第10話 かき乱された心

 一躍いちやくクラスの人気者となった奏佑そうすけだったが、昼休みになれば、僕と仲良く音楽室に行き、二人でピアノを弾いて過ごしてくれていた。こうやって一緒にいる時が一番楽しかった。音楽室ならば、誰も来ない。誰にも邪魔されない。奏佑を僕が特別に一人占めできるのがこの時間なのだ。僕の心に平安の訪れるひと時であった。


 そんな僕らのつかず離れずの関係はしばらく続いていった。僕は音楽室で奏佑を独り占めすることで、クラスの誰よりも優位に立ったつもりでいた。誰も、奏佑のことをここまで独占できている生徒はいなかったから。だが、そんなある日、僕の心を揺るがすある大事件が起こったのだ。




 どんどん気温が上がり、夏の足音が近付いて来ていたある日、体育の水泳の授業が始まった。僕はこれからどんなことが起こるのかも知らず、気楽な気持ちで更衣室に奏佑と向かった。制服を脱ぎ、パンツも脱ぐ。僕は裸になると、水着に手を伸ばした。その時、ふと奏佑の方を向いた。すると奏佑も、服を全て脱いだその身体のすべてを僕の目に晒していた。


 心臓が飛び出すのではないかと思うほど、僕の心臓が激しく波打った。不意に僕は下半身がむずがゆくなるのを感じた。僕は慌てて水着を着ると、股間を隠すようにタオルをお腹の下に当てた。


 だが、これはまだじょくちにすぎなかった。準備体操で二人一組になり、ストレッチをするのだが、そのペアの相手が奏佑だったのだ。僕と奏佑の素肌が何度も触れ合う。奏佑の体温の温もりが直に僕の肌を刺激する。顔が赤くなり、息も荒くなる。全身が燃えるように熱い。奏佑のその身体に僕の全てを預けたいという衝動に襲われた。だが、その感覚をぐっとこらえ、僕は冷たいシャワーでその火照ほてった身体と頭を必死で冷やすのだった。


 だが、この日の水泳の授業は泳ぐどころではなかった。奏佑ばかりが気になって仕方がない。冷たいプールの水で何度も頭を冷やそうとしたが、プールサイドに上がれば奏佑が見える。一切無駄な脂肪のない、綺麗な奏佑の身体が見える。その姿から目が離せない。奏佑に触れたい。でも、できない。その苦しさに僕はもう逃げ出したかった。だが、授業を放り出して逃げることもできない。一時間、僕はその苦しい感覚にずっと耐え続けた。


 水泳の授業が終われば、再び更衣室だ。更衣室で水着を脱ぐ奏佑からこれもまた目が離せない。彼の全てが僕の前にもう一度さらけ出された。制服に着替え終わったころには、僕はもうへとへとになる程疲れ切っていた。


 僕は混乱していた。こんな感覚を覚えたのは初めてだ。ずっとずっと、ピアノばかり見て来た僕が覚えた初めての感覚。奏佑が欲しい。僕だけのものにしたい。そんな欲求が猛烈に高まる。


 僕はその高まる欲求を我慢が出来なくなり、誰も来ないであろう空き教室の隣のトイレの個室にこもり、奏佑を思い出しながら初めて自慰的行為をした。だが、一瞬の快感を得た僕に訪れたのは、圧倒的なきょかんだった。僕は一体、何をしているのだろう。奏佑と何をしたいというのだ。どうなりたいというのだ。


 奏佑は僕だけのものではない。それなのに、奏佑を僕だけのものにした妄想をし、一瞬の快楽を得て戻った現実はどうだ。何も変わっていないじゃないか。なぜ、僕は今こんなにみじめな気持ちになっているのだろう。惨めで切なくて仕方がない。僕は声を押し殺して泣いた。


 僕が教室に戻ると、奏佑はいつものように他の生徒たちと談笑していた。なんだか、僕は奏佑の顔を見るのが気まずくなり、奏佑を取り囲む集団を避けるように自分の席についた。


