週末は発売日

黒井瓶

週末は発売日

 早めに帰路に着くと、百貨店はアドバルーンを上げていた。ひょうたんの形をした水玉模様のアドバルーンがたくさん青空に浮かんでいる。背景の空には飛行機雲がいつまでも筋を残している。縦向きの飛行機雲。ロケットでも打ち上げたのだろうか。

 信号が青に変わったので、僕はチョコケーキのようにべた付くアスファルトを蹴飛ばして向こう側へと渡っていった。車道には戦車が停まっている。戦車が信号を待っている。雑種の猫はキャタピラの前を滑るように走る。僕も走る。白い帽子の女性がビルの間に停泊している。

 タコがマンホールの上に座っている。よく漫画などでは赤く描かれているが、実際のタコはむしろ真珠のような虹彩を放っている。僕はタコと握手しようと思い手を伸ばす。タコは快く僕に応じる。その時、街路樹のサルスベリはいっせいに水蒸気を吹き散らした。タコはシルクハットを被り僕に剃刀を渡す。どうやら彼の目には僕の髭の剃り残しが気になるようだ。僕は苦笑し、剃刀を自分の顎に当てる。

「泡がなければ、はじまらない。」

という声を聞き僕は振り返る。そこには青いスーツ姿の白人が立っていた。白人は綺麗な歯を見せてこちらに微笑みかけ、僕のほうに洗顔料のチューブを差し出した。白い泡がチューブの先からこぼれ落ちる。僕は地面に落ちかかるそれを手で受け止めると、自分の顎に塗りつけた。唇のすき間をかいくぐって泡の苦味が口内に侵入してくる。なにか口直しをしたい。

「それなら、美味しいちゃんぽん麺を食べよう。屋上のテラスで西日を浴びつつちゃんぽん麺を食べよう。」

白人はそう提案すると、くるりとこちらに背中を見せた。白人の背中には亀の甲羅がついている。おお、浦島だ。小さい頃に聞かされた昔話がこんなところで役に立つとは。僕は白人の背中にまたがった。すると、白人の体はブゥンと唸り声を上げて三メートルほど上空に浮かび上がった。タコが帽子を振っている。僕も手を振り返した。地面がみるみる遠ざかっていく。その時、視界のすみに歩道橋が映る。何者かが歩道橋の上から水瓶の中身を下にこぼしている。色を見るに水瓶の中身は牛乳のようだ。

 百貨店の屋上は歩行者天国となっており、横にはさまざまな店が立ち並んでいた。赤と青のペンギンの立つ雑貨店、ウエハースの代わりにオブラートを使うアイスクリーム店、だるまのTシャツを売るブティック、食虫植物専門店、「宇宙時代のための狩猟用品店」! それらの小さな店先の前を学校帰りの女学生たちがゆったりとした足取りで歩いている。女学生たちはみな肩にアルマジロを乗せている。アルマジロは長いこと羽を広げなかったので羽が退化してしまったのだ、そう高校時代生物の先生から教わったのを僕は思い出した。その生物の先生とは長らく会っていないが、今彼はどこで何をしているのだろうか。眉の太いハンサムな先生だった。女学生たちのハイソックスを履いた足がレンガの道に淡い影を落としている。どこからか音楽が聞こえてくる。ABBAだ。なんて素晴らしいんだろう。こんな夕暮れにはUFOが飛んでもおかしくないし、飛ばなくたって構わない。パラソル付きのテーブルの彼方、南のビルの切れ間では海にクラゲが揺れている。

 僕は尻ポケットからくしゃくしゃになった紙幣を取り出すと、骸骨のような顔の店員にそれを渡した。奥へ向かっていく店員。蒸気。しばらくするとちゃんぽん麺が出てきた。僕はパラソルの下のテーブルにそれを置く。くたくたに煮込まれたキャベツが青く油に照っている。

 レンゲでスープを一口、僕は舌の上に流し込んだ。白いスープは味蕾の上を渦巻いている。箸で麺をつまみ上げる。麺には薄いかまぼこがへばりついている。僕がそれを口に入れると、麺は自ずから僕の舌に巻きついた。口の中を転がるかまぼこ。すでに暗い東の空ではヘリコプターがちかちかと赤く光っている。南の海の暗い波間ではヨットの影が帆を張っている。もうじき日も沈むのに、まだ浜に上がらないのだろうか。そのようなことを思いながら、僕はちゃんぽん麺に酢をかけた。

 振り返ると、道の上には仕事帰りの大人たちが歩いていた。もう女学生の時間ではなくなったのだ、そう僕は気付いた。電灯の柱に犬の紐がくくりつけられている。黒い華奢な犬は柱の周りをぐるぐると回っている。西の空の彼方では、すでに沈んでしまった太陽を忘れられないかのごとく雲が黄桃色に染まっていた。

「相席いいですか」

と言われたので、僕は顔を上げた。そこには肩の露出した服を着た女性がいた。白くぽっちゃりとしたその女性は手に皮の硬そうな果物を握り締めている。果物の上部には穴が開いており、そこにはストローが差し込まれている。

 どうぞ。僕はそう言って席をうながした。女性は僕の正面に座った。暗い海の波、女性の黒い髪。

 女性は口にストローの先端を近づけると、そっと唇にあてがった。ゆっくりと果物から半透明の果汁がせり上がってくる。女性の喉が動く。ため息がもれる。ちゃんぽん麺の汁の表面では銀河の星屑のように油の数珠がまたたいている。

 僕は箸でスープの底をかき回した。麺はもうなさそうだ。飲み干すにはすこしこの汁は重たい。僕は席を立つことにした。

 それはどこで? これだけは聞かなければと思い、僕は女性にそう尋ねた。女性は口からストローを外し、

「ああ、これですか?」

と果物を持ち上げた。

「あの上で売ってますよ」

と言って、彼女は視線を僕の背後に動かした。振り向くと、店と店の間にはエスカレーターが出来ていた。エスカレーターの先にはガラスでできたドームがあり、奥では芭蕉の葉が揺れている。

 おお、ありがとうございます。僕もそれを手に入れることとしましょう。それでは、よい週末を。そう僕は言うと、席を立ってエスカレーターへと向かっていった。ちゃんぽん麺の油で口の中がむかむかする。一刻も早くジュースで口の中をさわやかにしたい。

 上昇するエスカレーターから振り返ると、レンガ道の上は思ったよりも閑散としていた。先ほどの女性だけが、テラスで果物を啜っている。もう少し話していてもよかったかな、と僕は思った。冷たい宵の風に吹かれ、暗い大洋の上では飛行船が燃えている。

 自動ドアが開くと、ドームの中からむっとした熱気が押しよせてきた。その水蒸気の固まりに押され、僕は数歩後ずさりした。しかし、中にいけば美味しいジュースが手に入るのだ。僕は意を決して、ドームの中に足を踏み入れた。

 芭蕉の葉をかき分けて進んでいくと、突如として視界が開けた。そこにはトルコ石のタイルが貼られた小さなプールがあった。その向こうには果物のなる木が大量に茂っている。その横にはバーカウンターがあり、中では口ひげをはやしたおじさんが果物をくりぬいている。なるほど、あそこへ行けばジュースが手に入るのか。僕はプールサイドを歩いて向こう岸に向かおうとした。

 右を見ると、壁の上部からは水が滝をなして流れ落ちている。これでは向こう岸に渡れない。そう思って左を見ると、こちらはそもそも彼岸と此岸のプールサイドが繋がっていない。これはプールを越えるしかなさそうだ。幸い、プールの底は浅そうである。僕はズボンを膝までまくり上げると、プールに片足を突っ込んだ。

 歩いていくうちに、だんだんと底が深くなってきた。股が濡れそうになったので、僕はあわててプールサイドへと戻った。どうやって向こうへ渡ろうか。考えあぐねていると、腰にすべすべとした感触を覚えた。ズボンの中を覗くと、僕は水着を履いていた。そうだ、僕は水着を履いていたのだ。それに気がついた僕は、服を脱ぐと頭の上にそれを乗せた。

