「ニンゲン公爵様の、そのお体をおゆずりいただきたいのです」

 その言葉を聞き、ニンゲン公爵は、益々にクマ子爵に感心するのでした。どうしてかといえば、ニンゲン公爵は常々こう思っていたからです。礼儀正しくも、しっかりと自分の主張をするというのは、なかなかできることではないと。どちらか片方を持つ者は多いが、その両方を持ち合わせる者は稀だと。殊更ことさらに若者はそうであると。

 しかし、自身が食べられてしまってはたまりませんから、ニンゲン公爵は「それには応じかねますなぁ」と苦笑を交えて答えます。

 するとクマ子爵も同程度の苦笑を浮かべながら、「まぁ。そうでしょうねぇ」と相槌あいづちを打ちました。


 数秒の間の後、ふたりの苦笑は消え、元の柔和な表情に戻りました。

 クマ子爵は突然、ニッコリと、まるで営業スマイルのような笑みを作りました。そしてそのまま丁寧な歯切れの良い口調で、

「よろしければ、理由をお聞かせ願えますか?」と言った。

 ニンゲン公爵はしばし思案しあんしたのち、「わたくしはこれでも、人間の中では、公爵の爵位しゃくいを頂戴している身です。それが、休日に、趣味に興じている最中さなかに死んだとなれば、それを許さぬ連中もいるということなのです」と答えました。

 それを聞いたクマ子爵は、何やら意外そうな顔。そして、僅かに面白がっている気配。「……死ぬのが、嫌、だから、では、ないのですね?」

「死ぬのはたしかに怖いですとも、しかし、人間というものは建前を大事にしているのです」

 ニンゲン公爵のその受け答えに、クマ子爵は子供らしい興味を隠さずに、

「人間の皆さま方は、建前などというものを大事にされているのですね。それで建前とはどんな味がするのですか?」とたずねました。


 ニンゲン公爵は、ごきりと骨の節が鳴るほどに首をかしげた。はて? 味? ニンゲン公爵は、そんなこと考えたこともありませんでした。ニンゲン公爵は目を細めてクマ子爵の顔を見詰めながら、やはり異文化交流は面白いものだ、としみじみ思うのでした。

 少し考えた後、ニンゲン公爵はこう答えました。「難しい質問ですが……、しいて言うのであれば、湯葉ゆばのような味でしょうか」

「湯葉ですか。以前に一度食べことはありますが、うーん、理解が及びません。なぜ湯葉なのです?」

「なにかの上澄うわずみのように、本質からかけ離れたものだからです。そしてそれは、私たちの舌にまとわりつき、時折、意に沿わぬ言葉を吐かせる」


 クマ子爵は目をつむり胸に手を当て、感動したような口調で「なるほど、それは興味深い」と言うと、腕を下ろし目を開け、さらに言葉を続けた。「ますます、貴方を召し上がりたくなりました」

「それは困りましたなぁ」

 どうしたものかと、ニンゲン公爵は考えます。そしてすぐに何かを閃いたような顔になりました。「ご提案があるのですが、よろしいですか?」

「ええ。もちろんです。無理をお願いしているのは、こちらの方なのですから」

「全身ではなく、体の一部分だけをお譲りするというのはいかがですか?」

 ニンゲン公爵のその提案に、クマ子爵は釈然しゃくぜんとしない様子です。

「一部分ですか……?」クマ子爵の口調からはその困惑がありありと感じられ、また、一目瞭然いちもくりょうぜんの困惑をその顔を浮かべており、話の筋を全く理解していないのは明白なのでありました。「……なぜ、そんな中途半端なことを?」


 ニンゲン公爵は、小さな子供に言って聞かせるような気持ちで、だけれどそれを表には出さずに、こう説明した。「人間というものはですね。互いの主張や意見が違ってしまった場合、譲歩じょうほし合うものなのです。そして、それを大変大事にしているのです。当事者たちはもちろんのこと、特に世論よろんというものは、譲歩しない人間を許しません。自分の主張だけを通す人間は、いつか必ず不利益をこうむる」

「人間の皆さま方は、譲歩などというものを大事にされているのですね」と言ってクマ子爵は、僅かに顔を前に突き出したようにし、ニンゲン公爵の瞳をまっすぐに見詰めたのであります。

