令和

「えぇ? 楽しくなくないですか、その誕生祝い」


 三鷹駅を出て玉川上水の木立を見た時だった。車椅子に添うヘルパーさんの素直な口調に思わず私は笑った。今日、初めて顔を合わせた彼女は打ち解けて話すのが上手い。ついついしゃべり過ぎてしまう。


「でしょう? 昭和は雑よね。だからなのか、私、太宰が苦手で」

「トラウマですねぇ」

「そうねぇ、トラウマなのかしらね」


 かすれのある記憶を瞼裏まぶたうらに浮き立たせる為、私は目を閉じた。断片として楽しくない過去はまだ概ね見ることが出来る。改めて見たところで、そこにいる故人達への情も深まらないが、これがトラウマかと言うと、正直そこまで印象深くもなかった。

 故郷との地縁の結び目がなくなる。それを思った時、数十年ぶりにスポットライトを浴びた記憶は、入り組んだ現実のふちだけを描き出す影絵だ。

 あの頃、枯れていた堀を水は潺々せんせんと行き、古木こぼくの桜は青葉を茂らせ、時の流れに遅れるかにゆっさりと揺るぐ。私の覚えている桜はもう少しほっそりしていて、逢わない内に歳を取った互いを懐かしむ思いが湧き出た。


「今は『風の散歩道』なんて呼ばれてるみたい」

「最近の名前なんですか?」

「住んでた時は言わなかったわね。まぁ、私の両親は桃源郷の人だから当時あっても知らなかったと思うわ」


 擬宝珠ぎぼしが連なる欄干らんかんのようなフェンスは上水と人生が交錯しないよう遊歩道を区切る。お陰で車椅子はブロックタイルの上を穏やかに進み、私はぼんやり緑と水の気配を眺めた。そのに野趣なかつての映像が差し入る。

 私は頭を振るった。


「あ! さくらんぼ、ついてますよ」


 ヘルパーさんの語り掛けに見上げると、小さく赤い実が幾つも葉の影に潜んでいる。


「上水には山桜があったわね」

「これ、山桜ですか?」

「どうかしら。北口方向の小金井は山桜の名勝復活を目指してる筈だけど。染井吉野も別の桜となら実るから。葉緑素でお化粧してる時の見分け方、忘れてしまったわ」


 ふと出た言葉が初老の女性の面影を私に見せた。手拭いをかぶる彼女は夏に蔓延はびこる草を抜きながら、そこここに残すべき植物を見出してはしるしを付ける。手前にほんの少し見える帽子のつばは私が八歳頃まで使っていたもので、間もなく幼い自分の声がはしゃぎ出した。


『じゃあ、植物って緑にお化粧するの?』

『月ちゃんらしいこと。確かにこの桜もお年寄りだけど青々して見違えるわね。流石、姥桜うばざくら

『これの名前?』

『花が咲く時、葉がない桜を姥桜と言うの』


 視界の端に入ったベビーカーが私を今に連れ戻す。遠く先方から来る乗物からは時折、小さな足が柵を蹴りそうに飛び出した。


「ねぇ、あちらの歩道に渡れないかしら? 首が疲れて」

「大丈夫ですよ」


 車道分、離れて私達はまた葉桜を見上げた。沢山ある筈の小さな実はどこにあるのか私にはもう見えない。


「染井吉野に実が出来ても、そのたねから育つのは染井吉野じゃないらしいわ」

「何になるんですか?」

「桜」

「そりゃ、そうですけどぉ」


 あれは花の季節だったか、実の季節だったか。

 ヘルパーさんの笑い声の向こうに私は姥桜の彼女を探したが、思い出の特別な場所にいる、その人の映像でも私の中からは失われたらしい。


『染井吉野に実ってしまった実と、実ってしまった樹、どちらが可哀想?』


 六年生だった。私は現実に耐えかねる人の姿を手のかかる染井吉野に重ねていた。その桜は自分である分には実を必要としないと言う。孤介でこその染井吉野と、構わず結実する雑種。当時の私にとって前者は『桜桃』の中に見た太宰であり、親であり、後者は自分だった。

 それを打ち明けるでもなく、影絵のような問いを発した私に応える彼女の明るい口調を覚えている。


『桜は自分より素敵な桜を夢見て実を結ぶの。実ったのは染井吉野の夢。生物いきものは夢を真剣に追って生きてるのよ。そこには可哀想はありません』


 この言葉はその後、長く私の中で蘇り、そして、いつの間にか思い出されることがなくなっていた。

 実桜みざくらの下をベビーカーが過ぎ、途絶えない赤子の蹴りにケットが乱れる。そこに描かれているトトロを見て、私は決めた。


「ねえ、折角だから『ジブリ美術館』にでも行きましょうか?」

「え? ご実家のあった辺りまで行く時間、なくなっちゃいますよ」

「それはもういいの」


 言葉はさらりと零れ出て、私はある筈の赤い実に目をらすのをやめる。

 繋ぐものが残らずとも私はここに実った。それだけで良い。私は根付いた土地の古木の儘、ここに根を下ろす人達が追う故郷の夢を見よう。人も街も理想を探して更新した先の夢を。


「それとも評判の地元カフェでも探す? ここに来ないと出来ないこと、しましょ」


 亡失が今、私を解き放ち始める。太宰を読める日も拍子抜けする程、呆気なく来る気がした。

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実桜 小余綾香 @koyurugi

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