 だんだんと底が深くなっていく。僕はむしろそれを楽しむような気持ちで一歩、また一歩と前へ進んでいく。水は重く僕の足取りに応える。

 その時、僕は顔を上げた。プールサイドには鉛色の警官が立っていて、僕に拳銃を向けている。人数はざっと一ダース。

 僕は逃げようとして振り向いた。しかし、元いた側のプールサイドにも鉛色の警官が。僕は完全に包囲された。

 網が投げられた。僕はとっさに底に沈んだが、網は僕の体に覆いかぶさった。剥がそうともがけばもがくほど網は体に絡まる。口からもれた泡が水面で音もなく割れる。服はすべて濡れてしまった。

 僕はプールサイドに引き上げられた。ひゃっくりが止まらない。ひゃっくりのたびに口からぬるぬるとした液が漏れ、タイルに垂れ下がる。そのさまを周りの警官たちはどう思って見ているのだろうか。

 警官は僕の顎を握って自分の方に向けると、こう聞いた。

「お前、ここがどこだか知っているのか」

僕は無言で首を横に振った。自分の貧弱な体が視界に入る。なぜ僕の足はこうも毛が生えないのだろう。

「そうか」

そう言うと、警官は眉を引き下げた。

 僕はどうなってしまうんですか? 警官は黙っている。なぜ黙っているんですか? 他の警官たちも皆黙っている。僕が何をしたっていうんですか! ガラスの天井からぶら下がった照明の周りを蛾が飛んでいる。

「もういい。失せろ」

そう言うと、警官は僕をドームの外にたたき出した。水着姿のまま外に押し出される刹那、なぜか僕の鼻の奥ではホットケーキの香りが広がった。

 外では生温かい雨が降っていた。雨は僕の肩をぺちぺちと打つ。僕は手で太ももをこすって暖をとった。服はどこかへ行ってしまったままだ。服のポケットに入っていた現金も。僕はエスカレーターの下の町並みを見下ろした。分厚い合羽に身を包んだ人々が重苦しい顔つきで歩いている。

 僕はエスカレーターを降りた。店は軒並みシャッターに閉ざされている。僕は先ほどの女性の姿を探した。しかし、彼女はどこにもいない。例のテーブルを見ると、地面にあの果物の皮が落ちていた。僕はそれを拾い上げると、手ごろなゴミ箱を探して歩きはじめた。

 ゆるやかに湾曲する道を僕はゆらゆらと歩いた。素足にレンガは冷たい。ぬるい雨は降り続けている。このような道の上では透明な鯉が泳いでいるのだ。誤って踏みつけてしまうとぬるりとするのだ。

 しばらくすると、どこからか音楽が聞こえてきた。ファンキーなディスコだ。それは店と店のわずかな隙間から流れ出している。僕はその方向へと進んでいった。体を横にして隙間に滑り込むと、キノコのような臭いが鼻をついた。足元を見ると、コーラの瓶のかけらが散乱している。裸足で踏んだら怪我してしまうだろう。僕はそれを避けつつ音の鳴る方へと向かっていった。

 近づくにつれて、音楽に混ざって流れるわずかなノイズも聞こえてきた。ラジオなのかもしれない。僕は足を速めた。

 粘土と干しレンガで出来た貧民の住宅街、その真ん中に車はあった。派手な黒いセダン。その半開きの窓から音楽は流れ出していた。中では、Tシャツを着た鷲鼻の男が腕時計を磨いている。

 コンコン。僕は窓を叩いた。乗せていただけますか。鷲鼻はこちらを見て少し眉を上げた。

「裸だな」

はい。ちょっとしたことがありまして。

「下は」

履いてます。

「それならいい。乗れ」

そう言って鷲鼻は首で後部座席を指し示した。僕は感謝の言葉とともに乗り込んだ。車の中はぬくぬくと温かかった。

 鷲鼻は立ててあったコーヒーを手にとって飲んだ。ミラーに鷲鼻の顔が映る。鷲鼻の喉仏が動く。座席はやけに柔らかかった。

「んで、どこ行くの」

鷲鼻は僕にそう聞いた。そう言えば、僕はどこに行こうとしていたのだろう。わかりません、僕はそう答えた。

「そいつはいいや。俺の行き先でいいか?」

鷲鼻が愉快そうにそう言ったので、僕は笑顔で肯いた。

「んじゃ、そこにタオルケットがあるから寒かったらそれで体温めてくれ。行き先には服もあるはずだ」

そう言うと、男は背中を持ち上げた。僕は煙草臭いタオルケットを取ると膝の上に置いた。

 車が動き出した。タイヤは周りに散らばるコルクのかすを吹き上げ、貧民街を走り出した。かざぐるまがあばら家の窓に回っている。どこかでアコーディオンが鳴っている。ワイパーが大粒の雨を散らす。水に濡れた僕の髪は、固く乾いていた。

 貧民街を抜けると、道は荒野を切り裂いていた。鷲鼻は一言も話さずハンドルを握っている。遠くに高架が見える。ハイウェイだ。

 僕は視線を下げた。足元には写真が落ちていた。三人の顔が並んでいる。そのうちの一人の顔がハサミで切り取られている。カーラジオからは本邦のポップが流れる。女性ボーカルが歌っている。瞬間だけがほしい、瞬間だけがほしいの。

 僕を乗せた車はハイウェイに入っていった。夜のハイウェイはトラックの牙城である。小さい頃に兄の車でハイウェイに乗った時もトラックの台数に驚いたものだった。西洋のお城のようなラブホテルを尻目に、セダンは自分以外のすべてを追い越していった。進行方向の延長線上に都市がきらきらと光っている。暗雲たなびく夜空に二等辺三角形が作図されている。

「ガム」

突然、鷲鼻が口を開いた。

「とってくれ。座席に置いてあるはずだ」

僕は横を見た。なるほど、ガムのボトルが座席の上に一丁前に座っている。

 これですね。僕は運転席の方にガムを一個差し出した。

「センキュ」

そう言って鷲鼻はそれを受け取った。

「お前も噛むか?」

そう言われると無性に噛みたくなってきた。なにせ僕はちゃんぽん麺を食べてから歯を磨いていないのだ。それではお言葉に甘えて、と僕はボトルからガムを取り出して口の中に放り込んだ。青りんごのようなフレーバー。

 口の中でガムをこね回していると、コン、と窓を叩く音が聞こえた。

「アーメン」

男はそう呟いた。アーメン?

「さっきの音聞こえたか。あれは虫が車にぶつかった音だ」

ああ、虫。

「死ぬ瞬間、あいつらは何を思うんだろうな。高速で移動する巨大な何かに弾き飛ばされて」

思ったより繊細な人なんだな。僕はそう思いつつ、何を思うんですかねえ、と言った。テトリスのブロックがゆっくりと空から降りてくる。

 車は都市部へと近づいていった。横の車線では霊柩車が走っている。屋根の上の竜が電灯の光線を金色に乱反射している。手のひらの中でガムの包み紙がゆっくりと蒸れていく。

 どうやら、車はハイウェイを下りるようだ。ゆっくりと道が一般道へ続く。インターチェンジに近づくにつれて速度が落ちていく。巨大なイセエビが対向車線に佇んでいる。

 インターチェンジを抜けると、まっすぐ伸びた道にはドライブインが建ち並んでいた。さらに向こうにそびえるビル群に見下ろされつつ、車はゆっくりと前進していった。雨はいつの間にかやんでいた。

 セダンは鼻先を右に左にくんくんさせつつ夜の都市を這いずり回った。鷲鼻は何も気にしていない様子だったが、僕には先ほどから風景が変わらないようにしか見えなかった。そう思って鷲鼻のハンドルさばきを見つめると、彼は何回も何回も左折を繰り返している。こやつ、何をやっているのだ。そう僕がいぶかしんだ瞬間、男は右折した。先ほどまでの明るい表通りからうって変わって細く暗い道にセダンが入っていく。自動販売機の横、コンクリートの壁面に仏画が落書きされている。不動明王だ。背中にスプレーの炎を背負い、不動明王は衆生の煩悩を打ち破らんと屹立していた。

 しばらくすると、小さな駐車場に辿りついた。電灯が一本、一台も停まっていない駐車場を照らしていた。鷲鼻はセダンを尻からその駐車場におさめた。

 鷲鼻は車を降りた。僕も降りた。暗い空の黒、その上からビルがさらに黒い影を塗りたくっている。僕は鷲鼻の方を見た。鷲鼻は黙って歩き出した。僕は鷲鼻についていった。

 駐車場より先の道は急傾斜の下り坂だ。上から見る限りでは四十五度ほどに見える。おそらく、ここは元々崖だったのだろう。僕はその道をえっちらおっちら下っていった。鷲鼻はといえば、この傾斜をものともせずすいすいと足を進めている。どんどん彼が下っていくので、僕と彼との間にはちょっとした距離が出来ていた。ちょっと、待ってください。僕は鷲鼻にそう頼んだ。ちなみに、僕は未だ水着一丁である。

