第11話 気付いてしまった恋心
*『トリスタンとイゾルデ』のイメージが沸かない方はこちらで『イゾルデの愛の死』について簡単に紹介しています。
https://kakuyomu.jp/users/hirotakesan/news/16816700427715541954
翌日の土曜日を利用して、僕は奏佑にもらったワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を観ることにした。どうせ、こんなもの、ただの暇つぶしだ。どうも、奏佑に出会ってからピアノの練習にも身が入らないし、せっかく貸してもらったオペラでも観て、気分転換でもしよう。そう思って、DVDデッキに奏佑から借りたディスクを差し込んだ。
『トリスタンとイゾルデ』のあらすじはこんな感じだ。コーンウォールのマルケ王の妻であるアイルランドの王女イゾルデ。だが、イゾルデはマルケ王の甥トリスタンと秘かに愛し合う仲だった。その愛に苦しんだイゾルデはトリスタンと共に毒薬を飲み、死のうとする。しかし、それは毒薬ではなく「愛の妙薬」だった。二人の愛は燃え上がる。甥と妻の不義理に気が付き、苦悩するマルケ王。そのマルケ王に取り入ったマルケ王の部下メロートの策略でトリスタンは殺されてしまう。愛するトリスタンを追って死んでいくイゾルデが歌うのが『愛の死』だ。
僕はこのオペラを観ながら、気が付くと涙を流していることに気が付いた。恋なんてバカバカしいものだと思っていたのに。愛など下らないと思っていたのに。なぜ、これほどまでにこの物語に引き込まれ、感情移入してしまうのか。なぜ、ここまで僕の今の心情と重なり合うのか。
僕は気付いてしまった。僕が奏佑に恋心を抱いていたことに。奏佑を初めて見たコンクールの会場で聴いたリストの『愛の夢』。あれこそが、僕にとっての「愛の妙薬」だったことに。
愛し合いながらも結ばれることなく死んでしまうトリスタンとイゾルデ。この悲恋に僕の涙は止まらなかった。僕の恋も実ることなどないだろう。だって、奏佑は男だもの。男の僕が男の奏佑と結ばれる訳がない。
「奏佑・・・奏佑・・・」
僕は何度も奏佑の名前を呼びながら、ワーグナーの果てしない旋律に心を揺さぶられ、ひたすらハラハラと涙をこぼし続けた。僕は無性に今の気持ちをピアノにぶつけたくなった。
僕は、『愛の夢』を弾き始めた。僕は泣きながらピアノを弾き続けた。涙で鍵盤が霞み、気持ちが高ぶって何度もミスタッチを繰り返した。だが、そんなことはもうどうでもよかった。弾き終わった僕はその場に崩れるようにして倒れ込んだ。
「奏佑・・・」
僕はうわ言のように奏佑の名前を呼びながら目を閉じた。
__________
その日から、僕の世界はすっかり変わってしまった。誰にも打ち明けられないこの胸の内に、僕はひどく苦しんだ。相談できる友達が一人もいないことがこんなに苦しいことだとは思わなかった。心が乱れることで、ピアノの演奏も乱れる。今まであれだけ集中して反復練習を繰り返していた僕が、すぐに集中力が途切れてしまう。新しい曲に取り組むことができなくなっていた。
そんな僕が唯一弾くことができた曲がリストの『愛の夢』だった。この曲を弾くことで、僕は辛うじて奏佑への想いを消化していた。
ピアノのレッスンでも、どんどん弾けなくなっていく僕を福崎先生は心配した。
「霧島くん、コンクールは毎年あるんだから、そんなに落ち込まなくていいのよ。他のコンクールに応募でもしてみようか。コンクールによって評価基準も異なるし、試してみたら?」
福崎先生はそんなことを僕に言った。だが、今の僕にとってコンクールなどどうでもいいものになっていた。奏佑のことしか頭にはなかったからだ。
「いえ、いいです。ちょっと考えたいことがあって」
「考えたいこと?」
「はい。だから、今はコンクールのことは考えられません。すみません」
僕はそう言って福崎先生に一礼すると、レッスンを終えた。
