独歩譚

ユキ丸

花梨乃譚


「ふふふふ、独歩さん、こちらよ」

「独歩さん、こちらよ」

 花梨は透き通る青い袖を振りながら、林の奥に駆けてゆきました。

 雨上がりの雑木林は、幹の皮や下草や下陰したかげの落ち葉が湿っていて、しっとりとして居りました。木立の上の方では今が限りとアブラゼミの蝉しぐれが降り注ぎ、百日紅の花が散って居りました。武蔵野の片隅、九十九塚つくもづか花梨かりんは、駆けてゆきました。ツタの伝うならの木でふと立ち止まると、花梨は空を見上げました。

「なんて勝手な青い空、わたくしは置いてけぼりなの」

と、云いました。そして花梨は木の陰に隠れて云うのでした。

「ああまだ、遊んでいたいわ」

 花梨は、もう振り向かないで、雑木林の奥へ駆け込みました。

 独歩さんにはすでに追いつけないところへ、花梨は行って仕舞いました。そして独歩さんは独り、武蔵野の雑木林に取り残されてしまいました。花梨を追いかけて、こんなところにまで来てしまった。ここは一体どの辺りだろうか? もう渋谷の苫屋からは遠く離れてしまったようだ。

「ここは一体、、、、?」

 独歩さんは我に返って、辺りを見回しました。何年も人が踏み入ってないような深い落ち葉が降り積もって居りました。周りの木々は、苔むして、ツタが覆って居りました。その先が少し小高くなっておりました。独歩さんは、耳を澄ましました。

「どうやら、誰もいないようだ」

 水を含んだ葉擦れの音、小鳥のさえずり、風の音。静かで、透き通って居りました。

「おーーい」

「おーーい、誰かいないか?」

 独歩さんは、声にしてみましたが、人のいる気配はなく、それならと口笛を吹きながら、雑木林の奥へと入ってゆきました。



 コツコツコツ。

 そのときどこかからか音がしました。どこだろう? 国木田独歩は『武蔵野』のなかで、音がして振り向いたら何もなく、おそらく栗が落ちた音だったろうと書きましたが、それにしても今の音はなんだろう? 独歩さんは辺りをきょろきょろと見回しましたが、『武蔵野』と同じくなにもありませんでした。鳥も動物もキツツキも居りませんでした。しかし、耳を澄ませていると、どうやらそれは、丘の上のあの木の中から聞こえて来るようなのでした。

 独歩さんは、そっと木の出節に耳を近づけました。

 コツコツコツ。

 確かに中から、小さな音が聞こえて参りました。もっと聞こうとして体を傾けえると、すううぅっと独歩さんは木の幹の中に吸い込まれてしまったのでした。



 コツコツコツ。

 音が大きくなりました。

 近づいてみると、そこでは小さなリスがなにか板をを彫っているのでした。

「こんにちは、なにをしているんですか?」

 独歩さんが尋ねると、小さなリスは云いました。

「版木を彫っているのさ」

 独歩さんは何の絵を彫っているのだろう? と近づきましたが、彫りクズの山で良く見えませんでした。

「なにを彫っているの?」

「なにをだって? そんなことはオイラは知らねえ」

 小さなリスは、手を休めないで応えました。

「オイラはただ、版木を彫っているだけよ」

「ふううん」

「実はボクは、花梨と云う女の子を探しているのですが、、、、」

「オイラは知らないな」小さなリスは云いました。

 独歩さんは頷きました。目を閉じると、

 コツコツコツ。コツコツコツ。

 と、小さなリスが版木を彫る音が脳裏に響いて参りました。



 コツコツコツ。

 ふたたび音がして目を開けると、もう小さなリスは居りませんでした。

 その代わりに、クツワムシがカスタネットを叩いて居りました。

「こんにちは、なにをしているんですか、クツワムシさん?」

 独歩さんはクツワムシに尋ねました。

「秋の演奏会の練習をしているのさ、このカスタネットがうまく鳴らないのだよ」

 クツワムシがカスタネットを叩きながら応えました。

「クツワムシさん、それではカスタネットが逆さまですよ」

 クツワムシのカスタネットはまあるい背中合わせになっていて、確かに音が鳴りづらそうでありました。

「そんなことは、どうでも良いのさ」

 クツワムシは構わずに、カスタネットを叩き続けました。

「あ、あの、花梨と云う女の子を知りませんか?」

「知らねえな」

クツワムシのカスタネットが耳の奥で反響して参りました。

 独歩さんはうとうととして参りまして、また、目を瞑ってしまいました。


 コツッ、コツッ、コツッ。

 再び音がして、独歩さんは目を開けました。

 するともう、そこにはクツワムシさんは居りませんでした。

そして代わりに、白いウサギの耳が見えました。

白いうさぎが空っぽの臼に杵をついているのでした。

「こんにちは、ウサギさん。なにをしているのですか?」

 独歩さんは白いウサギに尋ねました。

「ふふふ、餅をつくっているの」

「ウサギさん、臼にはなんにも入ってないけど?」

「キミには見えないのかい? こんなうまそうなお餅が」

 独歩さんは目を凝らして、臼を見つめましたが、でもそこには何も入って居りませんでした。

 ウサギさんは、時々、ペロリと舌を出しながら、餅をついて居りました。

「ねえウサギさん、花梨と云う女の子を知りませんか?」

「花梨だって? 知らないよ」

 ウサギさんは舌をペロリと出して云いました。

 独歩さんはまた、うとうとして参りまして、いつのまにやら眠ってしまいました。



 コツコツコツ。次に音がして目が覚めた時、独歩さんは丸太で出来た家の前に居りました。

(誰かいるかな?)