 鷲鼻は振り返った。立ち止まってくれている。僕は追いつこうと思ってとことこと駆けた。つまづきかけたがなんとか追いつくことができた。僕は未だ立ち止まっている鷲鼻に笑いかけた。すると、鷲鼻は口を開いた。

「墓だ」

え? 僕は鷲鼻の視線の先を見た。電灯が道路しか照らしていないので気付かなかったが、道の両脇には墓地が広がっていた。せせこましく墓碑が並んでいる。かびた餅と白い百合。

 僕はもう大人だ。墓場程度で怖がるような人間ではない。しかし、もちろんだが気味のいいものでもない。少し身を引いてしまった。

「ここらはもともと『死者の丘』と呼ばれていたんだ。しかし、丘の上は開発が進んで生きている奴らの街になった。丘の下は昔から生者の街だ。そこで、使いどころのない斜面に骨壷が押し付けられるようになった」

それで、こんなに窮屈そうにお墓が並んでいるんですね。僕は自分の全方位を取り囲む死者の名前を目で読みながらそう言った。坂上家、香山志保、武甲賢一郎、尾島かのん、「主イエスを愛した名もなき子羊」。

 鷲鼻はふたたび歩きはじめた。僕もその後を追う。そりでもあれば簡単に降りられるのに、などと思いつつ僕は急傾斜をずるずる下っていった。

 傾斜の終わりにして水平の始まり、そんな場所にどぶ川が流れていた。どぶ川は道の下を通っている。僕は柵から身を乗り出してどぶ川を覗き込んだ。藻の中にビニール傘が刺さっている。よく見ると、水には流れがない。ただ真夜中のどぶは澱んでいる。

 視線を少し上げたとき、僕はどぶ川の脇にある何かに気がついた。目をこらすと、それは顔の書かれた木の板だった。おそらく元はまな板であっただろうその顔は、墓場を背にして瞳のない目をこちらに向けていた。

 あれ、なんですか? 僕は鷲鼻にそう尋ねた。

「知らん」

鷲鼻は貯金箱のような目でこちらを見てそう言った。

「ただ」

そう言って彼は振り返り、僕たちの下ってきた「死者の丘」を仰ぎ見た。

「この丘、巨大な古墳だっていう説があってな」

僕も「死者の丘」を見あげた。頂きの方からは街の光が差し込んでいる。

「はじめからここは死者の住む場所だったんじゃないか、ってよ」

そう言いながら、彼は振り返るとさらに先に進みはじめた。僕もその後を追いかけた。

 やけに細長いビルだ、そう感じた。五階建ての打ちっぱなしで、階段は外についている。ひび割れた壁のいたるところにはステッカーが貼り付けられている。ひび割れをふさぐように絆創膏の形のステッカーが貼られている。ビルの脇には蛇口がついており、鉄さびの混じった赤い水滴を垂らしていた。

 鷲鼻は、ステッカーの貼られたガラス張りの扉を引いた。ガラスにへばりついていた人工の蛍が一斉に飛び立つ。それを手で払いのけながら、鷲鼻は薄明かりのともる屋内へと入っていった。僕も続けて入る。

 ビルの中は、外から見るよりも広かった。バーカウンターがあり、三人掛けのソファがあり、小さなステージがあった。バーカウンターの中では背の高いバーテンダーが一人で読書している。頭が小さい。三人掛けのソファの真ん中には義足だけが置いてある。ステージには誰もいない。ただピアノとアンプが置かれている。

 鷲鼻はバーテンダーに近寄ると、

「よ」

と言った。

「お」

バーテンダーは顔を上げるとにやっと笑い、

「久々じゃないですか」

と言った。

「新座さん今日はまだ来てないですよ」

そう言われ、鷲鼻は

「いや、今日は新座じゃない」

と言った。

「ほう」

そう言ってバーテンダーは分厚い唇をとがらせた。

「なるほど、理解しました」

「で、調子はどうなんだ」

「まあ、前よりはよほど元気そうですよ。動きはにぶいですが」

「それならいい」

「早いところどうにか」

「決着をつけるべき、ってか」

「ええ」

そう言うと鷲鼻は目を細め、バーテンダーが手に持つ本を見た。

「なんだそれ」

「クレイン・ドマゴの『震撼』っていう」

「知らないな」

「面白いですよ」

そう言うと、バーテンダーは『震撼』をカウンターの下に置き、

「今日は何にしますか」

と聞いた。

「あー、まずは連れに服を」

そう言って鷲鼻はこちらを見た。バーテンダーもこちらを見た。狭い室内、二人の男が水着姿の僕を見つめている。

「変ですね」

とバーテンダーが呟いた。

「何が」

と鷲鼻。

「いや、最近裸の人がよく来るんですよ。今月で三人目」

裸呼ばわりされたのがしゃくだったので、下は履いてます! と僕は言った。言ったあとで、必要以上に声を荒げてしまったことを恥じた。

「ああ、ごめんなさい。前の二人は下も怪しかったから、ちょっとね」

とバーテンダー。その時、

「それは俺のことかぁ!」

という声が上階から聞こえ、それとともにドシンという音と埃が降ってきた。すこしの間黙る三人。

「君は優等生だよ」

バーテンダーはささやくような声でそう言い、笑った。

 バーテンダーにうながされ、僕と鷲鼻は義足の両脇に腰掛けた。背骨の中で気泡がしゅわしゅわと弾けるような感覚が数秒間続く。

「タライさんはいつもので?」

とバーテンダー。肯く鷲鼻。鷲鼻は盥という名字なのだろうか。

「かしこまりました。お連れの方は?」

そう言ってバーテンダーはこちらを向いた。

いやあ、僕今所持金ゼロなんですよ。そう僕が言うと鷲鼻は、

「飲み物ぐらい俺が出すよ」

と言った。えっ、いいんですか?

「さっさと決めろ」

そうですね、じゃあコーラで。

「コーラですね。了解ですしばしお待ちを」

そう言ってバーテンダーはカウンターの内側へと向かっていった。

「服はちょっと待ってください、おそらく他の階にはあったと思います。あまり気の利いたものは期待できませんが……」

「何階だ?」

「そうですね、五階」

そう言われると鷲鼻は一瞬眉間に細いしわを作ったが、すぐ立ち上がると、

「ほら、行くぞ」

と僕に言った。え?

「五階だよ。服着たくないのか?」

もちろん着たいです。そう言って僕は立ち上がった。重しを失ったソファが軽く後ろに倒れる。目の前には蝿取り紙がぶら下がっていて、それはこの店の品格を著しく下げていた。小指の爪ほどの大きさの蝿がもがいている。一本だけ残った自由な足が空を掻く。

 鷲鼻が扉を開くと、外から人工の蛍が群れをなして飛び込んできた。手で払いのけながら進む鷲鼻。僕もその後を追う。

「それじゃ、ドリンクは帰ってきてから出しますね」

とバーテンダー。まだ代金を払っていない客を外に送り出すとは、よほど彼は鷲鼻を信用しているのだろう。

 裸足に夜の冷たい砂利が刺さる。鷲鼻はすいすいと階段の方へ向かっていくが、僕は足が痛くて進むのも楽ではない。それでもなんとかして鷲鼻についていった。

 階段は金属で出来ていた。ビルの外壁をジグザグと這っている。鷲鼻の大きな靴が一段目に乗ると、階段は冷たい音を立てた。僕も後を追う。何気なく手すりに手をかけると、人工の蛍にぶつかってしまった。逃げ遅れた一匹が手の中でもぞもぞしている。手を開くと、いかにも愚鈍なその一匹はのろのろと危げに羽で空気をかき混ぜ飛んでいった。

 二階の方から騒がしい声が聞こえてきた。扉の上部では誰かが勝手に付けたであろう「手術中」のランプが点灯している。扉の向こうでは酒盛りが行なわれているようだ。缶ビールのプルが引かれる音、若い女性の嬌声、とっくの昔に骨董品と化したゲームの効果音、当人たちもその意味を理解できていないような議論、誰かの携帯が鳴る音、乱痴気騒ぎの陰に隠れて誰も聞いていない小声の打ち明け話、ふたたび缶ビールのプルが引かれる音。そのようなさまざまな空気の震えが扉の隙間から漏れ出ていた。

 ふたたび上ろうとしたところ、その扉が急に開いた。出てきたのは背の低い眼鏡の女子だ。キリル文字のTシャツを着たその女子は鷲鼻に軽く会釈すると、やけに慇懃な口調で電話に応対しはじめた。会釈を返し階段をふたたび上りはじめる鷲鼻。後に続く僕に、鷲鼻はそっと

「さっきの女、院生」

と耳打ちした。なるほど、と僕。なんで耳打ちする必要があったのだろうか。もしかして「院生」ってなにかの隠語?