 その日の授業は何も頭に入って来なかった。ずっとぼんやりと窓の外を眺め、物思いに沈んでいた。放課後、そんな僕に奏佑が声をかけて来た。


りつ、何かあったのか?」


 僕はビクッとしたが、飽くまで平静を装っていつものように返事をした。


「ううん。何もないよ。奏佑こそ、どうしたの?」


「律にちょっと紹介したいものがあって」


「なに?」


「オペラに興味ない?」


「お、オペラ?」


「そう。オラトリオやミサ曲には声楽が使われているだろ?律、最近、声楽付きの交響曲にハマってるみたいだし、きっとオペラの世界にも興味が持てるはずだよ」


 確かに、最近、僕はマーラーの交響曲にドハマりしていた。彼のシンフォニーには何曲か声楽が用いられているのだ。だけど、シンフォニーの声楽とオペラの声楽は性格がまったく異なるように思えた。オペラといえば歌劇、つまり「歌う劇」だが、その内容はほとんど、男と女が愛し合う話ばかりだ。そんなものを観て、何が面白いのかがわからなかった。


「最近はピアノなんかよりオペラを聴いている時の方が楽しいよ。将来、ピアニストじゃなくてオペラ歌手になりたいと思うくらいには好きだね」


「そんなの勿体もったいないよ。奏佑、あんなにピアノ凄いのに。歌なんかより、ピアノやった方がずっといいって」


 そんな僕の主張を訊いて、奏佑は「あはは」と声を上げて笑った。


「それは、律がオペラの魅力をまだ知らないからだよ。そうだ。コンクールでリスト弾いただろ? フランツ・リストって人は、リヒャルト・ワーグナーと仲が良かったんだぜ。これ、結構有名な話だけど知ってたか?」


「いや、知らなかった」


「本当に律はピアノ以外には興味ないんだな。ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』って作品知ってるか? このオペラの最後に『イゾルデの愛の死』という一番有名な部分がある。恋人のトリスタンを殺されたイゾルデがトリスタンの後を追って死ぬときの歌な」


「なんか暗そうな話だね。あまり面白くなさそう」


 つれない返事をする僕だったが、奏佑はなおも『トリスタンとイゾルデ』とやらを僕に勧め続けた。


「まあまあ、そんなに食わず嫌いするなって。それでさ、この『愛の死』をリストがピアノ版に編曲したんだ。それくらいは知ってるだろ?」


「うん。その曲なら存在は知ってる。ちゃんと聴いたことも弾いたこともないけど」


「トリスタンいいよ。俺、リスト版の『愛の死』を弾きながら歌うのが最近の趣味。でも俺、男だからイゾルデにはなれないんだよな。生まれ変わることができたら女に生まれてソプラノ歌手を目指すよ」


 熱っぽく語る奏佑に僕は苦笑した。


「僕、歌手はちょっとな。ソルフェージュも苦手だし」


「だったら、余計にオペラを観た方がいい。ソルフェージュもオペラ歌手になった気分で歌い上げてやればいいんだよ。朗々とね!」


「いや、それはちょっと恥ずかしいって」


「律くん、その恥ずかしさを乗り越えた先にもっと素晴らしい世界が広がっているのだよ」


 いつになく奏佑は得意気だ。そんな奏佑についていけなかった僕は、わかったようなわからないような曖昧あいまいな返事しか出来なかった。


「はぁ……」


「とりあえず、『トリスタン』のDVD貸すよ。バイロイト音楽祭の新演出の映像がやっと発売されたんだ。それとも、律は初心者だからメトロポリタンの伝統的な演出にする? 伝統的な演出だとト書きに忠実に舞台化されているから、律にはわかりやすいかもね」


 奏佑がいくつものDVDをカバンから取り出した。随分と用意周到だ。


「もし選べなかったら、全部貸そうか?」


「全部はちょっと……。ピアノの練習だってあるし」


「ピアノの練習なんか、オペラ観た後ですればいいだろ?」


「いや、そういう訳には……」


「ごちゃごちゃ言ってないで、全部観ろよ。明日は土曜日だし、どうせ暇だろ?」


 いきなり、暇人認定をいただいたよ。まあ、明日は暇だけどさ……。とりあえず、そんなに興味もないけど、オペラでも見ておけば、下らない男女の恋物語にこの悶々もんもんとした気も紛れるだろう。そう思った僕は奏佑からDVDを受け取った。

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