「もしもし、誰かいませんか?」

すると、

「はあいーー」

と家の奥から声がしました。

「ボクは花梨と云う女の子を探しているのですが、、、、」

 しばらく間があって、声がしました。

「はい、それはわたくしです」

 独歩さんは驚きました。こんな林の奥の丸太の家に探していた花梨さんがいるなんて。

「は、入ってもいいでしょうか?」

「それはなりませぬ。この家には、わたくし切りしか入れないのです」

「それはどうしてでしょうか?」

「長い間、この雑木林にはわたくし切りしか居りませんでした。それが、先日、侵入者があったのです」

 独歩さんは黙って聞いて居りました。

「わたくしはその者と駆けっこをして遊んでみました。わたくしは初めて駆けっこと云うものをやりました」

 しばらく沈黙があり、しくしくと泣き声が聞こえて参りました。

「どうかされたのですか?」

 独歩さんが尋ねると、丸太の家の中の声はさらに小さくなり、

「ですから、わたくしは駆けっこをするのも初めてだったのです」

 しくしくと泣き声が続いて居りました。

「長い間、とても長い間、独りぼっちでした」

「ウサギにリスにクツワムシ。そう云った者たちばかりが、わたくしの友人でした」

「ここは清らかで透き通って居りました。長い長い間、ずっとそうでした」

 ふと、泣き声が止みました。

「しかし、侵入してきた者がいるのです」

 独歩さんは云いました。

「ああ、それはきっとボクのことだ。でも、ボクは何もしやしない」

 すると丸太の家の中の声は、少し怒ったように、

「ああ、もう終わりだわ、終わりだわ」

と、繰り返しました。

「ちょっと入ってもいいかい?」

 独歩さんは丁寧に云いました。

「だめ。ここはひとり切りしか入れないの」

 丸太の家の中の声は、同じことを云いました。

「分かりました。ボクは中に入らない」



 独歩さんは、丸太の家の脇にあった切り株に腰かけました。

「ねえ、ここは一体どこだろう?」

「ここですか? さあ」

丸太の家の中の声は安心したように云いました。声は歌を歌うように云いました。


水の生まれるところ、せせらぎ、陽だまり、落ち葉の音

 小鳥の囀り、風吹けば、木の実が揺れて、小枝がざわめく

 わたくしだけの秘密の場所

 だれもしらない秘密の林


 声は、歌いながら笑っているようでした。繰り返し、繰り返し、歌って居りました。

 そして、歌声が止まりました。

「さあ、木と木のお祭りが始まるわ」

 声が云うと、辺りから、さっきの小さなリスやクツワムシ、ウサギさんが現れました。その後から、スズムシ、バッタにミソサザイ、フクロウにミノムシたちがやって参りました。


 クツワムシのカスタネットが鳴りました。

 コツコツコツ。

 コッコツコココツ、コッコツコココツ


 すると、みんなが踊り始めました。


水の生まれるところ、せせらぎ、陽だまり、落ち葉の音

 小鳥の囀り、風吹けば、木の実が揺れて、小枝がざわめく

 スズムシ、バッタにミソサザイ、フクロウにミノムシ、ウサギさん


 ぼくらだけの秘密の場所

 だれもしらない秘密の林


 みんなは歌って、踊って居りました。独歩さんは恐る恐るその輪に加わって、ステップを踏みました。やがて独歩さんは夢中になって、ミノムシとハイタッチしたり、バッタと手を繋いで踊ったりして居りました。


その時でした。独歩さんの被っていました帽子が輝きました。みんなは踊りを止めて振り向きました。


「おおう、令和のひかりがやって来たぞ」

 誰かが云いました。独歩さんは帽子を手に取りました。

 一陣の風が吹き抜けました。

 帽子は風に舞い、独歩さんの手から離れて、空へ舞い上がりました。

「ああ、令和のひかりよ」

 手を伸ばしましたが、帽子は高く舞い上がってゆきました。梢の向こうの夕焼け空までゆくと、そこにはお月さまが顔をのぞかせて、帽子はその向こうへ消えてゆきました。

「林をでなければ」

 独歩さんは呟きました。

 それを聞いた動物たちは、恐ろしい言葉を聞いたかのように、さあぁと林の中へ散々に逃げてゆきました。

 誰もいなくなった丸太の家の前で再び声がしました。

「行って仕舞うのですね。お別れなのですね」

「大丈夫さ、ボクはまた、帰って来るよ」

「そう、それならいいけれど」

 丸太の家の中の声は、やはりしくしくと泣いて居りました。


「さあ、ボクは行くよ」



 独歩さんは渋谷の苫屋に戻って参りました。苫屋とは言えここはタワーマンションの最上階。独歩さんは、暗くなった外を眺めようと、カーテンを開けました。

 すると、ビルの明かりやネオンが風に揺れてなびいて居りました。


 武蔵野の方角の空に、あああれは、業平も見た満月がのぼって居りました。


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独歩譚 ユキ丸 @minty_minty

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