 そのような疑問を抱きつつ、僕は鷲鼻とともに三階へと上がっていった。カンカンという階段の音が数メートル下の固い地面から跳ね返ってくる。

 三階の扉の前では子供がしゃがみこんでいた。やけに目だけが大きいその子供は、よれよれのタンクトップを着ている。男か女かも分からない。子供のささくれだった指はさびた床の上に8の字を描いている。僕はしゃがみこむと、お父さんとお母さんは? とその子に尋ねた。

「中」

とその子は呟く。僕は扉の方を見た。木の扉の中央に摺りガラスがはまっている。ガラスの向こうからは青い光が差し込んでいるだけで、詳しいことはよく分からない。ただ、足元の隙間からノイズのような音が漏れ続けている。

 そっか、それなら早く中に行こうね。そう僕は子供に言い、さらに上へ上がっていこうとした。するとその子は、

「おいしいものちょうだい」

と言った。え?

「おいしいものちょうだい」

先ほどよりはっきりとした声だ。

「ねえ」

子供の手が僕の水着をつかんだ。尻の生地が伸びる。子供の猫のように大きな目がこちらを向いている。

 僕は子供の手首をつかんで引きはがすと、ごめん、と言って上っていった。鷲鼻は無言で、ちくわを一本その子に放ってやった。子供は飛びかかるようにしてちくわを取ると、何度も何度も床に叩きつけてちくわを殺してからそれを齧りはじめた。

 コンクリートの壁に黒板が貼り付けられており、その上には巨大な絵が描かれている。ピエタだ。十字架から下ろされたキリストをマリアが抱いている。その脇にはべたべたと張り紙が磁石で留められている。不審なゴリラが出没したとの情報。憲法改悪反対大行進の日程。一時間二万円のお店のチラシ。おびただしい数の張り紙の中に一枚、まっさらの白紙が混ざっていた。

 僕は鷲鼻を見た。鷲鼻は何も言わない。二階の女については自分から耳打ちしてきたのに、先ほどの子供については何も言わない。鷲鼻はただ、足元に散乱するDVDを踏み割りながら階段を上るだけだ。

 先ほどの子はなんだったんですか? 僕はそう鷲鼻に尋ねた。

「ああ」

そう僕には聞こえた。おう、だったかもしれない。とにかく、そんな感じの低い音を鷲鼻の喉は鳴らした。鷲鼻の手がポケットに入る。出てくる。ごつごつとしたその手にはちくわが握られていた。

「ほらよ」

鷲鼻はこちらにちくわを差し出した。僕は鷲鼻の目を見た。鷲鼻も僕の目を見た。二人は立ち止まる。静寂。遠くの救急車。僕はちくわを受け取った。

 ちくわを齧りつつ僕は階段を上がっていった。鷲鼻の刈り上げられたうなじが汗に濡れている。遠くの送電用鉄塔が赤くちかちかと点滅している。薄い踏み板のはるか下から蛙の鳴き声が湧き上がってくる。冷える体を手でさすると、古新聞のこすれるような音がした。

 四階の扉の前にはさまざまな物が置かれていた。すでに地上から消え去った国々の名が記された地球儀、ダッチワイフ、工事現場の看板、「ラジオ付き扇風機」、束ねられた雑誌。雑誌にはさまざまな種類があった。旅行情報、将棋、コンピュータゲーム、新宗教の機関誌、育児、プロレス。どれもこれもどこかかび臭い。

「四階から上は倉庫だ」

と鷲鼻。

「欲しいものあるか? 基本なんでも持っていけるぞ」

そう言われて僕はそこらをきょろきょろした。しかし、特に欲しいものはなかった。

 階段の一段一段に物が置かれていた。ツタンカーメンの仮面、車の形の消しゴム、ケースに入った蝶の標本、南京玉すだれのすだれ。それらを踏まないように気をつけながら僕は最上階へと上っていった。

 五階の扉の前は四階以上に雑多だった。あまり上階に多くの物を置くのはよくないのでは、と僕は思った。明らかにバランスが悪い。少し地震でも起こればこけしのように倒れてしまうだろう。

 鷲鼻は扉の手すりを握ると、ぐっと引いた。中は真っ暗だ。

「ほら、行くぞ」

と鷲鼻。暗闇を両手で掻き分け中へ侵入していく。よく見ると、暗闇に見えたものは膨大な量の服だった。古着が部屋全体を占めていて通る隙間もないのだ。

 僕は鷲鼻のあとを付いていった。洗剤と埃の臭いが鼻を突く。手で掻き分けても掻き分けても古着のかたまりは僕をゆっくりと押しつぶす。

「気に入ったのあったか?」

と鷲鼻が言う。そう言われても、近すぎて服をしっかり見られない。

 僕はさらに奥へ向かおうと手を伸ばした。なにか硬く冷たいものに手が触れる。なんだろうと思い、僕は邪魔な服を掻き分けそれを見た。大きな青銅製の何か、その一部を僕は垣間見た。これはなんだろう。

 その時。

「こういうのが欲しいとかあったら探してやるぞ」

という鷲鼻の声。声質のせいか、怒鳴られているように感じる。そうですね、まずは下着が欲しいです。僕はそう答えた。

「どういうの?」

特にどういうの、っていうのはないです。サイズが合えば。

「おう、ほらよ」

奥の方から鷲鼻がパンツを投げた。パンツは天井近くを飛び、僕の頭上に降ってきた。

 選ばれたのはブリーフだった。柄は黄色と黒のストライプ。いわゆる「鬼のパンツ」だ。おそらく、これが鷲鼻の感性なのだろう、素直に従おう。僕はそう思い、水着からそのブリーフに履き替えることにした。ここで履き替えてもいいですかね。

「お前、それでいいの?」

鷲鼻の笑う声。なるほど、そういうことだったのか。ジョークだと気付けなかった悔しさから、全然平気です、と強がって言ってしまった。

「そりゃあよかった。俺は着替えてても別に」

そう言われたので、僕は水着を脱いだ。綺麗に脱ごうとしたつもりだったが、水着は丸まってしまった。夜風に冷えた睾丸が砂肝のように縮み上がっている。

 ブリーフは僕の肌をぴったりと包みこんだ。陰茎のふくらみを眺めつつ、この柄もそう悪くはないぞと思った。

 しばらくして、僕は服を選び終えた。竹製のサンダル、すねの出た細めのジーパン、ウクライナ色のぶかぶかTシャツ、その上から僕はごわごわとしたジャケットを羽織った。僕は鷲鼻の元へ行き、どうですかね、と言った。

「うん、まあ好きなもの着るのが一番だよ」

と鷲鼻。

「なんか被る?」

それもいいですね。そう僕が言うと、鷲鼻は帽子のありかを教えてくれた。そちらへ向かうと、まさに山のように帽子が積まれていた。キャップもあればハットもある。

 その山の頂上に、あまり埃を被っていない野球帽が置かれていた。なんとなく手に取る僕。ローマ字のロゴの下には、人類進化の行進図がプリントされてあった。

「ファン?」

え?

