておったのであります。


 しかしながら、自らの趣味のために我が子が怪我をしたなどということになり、またそれが家人、それ以上に世間様に知られては、ニンゲン大公の沽券こけんにかかわります。ゆえにニンゲン大公は、銃の弾丸をニンゲン公爵少年から隠し、厳重に保管しておったのでありますが、ニンゲン公爵少年は、ある時、ある偶然から、その在処ありかを探し当ててしまったのであります。しかしこれは、ニンゲン公爵少年の知恵や努力などに寄らない、全くの偶然事でございますから、語るには及びますまい。もとより、このニンゲン公爵という男に、語るべきことなどありはしません。


 弾丸を手にしたニンゲン公爵少年はさっそくとばかりに、父の書斎から浅ましくも拳銃を盗み出し、そのまま森に出掛けてゆき、木立を的に見立て、馬鹿みたくになりながら拳銃で遊び始めたのであります。飽きることなく、馬鹿のひとつ覚えよろしくいつまでも。そしてその末、馬鹿の上塗りと相成りました。

 その拳銃といいますのが元よりアンティークとして製造されたものでございまして、射撃を主たる目的に作られてはおりませんで、また、年季が入り古びてもおりまして、動作不良を起こしてしまったのです。

 ニンゲン公爵少年は、猿のように顔を赤らめながら、必死にそれを解消するべく奮闘ふんとういたしました。そして驚くべきことに、それは叶ったのであります。俗にいうビギナーズラックであります。しかしその結果、ニンゲン公爵少年は自らの左手の甲の肉と皮膚を、拳銃で吹き飛ばしてしまったのであります。動作不良の解消とともに拳銃が暴発し、弾丸が発射せられ、その際ちょうどニンゲン公爵少年の左手の甲に、銃口があてがわれておったために、その周辺の肉や皮膚がこそげ落ちてしまったのであります。


 ニンゲン公爵少年はしばらくの間、驚きのためなのか、痛みを感じることはありませんでした。それならばすぐに家人の許に行けばいいものを、ニンゲン公爵少年はその場に立ち尽くしているではありませんか。自身の手からおびただしい血液が流れているにもかかわらずです。


 何をしているかと思えば、ニンゲン公爵少年は自らの骨を眺めておったのです。


 このおろか者は、自分自身の行いや傷の深さなど忘れ、骨に見入っておったのです。そして眺めるうちに、その玩具のような造詣ぞうけいに不気味さを覚えたようなのであります。


 このようなことがありましてから、ニンゲン公爵は、自分の骨ひいては骨全般に嫌悪を抱くようになったのであります。この恥知らずは小生意気にもそれを自身のトラウマであるなどと考えており、また、その観念を後生ごしょう大事に持ち続けているのであります。そこに深い考えなど毛頭ないのでありましょう。おそらくは、人たるものトラウマのひとつくらいは持っているものだ、などという馬鹿げた気取りゆえのことでありましょう。


 この馬鹿者は、まるで空砲くうほうのようであります。何の役にも立たぬ石頭であり、中身はすっからかんであり、何やら口だけは馬鹿に達者なのであります。にかかわらず、傷だけは人間然、一人前然としてふさぐことができるのですから、大したものです。幸いなことに左手は大痣おおあざを残しながらも元通りにえ、クマ子爵の言うところの、引き締まって旨そうな肉を再び実らせたのであります。


 脳なしはふと我に帰りました。そして、いつの間にか魚のように開かれていた口許を引き締め、手にした骨をぞんざいに投げ捨てると、山小屋の方へ向かって歩き始めました。

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