実桜

小余綾香

昭和

「出張だからって桜桃忌おうとうきに誕生祝いを前倒すなよ」


 舌打ちと使い捨てライターのヤスリを回す音が共鳴ともなった。黄ばんだ指先がショートケーキへ近付き、一際、目立つ青の蝋燭ろうそくに炎は分身する。


「太宰治と山崎富栄の引き上げを従兄いとこと土手へのぞきに行ったんだ。陽一よういちぐらいの歳で、雨もこんなだったな。摘まみ出されて怒られたけど、土座衛門どざえもんの方が怖くて後悔した。今でも覚えてるよ。土座衛門ってのは酷いもんだ。男か女か判らないんだぞ」


 父はピンク、黄色、赤と蝋燭に火を巡らせた。

 幼児用ハイチェアの隣りで虚ろな目をした兄は白い顔から血の気が引いている。その前で父は珍しく饒舌じょうぜつに、土座衛門が水死体を指すことや、遺体の様子を語り続けた。『つきねちゃん おたんじょうび おめでとう』と書かれたチョコレート・プレートが熱で汗をかき、わずかに文字が溶け始める。


「いいか? 土座衛門は見るのも、なるのもやめておけ」


 そう言うと、父は椅子に埋もれて背を丸めた。はすな視線が私を向く。いつも通り不機嫌に鋭い目つきの中、彼なりの愉悦があるのが見て取れた。


「生まれたのが一日ずれて良かったけどな。こんな日じゃなくて、祝うのなんか後でいいだろ」


 母が電気を消し、テーブル脇に立つ。火明かりに彼女の顔を照らす力はなく、首から上のかすれ行く人影から、


「ハッピーバースデー・トゥ・ユー」


 歌声が降り始めた。私は調子外れな声をそこに重ねる。ボーイソプラノが最初の一音目だけ発声するのが聞こえた。

 最後のフレーズを終え、一人分の拍手の鳴る中、私は炎に息を吹く。揺れただけで一つも消えない蝋燭の為、もう一度、空気を吸い込んだ時、兄がその火を吹き飛ばした。目を見開き、唇を歪める私に気付かず、母は電灯を点け、しを除く。


「俺はこれだ」


 チョコレート・プレートを父は摘まみ上げると二口でくだいて飲んだ。再びライターの燧石すいせきが音を立て、ニコチンとタールの臭気が立つ。父がつけたテレビが大音量でわめき始めた。


「おい、明日の荷物は?」

「三畳に。この後、確認致します」


 ケーキを頬張ほおばる私の脇で兄はいちごを皿のふちけ、土台のクリームを丹念に削り落とす。そして、綺麗にむき出しになった黄色いカステラを口にし終えてから苺を大事そうに食べた。その時、


「おい! 何、残してるんだ!」


 テレビから気移りした父が目を吊り上げ、テーブルを叩く。兄も私もびくりと震えた。反射的にガラスの灰皿をつかみかけた父が我に返ってその手を下ろす。


「お前が甘やかすからだぞ」


 代わりに父は腹立ちを母にぶつけた。母の謝る声はどこから来ているのだろう。やがてテレビに父の意識が移り、低い笑い声が零れ始めると兄は私の皿へ生クリームを落とした。私はそれを口に運ぶ。


「貴女が生まれた、と聞かれたお父様は雨なのにあつらえたばかりの背広をお召しになって台無しになさったのよ? 佐藤錦をお土産に持っていらしてね。お父様に喜んで頂いて貴女は幸せね。召し上がれ」


 この時、母は桜桃を運んで来た筈だ。私が生まれた日の父の話と共に佐藤錦が出されるのは誕生日の恒例だった。しかし、私の映像記憶には何故か昔から、この時の桜桃の姿が残っていない。

 只、ケーキの後のそれは酸っぱかった。



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