「御徒町ダーウィンズ。俺ファンなんだよね」

鷲鼻はちょっと嬉しそうにそう言う。そうなんですか、でしたらと言って僕はその帽子を鷲鼻のほうに差し出した。

「いやお前が被れよ」

そう言って鷲鼻は僕の手からやや強引に帽子を奪い取り、僕の頭にはめた。

「似合ってるぞ」

そうですかねえ。正直野球帽は好みでなかったが、鷲鼻が満足げに僕を見ているのでこれでいいかと思った。服が決まったので僕は部屋の外へ向かって古着の海を泳ぎ始めた。

 色々ありがとうございます。僕は鷲鼻にそう言って頭を下げた。

「いや、いいよ」

そう言って鷲鼻は階段を降りはじめる。僕もその背中に続く。僕の中にちょっかいを出してやりたい気持ちが湧き上がった。はじめ会った時は怖そうだなぁって思ったんですけど、優しい人でよかったです。そう僕は鷲鼻の背中に声をかけてやった。

 ふいに鷲鼻が立ち止まる。顔は足元を向いたままだ。あれ、機嫌をそこねてしまったかな。

「優しい?」

はい、だって僕にこんなによくしてくれたし、虫とかいろんな生き物に対しても心遣いが繊細じゃないですか。僕は多少早口になりながらも鷲鼻にそう言ってやった。

 鷲鼻はしばらく黙っていた。振り向きもせず黙って、それから彼は低い声でこう言った。

「わかったようなこと言うんじゃねえ」

鷲鼻はふたたび歩きはじめた。

 すみませんでした。僕はそう早口で言った。しかし、鷲鼻は何も反応しない。ただ足元を見ながら階段を降りている。やばい、怒らせてしまった。そう思って僕は視線を下げ、ふたたび上げた。

 鷲鼻の後頭部に何かが付いている。というより、何かが生えている、という印象だ。僕は目をこらした。すると、それは甘海老の尻尾だった。鷲鼻は気付く様子もなく階段を下っていく。

 さっきまではこんなもの付いてなかったのになぜだ、とにかく気付かないように取ってあげよう。そう思って僕はそっと手を伸ばした。爪先で尻尾をつまむと、僕はゆっくりとそれをこちらへ引っ張った。

 すると、それに伴ってずるずるとむき身の甘海老もついてきた。甘海老は鷲鼻の後頭部から引き抜かれている。鷲鼻は何事もないかのように進んでいく。ついに全て引き抜き終わった。後頭部には何の跡も残っていない。

 僕は甘海老を見つめた。どこからどう見ても本物の甘海老だ。赤い尻尾から淡い桃色のむき身が情けなく垂れ下がっている。僕はそれを口元に持っていた。躊躇で軽く手が震える。しかし、無駄にするのももったいないだろう。僕は思い切ってそれを口に含んだ。

 なんてことはない、ただの甘海老だ。舌の上にぷちぷちとした食感が踊る。しばらく味を楽しんだあと、僕はそれを飲み込んだ。鷲鼻の後頭部から引き抜かれた甘海老が僕の胃に滑り落ちていく。

 それが胃に収まって数秒後、ふいに腹部に熱を感じた。熱は泡のようになって上へ上へと向かっていく。それとともに、概念のようなものが点滅を始めた。僕の精神内を生きるさまざまな概念が粘菌のように動き回る。何かが脳内をぐるぐると回るような感覚。僕は足を止めた。鷲鼻は意に介さず進んでいく。向かいのビルの窓がやけに輝いているように見えて――

 僕は理解した。なぜあの時鷲鼻が怒ったか。そして僕はどうしなければいけないのか。ぬるい風が僕の肌とTシャツの間を駆ける。鷲鼻は僕を置いて降りていってしまった。僕は目を見開くと、カンカンと音を立てて階段を下っていった。

 三階の扉の前にはまだあの子供がいた。子供は僕を見ると、

「おいしいものちょうだい」

と言った。

 ちゃんぽん麺食べたい? 僕は子供の耳元に近づくと、そう尋ねた。

「ちゃんぽん麺って?」

こちらを大きな目で見つめながら子供はそう聞き返した。僕は言ってやった。白いスープにつるつるの麺、そこに豚肉、ねぎ、かまぼこ、きくらげ、にんじん、エトセトラ。白く大きな器の中を泳いでるって寸法さ。そう僕が答えると、子供の目つきが変わった。

「食べたい! ちょうだい!」

ふふ、じゃあ付いてきな。僕はそう言うと、子供を従えて一階へと降りていった。

 一階の部屋はやけに混雑していた。ステージでは黒眼鏡の男がサックスを吹いている。見渡したが、鷲鼻の姿はなかった。先ほどのバーテンダーの姿もない。その代わりに、バーカウンターの中では院生の女が働いていた。院生は僕に気付くと、

「コーラのお客様ですよね!」

と言って近づいてきた。あれ、さっきまでのバーテンダーの人は?

「ああ、タライさんと外に。話があるとか言ってました。それで私、頼まれちゃって」

そう言って院生は笑った。

「コーラでよろしいですか?」

あー、変えてもいいかな。

「どうぞ」

この店で一番元気が出るドリンクが欲しい。僕はそう院生に言った。院生は少し考えてから、

「うーん、あれかな?」

と言って探しはじめた。

「あった、これですね。たちどころに元気が出ますよ」

そう言って院生は氷入りのグラスに琥珀色の液体を注いだ。屈折率の違いで向こうが陽炎のように揺れている。ありがとう。僕はそう院生に言うと部屋の外に出た。外では子供が人工の蛍を追いかけていた。子供は僕の持つドリンクを見ると、

「それちょうだい」

と言った。だーめ、と僕が言うと顔をふくらましている。ついてくればあとでもっと美味しいもの飲ませるから、と言ってやったが、まだ納得がいかないようだ。

 僕は子供とともにビルの裏手に回った。ビルの裏には室外機が置かれており、その横にはマンホールがあった。僕はしゃがむと、マンホールの両端を持ってゆっくりとそれをずらした。思いのほかそれは軽かった。

 僕は、ゆっくり、静かにマンホールの中へ潜りこんだ。朽ちかけた手すりを握りしめ、慎重に慎重に下がっていく。耳をこらすと、数メートル下から人の声が聞こえてくる。何やら口論をしているようだ。それとともに、何やら巨大な生き物の息遣いも聞こえてくる。予想通り。僕はほくそ笑んだ。

 その時。僕のつかんでいた手すりが根元のコンクリートごと外れた。ボゴッ。僕は他の手すりをつかもうとしたが、手は空を切った。尻がどんどん下がっていく。背中がコンクリートの壁とこすれる。ニュートンの理論に従って僕の体は自由落下を始めた。

 一瞬ののち、尾てい骨に衝撃。痺れるような激痛に僕は顔を歪めた。すると、その顔に丸い光が当たる。懐中電灯だ。

「誰だ!」

との叫び声。僕は激しく慌てた。しかし同時に僕は慌てる心のどこか片隅で、すごく月並みな反応だなぁとも思っていた。

「お前か」

もう一人がそう言う。その低く呟くような声。間違いない。鷲鼻だ。

 僕はひりひりする腰を持ち上げた。地下室の壁に僕の黒い影が伸びる。鷲鼻とバーテンダーは、そんな僕をギョッとした目で見ていた。

 見苦しいところをお見せしてしまいましたね、ごめんなさい。僕は笑顔でそう言った。

「なぜここが分かった!」

とバーテンダー。

 このビル、元は火の見櫓でしたよね? そう僕が聞くと、バーテンダーは肯いた。

 五階の部屋に半鐘がぶら下がっていたので気がつきました。だからこんなに細長いのか、とね。もちろん例外はありますが、火の見櫓の足元には防火水槽があるものです。水を抜けば地下室だ。何かを隠したり秘密の相談をするにはもってこいの場所でしょう。僕と一緒にいるときから不審な様子だったので、ここだろうと思いついてきちゃいました。

 そう僕は笑顔で説明した。バーテンダーの顔がこわばる。

 僕たち三人しかいないにしては、この地下室は妙に臭いですね。僕の体臭かな? そう言って僕は笑顔で自分のTシャツを嗅いだ。バーテンダーは引きつった顔でこちらに懐中電灯を向けている。臭い臭い、獣臭い。部屋に閉じこめられて糞まみれになってしまった獣の臭いがする。そう僕は笑いながら言った。バーテンダーは血走った目でこちらを凝視している。

 あなた方、背後に何か隠してますね。どいてくださいよ。僕がそう言うと、二人は素直に脇に寄った。暗闇の奥で何かが息をしている。黒いペンキを塗りたくったような暗闇の奥に何かがいる。

