森の中での食い違い

倉井さとり

 ある晴れた日の午後のことであります。

 ひとりの老紳士が森の中を歩いておりました。

 彼の身なりは、傍から見て、ああこの方は山歩きをしているのだなと、一目で分かるようなものでありました。トレッキングシューズに、歩きやすそうなズボン。風をよく通しそうな上着には、どこか品があります。背中にはリュックサックを背負っており、そこにはクマ鈴がぶら下がり、彼が歩くのに合わせチリンチリンと鳴っておりました。


 空は晴れ渡り、雲ひとつない快晴であります。太陽は夏の盛りを思い出したかのように照っていましたが、木々の影の中にいる分には、人間には快適なものでありました。

 先程から無心で歩き続けていた老紳士でしたが、前方に何か気配を感じたものらしく、僅かにおもてを上げました。するとやはり、行く先に繁る草木の暗がりに、何者かの影が潜んでいるようでありました。

 老紳士は立ち止まり、しばしの間、影の出方をうかがっておりました。いささか老紳士は不安そう。それは当然であります。人里の程近くといえども、ここは森の中です。危険なけものと出くわさないという保証はありません。


 その時、暗がりがざわめきました。

 草木をきわけ姿を現した者はやはり獣でありました。しかしその者は、敵意などこれっぱかりもないというような柔和にゅうわな表情を浮かべており、そしてそのまま、しゃんと背筋の伸びた人間のような足取りで、老紳士の許に歩み寄ってまいりました。


 その者は、老紳士と同じ背丈ほどの、クマさんでありました。

 人間にもそれと分かる童顔に浮かぶのは、あどけない表情。くりくりしたつぶらな瞳、無邪気な微笑み。二本の脚でしっかりと立ち、姿勢はすこぶる良いものの少し撫肩なでがたであります。その全身は隈なく栗色で、綺麗な毛並みであります。まるで、少女たちの愛するクマのお人形を、そのまま大きくしたように愛らしい姿をしております。

 絵本の世界に迷い込んだかと思われる程、現実離れした光景でありますが、老紳士はさして不思議がることもなく、クマさんをながめておりました。


 クマさんは老紳士の前で立ち止まると、感じの良いあたたかい笑顔で挨拶をしました。

「こんにちは。気持ちのいいお天気ですね」

 クマさんの挨拶は、発音から仕草までその全てが本格式でありました。

 育ちの良さが感じられるような、洗練せんれんされたクマさんのその立ち振舞いに、老紳士は気分を良くしたものらしく、先程までの不安などつゆと消え、朗らかな様子で挨拶を返します。


「こんにちは。外に出ないともったいないくらいですな」

「ええ、まさに。……ご挨拶が遅れました。僕はクマ子爵ししゃくと申します」

「これはご丁寧に。わたくしはニンゲン公爵こうしゃくと申すものでございます」


 ふたりは握手を交わすと、職業や出身地などの話に花を咲かせました。互いが、相手の気心が知れたというような様子を見せた頃、クマ子爵はこう切り出しました。「今日はなぜこちらの森に?」

「いえですね、この歳になりますと、知らず自然というものにかれるものでして。ハイキングに来たのです」

「おお、ハイキングですか、それはいいですね。なるほど、森林浴は心身に良いと聞きます。やはり年齢を重ねると、本当に良いものが知れてくるのかもしれないですね。僕も大人になれば、自ずとそうなるのでしょうかねぇ」

「ちなみに、失礼ですが、クマ子爵殿は今おいくつですかな?」


 ニンゲン公爵は、同種である人間のレディーの方々の年齢ですら、検討の付けられないのが常でありましたので、クマさんたちの年齢となると尚更なのでありました。

 クマ子爵は少しばかり顔を赤らめながら、

「お恥ずかしながら、こう見えまして、まだまだ育ち盛りなのですよ」と答えました。

「とてもそうは見えませんでしたよ。とてもしっかりとした方なものだから」

 おべっかではなく、ニンゲン公爵は本心からそう思っておりました。

 最近の若者というのは、酷い奴は本当に酷いが、しっかりとした方は本当にしっかりとしている、最近の若者は両極端な世代である、というのがニンゲン公爵の持論でありました。ですから、礼儀を重んじる若者には、敬意をもって接しなければならないと、ニンゲン公爵は常々思っておったのでした。


