冴えない休日

冴えない休日




「この子に釣り竿を買ってやりたいんだが」

それを聞いた瞬間、杉浦裕すぎうらゆたかはこう思った。

おいおいまじかよ、この親父。



土曜日の昼前、テレビに向かう背中に時折視線をやりながらキッチンに立つ。窓の外は抜けるような青、10月の秋晴れ。

千里は今朝から出かけていて、息子の紘貴ひろきと俺だけが家にいた。

開け放った窓から流れ込む涼しい風がキッチンまで少しだけ届く。カーテンが揺れる。外を走る小学生の歓声と、紘貴が見ているテレビの音。昼飯の準備も終盤にさしかかり、手元のフライパンからはじゅーっと勢いのある音がして、それから、ソースの少し焦げる匂い。

のどかな休日だった。少なくとも、表面上は。


キャベツがなくて、彩りなんてものはない茶色い一皿になってしまったのは仕方ない。最後に目玉焼きを添える。目玉焼きは、紘貴の好物だから。

「紘貴、やきそばできたぞ〜」

「……」

返事はなかったものの、紘貴は素直にテーブルについてくれた。目玉焼きの乗ったやきそばを一瞥し、そのまま食べ始める。どう接したらいいのか、何を話せばいいのかわからないのだろう。無理もない。もうずっと長いこと、紘貴とまともに話した記憶がなかった。

早く風呂入れよ。うん。制服脱ぎっぱなしだぞ。うん。

紘貴との会話はすべて無感動な一往復だ。ほぼ片道の、会話と呼べるのかも怪しいようなコミュニケーションだけをまばらに重ねた。希薄な時間はどんどん流れていって、気づけば紘貴は中学生になっている。


黙々と箸をすすめる。何を話せばいいのかわからないのはこちらも同じだった。茶色い焼きそばが口に運ばれていくのを眺めながら思う。こういう時、何を話すのが正解なのだろう?

うまいか? と聞こうか迷って開きかけた口を閉じる。まずいって言われたらどうするんだ。いや、もしまずいと思っていたとしても、気を遣ってうまいと言う可能性だってある。うまいと言われた方がいたたまれないかもしれない。ぐるりと思考を巡らせて、そして何も言えなくなった。


紘貴はこの状況をどう思っているのだろうか。

自分の息子が何を考えているのかわからなかった。


俺の父親は、俺にどう接していたっけ。

そう考えて不意に、去年死んだ親父のことを思い返す。



父親の裕一郎は、寡黙であまり笑わない男だった。会話は数えるほどしかしなかったし、仕事の話も聞いたことがなかった。信用金庫に勤めていたという事実は知っているが、それだけだ。幼い頃はシンヨーキンコがどういうものか全くわかっていなかったし、なんなら今でもよくわかっていない。そこでどんな仕事をしていたのか? なんてことは本当にわからない。

母親がいれば少しは喋るのに、2人になるとほとんど喋らなくなってしまう親父のことが、すこし苦手だった。親父と2人にされると、何を話したらいいのか、どう振る舞えばいいのか、いつもわからなくなった。


ちょうど自分がいまの紘貴の歳の頃だったか、母親が同窓会か何かで出かけていて、珍しく親父と2人で過ごす休日があった。ちょっと気詰まりに感じて、俺は朝からずっとテレビを見ていた。そうして昼も過ぎた頃、背中から声がかかったのだ。

「裕、釣りにでも行かないか」

振り返ってみた父親の顔が、いつもの表情から笑顔になったのを覚えている。そう、笑顔だったのだ。滅多にみたことのない親父の笑顔に驚いて、なんで釣り? という疑問が湧いてきたのは車に乗り込む頃だった。釣りが趣味なんてことは聞いたことがない。俺も釣りが特別好きなわけではない。というかやったことがない。本当に突拍子もない提案だった。

2人だけを乗せた車が、ひたすら国道を北上していく。景色はどんどん流れて、少し開けた窓から入る風が気持ちよかった。

疑問だらけだったが、なにかが始まるような非日常感に俺はワクワクしていた。どこにいくんだろう。どんな魚が釣れるのかな。すごいのが釣れたら、学校の友達に自慢できるかも。海だろうか、川だろうか。どちらに行くのも久しぶりで、楽しみだった。

だから車がリサイクルショップについた時は、ん? と思った。そうして入った店で釣り竿を探しはじめた親父を見て、まじかよと思ったのだ。そこからなのか、と思ったが黙っていた。店には釣り竿はなくて、手ぶらのまま店をでた。

それからもう一軒リサイクルショップへ行った。一軒目同様、収穫はなかった。三軒目に着く頃には、少なくとも俺は諦めモードになっていた。

三件目の店員は釣りに少し詳しかったようで、ただ釣竿を探す親父にアドバイスをしてくれた。海ですか川ですか。どっちにしても釣りをするならそれなりの装備が必要です。その日に買ってその日に釣れるという認識ではとてもお勧めできませんね。まずは釣り堀から初めてはどうですか。ここから車で十分くらいのところに立松園たてまつえんという釣り堀があって……とかなんとか。

なんだ、じゃあその釣り堀行けばいいじゃん。俺は思ったが、その店員は最後に一言付け加えた。

あっ、でもすいません。もう営業時間終わってますね。


その日。釣りに行こうという当初の目的はついぞ達成されず、ただ車を走らせ、リサイクルショップを梯子して、そして終わった。どこからどう見ても冴えない休日だった。


親父は「ごめんな」と言って静かに車を走らせた。仕方がないから帰りにファミレスに行って、ハンバーグライスを頼んだ。鉄板の上でじゅうじゅう音を立てるハンバーグの湯気越しに見た親父は、いつも通りの仏頂面だった。だけど、親父には申し訳なかったが、そのファミレスがその日で一番楽しかったし嬉しかった。

俺と親父が2人で出かけたのは、それが最後だった。



「寒くなってきたから窓閉めようか」

「うん」

また一往復。窓を閉めるとテレビの音だけが残って、部屋の空気がまた詰まる。紘貴はまたテレビを見ている。何を考えているのか、わからない。

どっちが、冴えない休日だろう。

親父、と思う。あの日、俺は確かに楽しかった。あの後は一度も2人で出かけようと誘われることはなくて、出かけることもなかった。あの日のことは親父の中で、あまり思い返したくない類の記憶になってしまっていたのだと思う。ああ本当に、一度くらい伝えておけばよかった。俺はちゃんと、楽しかったのだと。

紘貴の考えていることがわからない。それは紘貴が、親父に似て寡黙な性格だからだと思っていた。だけど、本当に?

俺は紘貴のことを知ろうとしたことがあっただろうか。

分かろうとしたことがあっただろうか。

紘貴の好きな食べ物は、本当に目玉焼きだっただろうか。

「紘貴、」

分かりたくて、声をかけた。

「今日、釣りでも行ってみようか」

その瞬間、紘貴の表情が変わった。なんだ、と思った。

「……うん」

そうだったのかと思った。あの時の俺は、こんなに嬉しそうな顔をしていたのか。期待をつめこんできらきらと明るいその顔。親父の心の中に、この顔をした俺がいるのだろうか。いてくれたらいいな、と思った。

釣りに行こう、紘貴。父さんはお前に聞きたいことがたくさんある。

出かける準備をしようと立ち上がる。

大丈夫、俺は知っている。まずは、釣り堀から始めればいいんだろ?

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冴えない休日 @wreck1214

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