 懐中電灯を当ててください。僕が誰だかはもう分かったでしょう。僕はそうバーテンダーに言った。バーテンダーはこちらを睨んだが、観念したのか懐中電灯を奥に向けた。

 丸い光が硬そうな茶褐色の毛を照らした。毛の生えた体が呼吸の音に合わせて上下に動いている。懐中電灯の光が右に動く。光はついにそれの顔をとらえた。きくらげのような耳、毛の中に埋もれた弱々しい目、長い鼻、そしていかにも強靭そうに生えた牙……

 マンモスだ。僕は予想以上の存在に驚きの声を上げた。

「そうだ、マンモスだ」

そう鷲鼻は呟く。マンモスは、尻尾から鼻先までの全てを床に横たえている。

「最初から俺は反対だったんだ」

そう言って、鷲鼻は僕に全てを語りはじめた。

 話は「死者の丘」の再開発が始まった頃に遡る。墓地を掘っていた作業員たちは、妙な形の岩が突き出しているのを発見した。掘り出してみると、それはマンモスの化石だった。当時その現場の頭だった鷲鼻は、部下とともに秘密裏にその化石を持ち去る。

「そういうのよく分からねえが、金になるかと思ったんだ」

そう鷲鼻は言った。

 しかし、上手く売りさばく方法はなかなか見つからなかった。かと言って、すでに再開発は始まっているので埋め返すわけにもいかない。巨大な化石を持て余した鷲鼻は、顔なじみのバーテンダーの前で口を滑らせてしまう。強く興味を示すバーテンダー。

「そして、俺はこの場所にその化石を持ち込んだ」

生き返らせませんか。そうバーテンダーは提案した。どうやら、バーテンダーは学生時代その方面の研究をしていたようなのだ。私たちの手で命を蘇らせるんです、そうバーテンダーは熱く語った。鷲鼻が過去の生物を蘇らせるのは危険ではないかと言っても、バーテンダーはさまざまな根拠を元に大丈夫だと力説した。

「しょせん俺は高卒、こいつの方が頭脳は上なんだ」

かくして、バーテンダーは化石を蘇らせる世紀の大実験を開始した。そしてそれは成功した。

「少なくとも、はじめはそのように見えた」

長い眠りから覚めたマンモスには元気がなかった。なかなか立ち上がれず、立ち上がってもすぐに崩れ落ちた。食欲もなかった。ただ、長い鼻をホースのように横たえて呼吸をするのみだった。そして、その唯一の生の証拠すら日を追うごとに弱くなっていった。

「そして今、食費が尽きかけている。マンモスが遊べるだけの十分な広さのある土地もない。あいつは殺そうと言っているが、せっかく蘇った命を殺すなんて俺には出来ない」

そう鷲鼻は言い、ため息をついた。

 その時、

「じゃあどうするんですか!」

とバーテンダーが言った。

「私はリアリストなんです、今出来ることの中で一番ましな選択を提示しているだけです」「元はと言えばお前が!」

そう言って掴みかかろうとする鷲鼻を僕は制した。鷲鼻は少し落ち着いたが、

「何がリアリストだ」

と吐き捨てるように言った。

「私もこんなことはしたくないんです」

そう言ってバーテンダーは巨大な注射針を取り出した。

「大丈夫です、苦しくはないものです」

「やめろ」

バーテンダーはマンモスの首元に近づく。

「やめろ」

「仕方がないんです」

「やめろ」

その時、目の前を何かがすばやく通り抜けた。

 白い何かがモモンガのように滑空し、バーテンダーに掴みかかった。その生き物はバーテンダーの顔を引っかくと、手に握られていた注射器を叩き落とした。注射器はコンクリートの床に落ち、割れた。その生き物は倒れたバーテンダーに馬乗りになったままこちらに顔を向けた。

「ちゃんぽん麺のお兄ちゃん、これでよかった?」

ばっちり。僕はそう言ってやった。

 バーテンダーが子供と格闘している間に僕はマンモスの元へと駆け寄った。マンモスは口を半開きにしたまま乾いた息を吐いている。

 ちょっとキツい味だろうけど、我慢して。僕はそう言ってマンモスの口にドリンクを流し込んだ。院生からもらったあのドリンクだ。さあ、飲み込んで。僕はそうマンモスの耳元でささやいた。マンモスの小さな目が閉ざされる。

 次の瞬間、マンモスの目が見開かれた。眼球に血管が浮かび上がっている。それだけではない、全身の毛がざわざわと逆立ちはじめた。鼻がゆっくりと起き上がる。剛毛の下の筋肉に固く力がこもり始めたのが伝わってきた。

 マンモスはゆっくりと起き上がった。自分の糞にまみれた床を後ろ足で蹴って。暗く湿った地下室の床を前足で蹴って。ふらふらと揺れつつ、歯を食いしばりつつ。マンモスは、天井に届かんばかりの巨体を持ち上げた。

 次の瞬間、マンモスは走り出した。鈍い音。マンモスのこぶのような頭が地下室の壁にぶつかる。マンモスは後ずさりすると、もう一度地下室の壁に頭をぶつけた。鈍い音。そのたびに、地下室全体が重く揺れる。

「やめろ!」

バーテンダーが叫ぶ。

「崩れるぞ!」

その一言で子供は立ち上がった。不安そうな目をこちらに向けている。鷲鼻も心なしか不安そうだ。

「この上にはビルも建っているんだ、ここが崩れたらみんなお陀仏だ!」

人間の言葉の意味を知ってか知らずか、マンモスはさらに力強く壁にぶつかった。ピキッ、という、明らかに今までとは違う音。マンモスはもう一度後ずさりし、全力疾走で壁に激突した。

 僕は目をつぶった。皆も目をつぶった。何かが瓦解する音、その音だけが聞こえた。目を開けた。天井は未だ頭の上にある。やけに明るい。

 光の差す方向を見ると、そこには草原が広がっていた。その上には濃厚な青空。

 壁の瓦礫を踏み越え、マンモスはゆっくりと外へ歩き出した。子供も、そして僕も。

「やめろ、行くな」

そうバーテンダーが叫ぶ。半ば哀願するような調子で。もはや誰の目にも明らかだった。この人は自分の失敗を人に知られたくないからマンモスを閉じ込めていたのだ。

 マンモスはそこら辺に生えている草を一口食んだ。背を伸ばし、しばし身震いする。少し前足を浮かせ、どこまでも続く地平線を眺める。そして最後にマンモスは、滅茶苦茶にトロンボーンを吹いたような威勢のいい鳴き声を上げた。

 なあマンモスよ、僕たちも連れていっておくれ。僕はマンモスにそう叫んだ。マンモスはこちらを振り向くと、前足を追って背中を促した。僕は嬉しくなってしまい、飛び跳ねるようにして背中に飛び乗った。そして最後に子供を引き上げると、僕の前に座らせた。

 ゆっくりとマンモスは歩きはじめた。放心状態のバーテンダーと、こちらを見つめる鷲鼻を残して。

 タライさーん! 僕は鷲鼻に叫んだ。

 タライさん、やっぱり優しいですねー!

 鷲鼻は眩しげな目でこちらを睨んでいたが、その声が届くとなんだか妙な顔で苦笑いしていた。

 マンモスは草原を歩き続けた。空気は軽く澄んでいる。黄緑色の草の中にところどころ薄紫の花が群生している。遠くに高波のような丘がせり上がっている。その光景は、社会科の教科書に載っていたモンゴル高原の風景に似ていた。

 子供が眩しそうにしていたので、僕は被っていた野球帽を子供の頭に乗せてやった。振り返り嬉しそうに笑う子供。相変わらず中性的である。

 そう言えば、名前はなんていうの? 僕は子供にそう尋ねた。

「かおる」

名前すら中性的だ。僕はそっかと呟くと、マンモスに対しても同じ質問をぶつけた。あんたの名前は? マンモスは首を持ち上げると、しばし目を細めた。そして、彼は地平線の向こうのそのまた向こうへ向けて一声叫んだ。イネ科の一年草がざわざわと風にゆらぐ。

 へえ、嵯峨野っていうんだ。僕はそうマンモスに言った。マンモスはいかにもという具合に肯いた。のそりのそりと嵯峨野は僕らを乗せて草原を行く。

 僕は先ほどの嵯峨野の叫びについて思った。そして、その前の彼の目つきについて。かつて彼を嵯峨野と呼んでいた者はもうこの星から消え去ってしまっている、そのことに思いをはせて嵯峨野は地平線に咆哮を投げたのだろう。嵯峨野には種族の名をともに支えてくれる仲間など存在しないのだ。そう思うと、吸い込んだ風に鼻の奥が疼いた。