僕が帰途につくと、後の時間にレッスンを受けることになっていた彩佳が歩いて来るのが見えた。僕はコンクールの日に受けた彩佳の告白を思い出した。あの時は、彩佳を傷つけるようなことを言ったな。僕はふとそう思った。彩佳は僕の姿を認めると、伏し目がちに僕の横を足早に通り過ぎようとした。
「彩佳、ごめん」
僕はそんな彩佳に向かって謝った。彩佳は立ち止まった。
「この前は僕、彩佳の気持ちも考えないでひどいこと言った。本当にごめんなさい」
彩佳が僕の方を振り返った。
「律くん・・・?」
こんなことを僕が言い出すなんて、実に奇妙な光景だっただろう。今まで、彩佳など見下し、ほとんどまともに取り合ってきたこともなかったのだから。
「全国大会出場おめでとう。よかったね。応援してるよ」
僕はそう続けた。僕は自分がこんなにも素直になれるものかと自分でも驚いていた。以前の僕なら、僕を上回って全国大会に進出した彩佳を称えるどころか口さえききたいと思わなかっただろう。彩佳の顔がポッと赤く染まった。
「・・・ありがとう、律くん。でも、どうしちゃったの? いつもの律くんじゃないみたい」
「・・・うん。僕にもいろいろあってね」
「いろいろって?」
「・・・うん。いろいろ。僕、もう帰るね。じゃあ、また」
僕は彩佳に小さく手を振ると、歩き出した。すると、彩佳が帰ろうとする僕の腕を引っ張って引き止めた。
「待って! まだ、律くんからわたしの告白の返事を聞いてない。わたし、律くんのことが本当に好きなの。だから、わたしと・・・わたしと付き合って欲しいの」
彩佳が潤んだ目で僕を見つめていた。彩佳は本当に僕のことが好きなのだろう。こんなに彩佳を見下して来たクズのような僕に。しかも、そんな彩佳の気持ちに僕は応えてあげることはできないのだ。僕は申し訳ない気持ちになった。
「ありがとう。でも、ごめん。彩佳の気持ちには応えられない。僕には好きな人がいるんだ。だから、もう僕のことは忘れて。彩佳には僕よりもずっといい人がいるよ」
すると、彩佳は涙をポロポロこぼし始めた。
「やだよ。わたしは律くんを忘れることなんてできない。好きな人って誰? 律くんは恋愛なんて興味なかったんじゃないの? なんで急に好きな人ができたなんて言い出すの?」
「ごめんね、彩佳。僕は何もわかってなかったんだ。僕は、ずっと今までピアノしか見てなかった。ピアノが好きなんだとずっと思ってた。でも、違った。僕なんかよりずっとずっと音楽を愛していて、素晴らしい演奏をする人がいる。僕にとって、その人は憧れなんだ。その人は、僕に友達になろうって言ってくれた。正直、嬉しかった。ずっと僕は、ピアノしか自分にはないんだと思って生きて来たから。友達も恋愛も何もかも下らないものだと思って見下してた。でも、違った。本当は淋しかったんだ。ずっと独りぼっちで、誰とも話さないで、ピアノで誰かに勝つことばかり考えて・・・。でも、その人が僕に教えてくれた。もっと素晴らしい世界があるんだよって」
すると、彩佳は泣きながら首を横に振った。
「なんで・・・? なんでそんなことを言うの? 律くんは・・・わたしの知ってる律くんは全然違うよ。ずっとピアノに全てを捧げて、誰も近寄れないオーラを放っていたじゃない。そんな律くんがカッコよかったんだよ。そんな優しい言葉なんかかけないで。淋しかったなんて言わないで」
そう叫ぶと、彩佳は僕に抱き着いた。僕は生まれて初めて誰かに抱き着かれた。それも女の子に。だが、彩佳には奏佑に感じた胸のトキメキを何も感じなかった。それどころか、これが奏佑だったらどんなに良かっただろうとさえ考えた。
「僕は変わったんだ。その人のおかげで。その人とはきっと僕は結ばれない。でも、それでもその人のことが好きだ。だから、ごめん。彩佳。彩佳の気持ちには応えられない」
僕はそう言い残すと、彩佳を置いてその場を立ち去った。
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