「ええ。ですからわたくしは、貴方のためにも、こうして提案させていただいているのです」

 ニンゲン公爵の真剣な物言いに反して、クマ子爵はどこか楽しそう。「なるほど……僕のために。それは……とても興味深い」


 ニンゲン公爵は、そんなクマ子爵の態度を、微笑ましく思った。しっかりしているといっても、やはりまだお若いのだな、と。これが俗にいう、『はしが転んでも可笑しい年頃』なのだなと。

 クマ子爵は突然、その無邪気な薄ら笑みを消し、全くの真顔になった。そして、「それで譲歩とはどんな味がするのですか?」と尋ねた。

 ニンゲン公爵は、またも首を傾げた。はて? 味? そして同時に、妙に得心したようだった。それというのは、クマ子爵の行動原理が見えてきたからだった。

 ニンゲン公爵はこう考えた。さすが食通でいらっしゃる、と。食通がこうじて、何事においてもまず味を尋ねずにはいられないのだと。この若者は余程の趣味人なのだなと。


 趣味人というものを何よりも好いていたニンゲン公爵でしたから、何やら無性に喜ばしく、また、クマ子爵の満足するものを差し出したく思い、頭をひねりました。

「……そうですな。しいて言うのであれば、コーヒーのような味でしょうか」

「はて? コーヒーですか? それまたなぜです?」と言ってクマ子爵は、首を可愛らしく傾げました。

「コーヒーのように苦く、だけれど優雅で味わい深く、そしてなにより、落とし所が決まっているのです」

「なるほど、それは興味深い。ますます貴方を召し上がりたくなりました」

 クマ子爵の満足そうな様子に、ニンゲン公爵の方も満足を覚えます。しかし、自身が食べられてしまうのはなかなか許容きょようし難いものなので、彼は内心焦っていました。だけれどそこは歳のこう、それをおくびにも出さずに提案を続けます。


「それでですな、先ほど貴方がおっしゃられていた、手をお譲りいたしますので、それ以外はご勘弁いただきたいのです。それでどうしても納得いただけなければ、最高級の蜂蜜はちみつもお譲りいたします」

「へぇ。最高級の蜂蜜を、ですか。……なるほど、これが、譲歩というものなのですね?」

 クマ子爵は言葉の切れ目に、意図を込めるように僅かに目を見開かせた。

「ご理解がはやく助かりますよ。それで、どうでしょう。ご了承いただけますか?」

「……そうですね。せっかくですので、蜂蜜を頂けますか?」とクマ子爵はニコニコと嬉しそうに答えた。

「分かりました。それでは、それで手を打たせていただきます」

「無理を言ってしまい、申し訳ありません。それでは、さっそく頂戴いたしますね」

 クマ子爵は言うが早いか、ニンゲン公爵の右手を取り、その手首に噛み付こうとしました。しかし、ニンゲン公爵が、クマ子爵に向かって左手の掌をかざしたために、それは制されました。


 はしたない子供をたしなめるような気持ちで、だけれどそれを表には決して出さずに、ニンゲン公爵は丁寧な口調で言います。「すみません。食いちぎられますとですね、傷の回復が遅くなります。また、切断後は止血も必要となります。面倒をおかけしてしまいますが、わたくしの家までお越しいただけないでしょうか? 町の医者を呼びまして、万全の態勢たいせいのぞみたいのです」

「これは失敬。そこまで考え至りませんでした。そのようにいたします」

 クマ子爵は自身の失態に恥じ入っている様子です。そんなクマ子爵を気遣ってか、ニンゲン公爵は何でもないように、「いえいえ。ご理解いただけて助かりますよ」と言い放った。そしてその舌の根も乾かぬうちに、「それでは山を降りましょう。こちらです」と続けた。


 彼らは、ニンゲン公爵の先導で、山を降り始めました。

「医者が来るまでのあいだ、少しお待ちいただくかもしれません。それまで、先ほどお話しした蜂蜜をお出ししましょう。わたくしの妻に蜂蜜で色々と料理を作らせます。ああそうだ、食前に蜂蜜酒などいかがです?」

「本当に細やかなお気遣いをいただき、感謝の言葉もないくらいですよ。ぜひともお言葉に甘えさせていただきます」

 クマ子爵は申し訳なさそうにしながらも、顔を無邪気に綻ばせました。

 そのようにして彼らは、たわいのない話をしながら、のんびりと歩を進めていきました。

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