 しばらくして、身内が存在しないのはかおるも同じだということに僕は気付いた。そうか、僕はかおるを親元から引き離してしまったのだ。そう思うと僕は激しく自らの軽挙を悔やんだ。

 かおるくん、親の元に帰りたいかい? そう僕はかおるに聞いた。かおるはすぐさま、

「帰りたくない」

と答えた。その返答に僕の自省の念はだいぶ和らいだ。しかし、子供というものはいずれ親を求めるだろう。その時僕はどうすれば……

「お兄ちゃんは心配しなくていいよ」

僕がまだ質問もしていないのにかおるはそう答えた。まあ、本人がそう言っているんだ、それでいいだろう。僕はそう自分に言い聞かせつつ、青と緑の境界線をぼんやりと眺めていた。

 川が流れている。浅く濁った、川幅だけ中途半端に広い川だ。大して流れも速くない。その川の中に白装束の人々がいる。彼らは木製の十字架を振り回しつつ、時おり水中に潜り込んでいる。彫りの深い老人、赤子を抱いた女性、水を手で叩いて遊ぶ少年、父の手を握る少女。誰も彼も腰まで水に浸かっている。

 すみません、この川はどれくらい深いですか。僕は彼らに向かってそう話しかけた。長老格の老人がそれに答えて、

「この川はかなり浅いよ。そのマンモスなら越えられるはずだ」

と叫び返した。僕は感謝の言葉を伝えたあと、皆さん総出で何してらっしゃるんですか? と老人に尋ねた。

「ああ、これか。これは洗礼じゃよ」

そう老人は言うと、黒髪の少女の前に立った。目を伏せる少女の頭の上にしばらく十字架を振ったあと、老人は少女の肩に手を置き一気に水面下に押し込んだ。軽く水しぶきが上がる。川底から泥が巻き上がる。数十秒後、やっと老人は手を離した。長い髪の先から水を垂らしつつ、少女はぜえぜえと息を荒げている。少女の小麦色の頬には一筋、濃緑色の藻がへばりついていた。

 そうですか、神のご加護がありますように! 僕が白装束の集団にそう叫ぶと、嵯峨野は再び歩を進め始めた。濁った水は嵯峨野の足にまとわりつく。嵯峨野は腰をかがめると水をごくごくと飲み、残りを空に向かって鼻から噴いた。霧の中心に一瞬だけ真ん丸な虹ができて、消えた。

「センレイってなに?」

とかおるが僕に尋ねる。ああ、洗礼っていうのはさっきの女の子みたいに水に浸かることだよ。水に浸かると神様がその人のした悪いこととかを赦してくれるんだ。それと同時に子供は一人前と見なされるようになる。そう僕は説明した。すると、かおるの目が輝いた。

「センレイうけたい」

そう言うと、かおるは嵯峨野の背中から降りようとした。慌てて止める僕。だめだ、こんな汚い川に入っては病気になってしまう。僕がそう言うと、かおるはこちらを睨みながらも不承不承僕に従った。

 その時、僕の頭にひらめきが起こった。僕の口が動く。その代わり、街に着いたら僕がかおるくんに洗礼を授けてあげよう。

「ほんとう?」

本当だよ。それもこんな汚い川ではなく、綺麗なプールで。トルコ石のタイル、芭蕉の育つ温室、プールサイドには果物のジュース。

「やった!」

かおるはそう言って喜んだ。嵯峨野の背の上でかおるの尻が跳ねる。そのたびに嵯峨野は迷惑そうに鼻を鳴らすのだった。

 そんなうちに、僕らを乗せた嵯峨野は川を越えた。振り返ると、白装束たちの影はきらきらと光る波の間にかすかに見えるばかりだ。鴨の一群が飛んできて、飛び立った。僕はふたたび視線を前方に戻す。青と緑の狭間、遠く彼方にキラリと光る銀色の点がある。僕の心臓が熱い血を全身に送り出す。ああ、都市だ。

 僕はついにあの街へと帰ってきた。水玉模様のアドバルーン、べたつくアスファルト、道端のサルスベリ。何も変わっていない、ただ僕だけが変わっている。

 僕は嵯峨野の背中から滑り降りると、マンホールの上のタコに手を振った。タコは手を振り返している。僕は赤信号を走って渡ると、タコの手を強く握り締めた。痛みにタコは顔をゆがめる。僕は手を離してやった。

「また髭が伸びているようだね」

タコはそう僕に言う。だが、手で触ってみても顎はすべすべしている。そんなに伸びているかな? と言う僕の声を無視してタコはこちらに剃刀を差し出した。仕方がないので受け取る僕。すると背後から、

「泡がなければ、はじまらない。」

という声が。振り返ると、そこには銀色のスーツの白人がいた。スーツの色、変えたんですね。僕はそう白人に言った。

「ああ、流行が変わったんだ」

そう白人は言う。

「美味しいちゃんぽん麺を食べよう。屋上のテラスで西日を浴びつつちゃんぽん麺を食べよう。」

そう言うと白人はこちらに背を向けた。スーツの背中に亀の甲羅が付いている。僕はそれに手を伸ばした。甲羅の端に手が触れる。僕は思い切りそれを引っ張った。甲羅は簡単に剥がれた。僕は全力で道の向こう側まで走ると、嵯峨野の背中によじ登った。

 白人はいつまでも背中にまたがらない僕に不信感を抱いたのか、こちらを振り返った。そこで彼は僕が甲羅を強奪したことを知った。

「規約違反だ! 緊急事態発生!」

白人はそう叫ぶと、こちらに向かって走ってきた。僕は嵯峨野の背中に亀の甲羅を貼り付けた。ブゥン。嵯峨野の巨体が宙に浮く。そのまま嵯峨野は僕らを乗せてゆっくりと空へ向かっていった。

 「待て!」

路上から僕らを見上げつつ、白人はそんな言葉を叫んだ。次の瞬間、彼は車道を走る戦車に跳ね飛ばされた。戦車は停まることなくふたたび白人を轢く。銀色のスーツにキャタピラが乗り上げる。その横を雑種の猫が闊歩する。嵯峨野の足はどんどん地面から遠ざかっていく。

 百貨店の屋上、歩行者天国の路上では大勢の女学生がこちらを見ている。どうやら嵯峨野に興味津々のようだ。口々に何か言いつつこちらにスマートフォンを向けている。さしずめ、カメラで僕らの写真を撮っているのだろう。

 彼女たちをぼんやりと眺めていた僕は、嵯峨野の毛が逆立つのを感じた。見ると、嵯峨野の目は血走っている。どうやら彼は彼女たちの目にバーテンダーのそれと同じものを感じているようだ。僕は止めようとしたが、時すでに遅し。嵯峨野は屋上の人だかりに向かって突進していった。

 柵を一部破壊し、嵯峨野は歩行者天国へと乗り込んだ。女学生たちが悲鳴を上げながら逃げ去っていく。アルマジロが彼女たちの肩からぼとぼとと落ちていく。あまり時間も経たないうちに、歩行者天国には僕らとアルマジロしかいなくなってしまった。

 僕とかおるは嵯峨野の背中から飛び降りた。かおるは四方八方をきょろきょろと見つめている。どうだ、いいところだろう。そう僕が言うと、かおるは

「お兄ちゃん、おなかすいた」

と言った。そうだった、ちゃんぽん麺を忘れていた。僕はかおるにちゃんぽん麺を食べさせるためにここに戻ってきたのだった。僕は当初の目的を思い出すと、いつも紙幣を入れていたポケットに左手を突っ込んだ。指先が何にも触れない。ざらざらとした紙の感触はおろか、チャリンという音すらしない。そうだった、僕はあそこで服を失くしたんだった。今着ている服はあそこで手に入れたものだった――僕はそう気付いた。しかし、もう遅い。どうしようかと途方に暮れた僕は、もう片方の手をふと見た。その手には、タコから貰った剃刀が握られてた。