 クマ子爵は、「いえいえ。僕などまだまだ不勉強ですよ」とかしこまりながら答えます。

 受け答えがしっかりしているだけでなく謙虚けんきょときている、とニンゲン公爵は益々にクマ子爵への好感を高めてゆくのでした。

「またまた、ご謙遜を」とニンゲン公爵は笑みをつくります。

 クマ子爵はさらに恐縮したものらしく、その果て、いじらしいような困った顔を浮かべると、恥ずかしさをまぎらわすためなのか、こう切り出しました。「かくいう僕はですね、ハンティングに来たのですよ」

「ほぅ、ハンティング。それはまた、おもむきのある趣味ですな」

「いえ。まだ趣味とはとても言えないようなものですけれど……」

 またも謙遜けんそんした様子で、クマ子爵は答えます。

「ちなみになにを狩られるのです?」というニンゲン公爵の質問に、クマ子爵は何やら恥ずかしそうに、こう答えました。「いろいろと挑戦中ですが、今日はですね、人間の皆さま方を狩らせていただこうかと」

 それを聞いて、ニンゲン公爵は感心しました。流石育ちが良いだけあり、通人なのだなと。

「ほぅほぅ、人間をですか。ずいぶんと変わったものを狩られるのですね」


 クマ子爵は慎み隠しておりますが、ニンゲン公爵には、その誇らしげな様子が分かり、クマ子爵にも年相応な面もあるのだなと、微笑ましく思うのでありました。

「友人に、好きなものがおりましてね。先日その友人から、人間の方の『手』を頂いたのです」と、クマ子爵は嬉しそうに言いました。

「手をですか?」と呟き、ニンゲン公爵は首をわずかに傾げ、ちらりと自身の左手に目をやりました。

「ええ、手です。それがまた、たまらなく美味でして、……なんて言えばいいのかな……、脂身があまりなく、奥の奥、骨の際まで引き締まり、肉本来の味や食感をシンプルに味わえ、……にもかかわらずどこか芳醇ほうじゅんな風味もあり、…………本当に素晴らしいものでしたよ。そして、それを自分で狩ってきたというのですからね……ロマンにあふれていますよ」とクマ子爵は、顔をほころばせながら、身振り手振りを交え、少々興奮した様子で、そう説明するのでした。


「しかし骨が邪魔でしょう?」

 と、ニンゲン公爵は言いました。顔は変わらず朗らかでありましたが、その言葉尻にはほんの僅かに嫌悪感を含まれているようでした。彼は、手羽先やフライドチキンの様な骨の付いた料理が昔から苦手なのでした。

 そんなニンゲン公爵の様子には気が付いていないらしく、クマ子爵は「少々、はしたないのですが、その骨をしゃぶるのもまた、良いのです」と幸せそうに言葉を重ねます。

「はぁ。手が美味とは驚きですな」

「あれほど自在に指を動かせるのですからね、複雑な食感になるのもうなずけます。僕なんかは、なかなかどうして不器用で、狩りをするにも一苦労なのです」


 クマ子爵は苦笑いを浮かべると、胸の前に左手を持っていき、五指ごしを握る開く、を何度か繰り返した。クマ子爵は、人間でいうところの、グー、パーを示したのでしょうが、指が短く動きも小さかったので、ニンゲン公爵にはそれが、グー未満、パー未満にしか思われず、思わず吹き出してしまいそうになるほどでした。しかし、そこは歳の功、ニンゲン公爵はその失礼な笑みを、朗らかな笑みに紛らわして「苦労もまた、味わいですからな」と平然と言ってのけるのでした。


「ものは言いようですね。それにしても、いやはや、爪ばかり長くて、お恥ずかしい限りですよ」と言ってクマ子爵は、しばらく愉快そうに笑い続けました。そして突然、真面目な顔付きになり、次のように切り出しました。「それでですね、折り入って、ご相談させていただきたいことが、あるのです」

「はて? なんでしょうか?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る