第9話 魅かれゆく心
*本エピソードで登場するショパンのバラード第四番のイメージがつかない方はこちらで紹介しています。
https://kakuyomu.jp/users/hirotakesan/news/16816700427715541954
どれくらい語り合ったのだろう。僕たちはふと、随分前に
「
奏佑が紅茶を一口飲んでから顔をしかめた。
「僕は冷めてる方がいいな。猫舌だから」
僕はそう言うと、ぬるくなった紅茶を流し込み、ケーキを一口放り込んだ。甘さが身体全体に染み渡っていく。実はこの僕、根っからのスイーツ好きなんだ。ピアノがなかったらスイーツにハマりすぎて、今頃すっかり太っていたことだろう。
「甘くてめっちゃおいしい。これ、どこのケーキ? 今度買いに行くよ」
僕は思わず子どものようにはしゃいだ。そんな僕を奏佑は面白そうに眺めながら、ポツリと一言、
「
とつぶやいた。その瞬間、僕は心臓の鼓動がいきなり早くなった。顔が
「か、可愛いって何だよ。あまり、そんなこと言って
恥ずかしさでいっぱいになった僕がそう抗議すると、奏佑はいきなり僕の頭を優しく撫でた。
「揶揄ってないよ。本当に可愛いって思ったんだ。熱い紅茶も飲めないし、ただのケーキなのにこんなに喜ぶし、律って本当に可愛いよな。普段、あんなにつんけんしているのに、本当はこんな可愛い所あるんだもんな。それに、俺と友達になれないなんて思ってもないこと言った後、ずっとうじうじ悩んでる姿も何だか愛おしくてさ。律って、どうしてこんなに可愛いんだ?」
僕はもうオーバーヒートしそうな勢いで身体中が熱くなった。
「し、知らないよ。もう、そういうのはやめて。僕、今日はもう帰る」
僕は自分の通学カバンを乱暴にひったくると、慌てて奏佑の家を飛び出した。
その日の夜、僕はずっと奏佑のことが頭から離れなくなっていた。奏佑に言われた言葉が何度も頭の中をグルグルと駆け巡る。そして、奏佑に撫でられたあの感触。温かくて、僕の全てが包まれるような優しい手。なぜ、こんなにも奏佑は僕の心を乱すのだろう。一体、あいつは何者なんだ。そして、この僕の乱れた感情は何なのだ。
僕はピアノの練習もできず、ただ布団にくるまって奏佑のことを考え続けていた。
翌朝、僕は何かに当てられたような感覚のまま、学校へ向かった。奏佑の席を見ると、昨日と同じように、女子生徒たちが奏佑を取り囲んでいる。その光景に、僕は昨日と同様の言い様のない不快感を覚えた。だが、次の瞬間、奏佑が僕に大きく手を振った。
「律、おはよう」
女子生徒たちは
「おはよう」
僕は頬を赤らめてそう返事した。
「昨日貸した本、読んだ? CDも聴いてくれた?」
奏佑が
「ごめん。まだ」
「何だ。早くしろよ。律に見せたいもの、まだまだあるんだから」
奏佑はそう言って笑った。その屈託のない笑顔に、僕の心まで温かくなって来る。
「うん。今日帰ったら早速本も読むね。CDも聴いておく」
「そうしろよ。明日、感想聞くから」
僕は頷いた。
僕は、奏佑と話ができることが嬉しくて、その日のうちに、リパッティの本を全部読破してしまった。そして、何より借りたCDに僕は夢中になってしまった。スヴャトスラフ・リヒテル。今まできちんとその演奏を聴いたことがなかったのだが、その力強くダイナミックな響きはまさに僕好みだったのだ。何より、ショパンのバラード第四番の演奏に僕はすっかり心を奪われた。こんな美しかったっけ、この曲。こんなに美しくて
よし。ショパンのバラ四を練習してみよう。そんなことを考える単純な僕であった。
だが、奏佑が僕に見せてくれた新しい世界はこれだけではなかった。ピアノだけではない、もっともっと広くて壮大なクラシック音楽の世界だった。奏佑はどんどん僕にいろんな曲を聴かせた。オーケストラによる交響曲、ピアノ以外のヴァイオリンやチェロなどの協奏曲、室内楽からオラトリオ。僕がピアノばかり見ている間に、奏佑はどれだけ広い世界を見て来たのだろうか。そして、僕はどれだけ狭い世界に閉じこもっていたのだろうか。
もっと広い世界を知りたい。僕の欲求はどんどん高まっていった。それと共に、あんなにつまらなかった学校が、奏佑の存在によって
奏佑は、学校の勉強もスポーツも何でもよく出来た。授業中に当てられても、全ての教師の質問をよどみなく答えてみせたし、体育のバスケの授業では、華麗なドリブル裁きを見せつけた。僕にとって、奏佑は憧れの存在になっていた。こんなカッコいいやつがいるんだな。僕は奏佑を見ると、夢見心地になるのだった。
だが、こんなに魅力的なやつだとわかると、他の生徒たちも奏佑に群がって来る。女子生徒だけでなく、男子生徒までもが。奏佑の周囲に大勢の生徒が集まるようになった。彼らによって、必然的に僕は外に押し出されるのだった。僕は面白くなかった。奏佑は僕の友達なのに、何でこいつらに奏佑を奪われなきゃいけないんだ。奏佑を僕だけのものにしてしまいたいのに。
僕はむしゃくしゃする気持ちを抱えながら、苦々しい気持ちで、大勢の生徒と談笑する奏佑を見つめるのだった。
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