 ちゃんぽん麺の店では骸骨のような顔の店員が働いていた。こちらに挨拶をしようと身をかがめた店員に対し、僕は笑顔で剃刀を突きつけた。店員はその刃先をじっと見つめると、店の奥から大盛りのちゃんぽん麺を一杯持ってきた。首を横に振る僕。すると、店員はもう一杯を追加で持ってきた。僕はまた首を横に振る。すると店員はついに寸胴を丸ごと持ってきた。僕は首を縦に振った。

 テラスでの夕食は最高のものだった。かおるははじめてのちゃんぽん麺を一心不乱に啜りこんでいる。嵯峨野は寸胴に鼻先を突っ込み、器用に口へ具を運んでいる。ピンク色の夕日に西の空が燃えている。南の海を臨みつつ、僕は白いスープを最後まで飲み干した。

 口の周りを濡らしつつちゃんぽん麺を食べ終えたかおるに対し、僕は話しかけた。

「さて、洗礼の時間だ」

そう言って振り返ると、エスカレーターの向こうにはガラス製のドームがあった。中では芭蕉が揺れている。

 ドームの自動ドアが開いた。中からむっとした蒸気が漏れてくる。ドアの直径は嵯峨野がちょうど入れるか入れないかぐらい。いざとなったら後ろから押してあげる、そう僕が言うと嵯峨野は意を決したように中へと入っていった。

 頭を低くかがめつつ、嵯峨野はドームの中へと入っていった。背中のこぶがつかえている。僕は嵯峨野の尻に手をつくと、思い切り押し込んだ。かおるも僕を手伝う。嵯峨野は苦しそうな声を上げる。ミシッ、ミシッ、という音。これはドームが壊れるかもしれないな、と僕が思ったその時、嵯峨野の体は向こう側に抜けた。全員がほっと一息つく。歩きはじめた嵯峨野の尻を追い、僕たちもドームの中へ入っていった。

 プールの向こう岸ではあの時の女性がジュースを飲んでいた。あの時と同じく、女性は肩の露出した服を着ている。女性は僕たちの姿を見ると悲鳴を上げた。

「まだ来ない定めでしょ!」

そう女性が叫ぶや否や、プールサイドには鉛色の警官が並んでいた。僕たちに銃口を向けている。僕とかおるは、素直に両手を上げた。ゆっくりと嵯峨野の耳元に近づく僕。僕は嵯峨野にしか聞こえないような音量で、やって、とだけ呟いた。

 嵯峨野が前進を始めた。警官たちがざわつく。

「止まれ! 止まらないと……」

そう言い終わるか言い終わらないかのうちに、嵯峨野の鼻は警官をつかみ上げた。嵯峨野はそのまま、逃げようともがく警官をプールに放り込んだ。高く水しぶきが上がる。

 今だ! 僕はかおるにそう叫んだ。言われる前からかおるは警官に飛びかかっていた。

 僕は剃刀を振り回し、目に付いた警官に片っ端から切れ込みを入れていった。かおるは警官を押し倒し、彼らの顔に大量の爪あとを残した。嵯峨野は向かってくる命知らずの警官を鼻でつまみ上げては天井に、床に、プールに容赦なく放り投げた。数分足らずで、警官たちは皆倒れたまま起き上がらなくなってしまった。

 あの女性はどこかへ逃げていた。

 僕とかおるは嵯峨野の背中に飛び乗った。嵯峨野はゆっくりとプールに足を踏み入れる。嵯峨野のどっしりとした前足がクリスタルのような水面を砕く。だんだんとプールの底は深くなっていく。

 プールの中ほどまで来たところで、嵯峨野は歩みを止めた。僕はかおるに微笑みかけた。かおるも僕に笑いかけた。見てな、そう僕はかおるに言うと、わざと失敗してみせようと思い背中からプールへと落ちていった。

 僕は来るべき衝撃に備えて目を閉ざした。ゆっくりと体が嵯峨野を離れ下降していく。その下降の延長線上には必ず水面がある、僕はそう確信して目を閉じた。

 しかし、いくら経っても背中が水に着かない。これはおかしいと思い、僕は目を開けた。そこにはかおるがいた。嵯峨野の背中から身を乗り出し、かおるは輝いた瞳でもってこちらを見下ろしていた。純真無垢な笑顔。その笑顔のままかおるは凍りついていた。

 僕は恐るべき仮説を思い浮かべ、すぐさまそれを否定しうる証拠を見つけようと周りを見回した。どこにもその仮説を覆しうる証拠はなかった。否、あらゆるものがその仮説を支持していた。僕が嵯峨野の体を離れてから水面に落ちるまでの一瞬、その一瞬で僕以外の全てが停止してしまったのだ。

 そんなことがありえるだろうか。僕は慌てる心を静めようと思い目をつぶった。僕の体は依然として嵯峨野と水面の間をふわふわと浮かんでいる。

 いや、違う。僕は目を開けた。少しだけ、先ほどとアングルが変わっている。僕は非常にゆっくりとしたスピードで落ち続けているのだ。

 僕は半分ノミを思い出した。半分ノミといっても、実際にいるノミではない。数学者の脳内にだけ生きる特殊なノミだ。そのノミは主に部屋の隅に潜んでいて、部屋の向こう側まで跳んでいこうとする。しかし、悲しいことにそのノミは自分から目的地までの距離の半分しか跳ぶことができない。半分、半分の半分、半分の半分の半分……そうやっていつまで跳んでも、ノミは向こう側へ辿り着くことができない。それと同じことが僕に起きているのではないか。

 もしそうだとしたらそれはなぜだろう。僕は自分の行なってきたことを思い返した。僕は先ほど警官に対して暴力を振るった。ひょっとしたら死人も出たかもしれない。それに対して罰が下ったのだろうか。いや、そもそもその前に僕は店員に対して強盗を働いていたではないか。これはそれに対する罰? 思い返せばその前に僕は白人から甲羅を奪っていた。自分で手を下したわけではないとはいえ、結果としてあの白人は死んでしまったではないか。というか、そもそも聖者に代わってかおるに洗礼を捧げようとしたのがいけなかったのか? 神が僕を冒涜者だと見なしたせいでこのようなことになったのか? いや、それ以前の問題だ。僕はかおるを親から引き離し、嵯峨野を無理やりバーテンダーから引き剥がした。自分では倫理に適っていると思っていたようだが、それも僕の思い上がりだったのでは?

 よく分からない。

 自分の悪行を一つ一つ挙げていった結果、僕は何かどうでもいい気分になってしまった。そもそも、それぞれの行為がそこまで悪いことだとは思えないし、それほど悪いことだったとしても僕だけがこのような目に遭う必要はないだろう。これは僕に対する罰ではなく、単なる偶然の産物なのだ。そう僕は考えた。

 では、なぜこのような偶然が起こったのだろうか。僕はかおるの凍結された笑顔を見つめながらそう疑問に思った。かおるから見て僕はどのように見えているのだろうか。そもそも、かおるにとっての一秒後は存在するのだろうか。仮に存在するとして、その目にはプールに無様な格好で落ちる僕の姿が映っているだろう。水しぶきが上がり、かおるは僕を笑うだろう。そして僕もまた恥ずかしそうに笑い、かおるに降りることを促すだろう。降りてきたかおるを僕は水に沈め、彼に洗礼を授けるだろう。そしてかおるは一人前の大人になるのだ。嵯峨野が鼻から祝福の噴水を上げるかもしれない。

 もしそのようなことが起こったとして、その場でかおるや嵯峨野と笑いあう僕は本当の僕なのだろうか? いや、違う! 僕はかおるに向かって叫んだ。一秒後の僕は断じて僕ではない。今この瞬間、水面の数ミリメートル上でもがいているこの僕だけが現実なんだ!

 そうは言ったものの、この声がかおるの耳に届くことはないだろう。結局のところ、僕はどうにかして水面に届かなければいけないのだ。しかし、その時は果たして訪れるのだろうか? 僕は考えた。そして僕は小学校の算数の授業で先生から教わったことを思い出した。ゼロと小数点、その右に無限個の「9」を並べる。するとそれはもう「1」と等しいのだ。そう先生は言っていた。そうだ、先生はそう言っていたのだ。ならば僕は「9」を並べ続ける。小数点の右に、賽の河原のように。待っててね、かおるくん。僕は君に洗礼を授けるよ。僕は君を大人にするよ。僕はそうかおるに向かって語りかけた。それから今まで、僕はずっと水面の手前でもがき続けている。

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週末は発売日 黒井瓶 @jaguchi975

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