第8話 音を楽しむ
「せっかくだから、ケーキでも召し上がっていって」
そう奏佑のお母さんが僕に勧めてくれたが、奏佑はケーキなど待っていられないといった様子で、
「俺、律を部屋に連れていくから、俺の部屋まで持ってきてよ」
とお母さんに頼むと、僕を奏佑の自室へ案内した。
奏佑が自分の部屋の扉を開けるや否や、見たことのない景色が広がっていた。部屋の壁のある一面に天井まで続く本棚にありとあらゆる本が大量に並べられ、その反対側の一面には、これもまた天井までぎっしりとCDが並べられている。
僕の好きなディヌ・リパッティのCDもいくつも並んでいる。リパッティの代表的な音源である、二十世紀にベルリン・フィルハーモニーのシェフとして長年クラシック音楽界のトップを走り抜けたあのヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮で録音されたグリーグのピアノ協奏曲まできちんと揃っていた。
僕がリパッティのCDのラインナップを熱心に見ているのを、見た奏佑は、
「リパッティ好きなの?」
と僕に尋ねた。僕は頷いた。
「結構マニアックな所いくね」
奏佑はそう言ってニヤッと笑った。
「リパッティって生真面目な性格の人だったらしいね。五年先に演奏するレパートリーに向けて丁寧に練習を重ねていったんだってさ。そんなにたっぷり時間をかけて準備できたら最高だよな。俺もプロになれたら、自分のペースで演奏したい。過密なスケジュールに追われるのは嫌だね」
音楽のことだったら何でも知っているのか。やたらとリパッティについても詳しいな。奏佑は、本棚から一冊の本を取り出した。
「リパッティの伝記。読んでみる?」
僕はその本を手に取った。読みたいと思いつつ、ピアノの練習に忙しく、今まで読めていなかった本だ。
「いいの?」
「いいよ。その代わり、ちゃんと返せよ。ピアノの練習で忙しいから読めない、とかふざけたこと言うなよ」
ぐぬぬ。それ、僕が今ちょっと思ったことじゃないか。奏佑のやつ、今日で会うのが二回目のくせに、僕のことを全て見抜いてしまっているのではないか。
「わ、わかってるよ」
僕はぶっきらぼうにそう答えて横をプイッと向いた。
そこに、奏佑のお母さんがケーキと紅茶を差し入れしてくれた。だが、僕も奏佑もすっかり話に夢中になり、ケーキなどそっちのけだ。僕らは好きなピアニストについて議論を戦わせた。奏佑はロシア系のピアニストが好きなのだ、と僕に語ってくれた。特にスヴャトスラフ・リヒテルが好みなんだって。奏佑は僕にリヒテルの大量のCDを半ば強制的に貸し出した。
「全部聴いたら感想聞かせて。ピアノ練習する前に聴けよ。」
僕は初めて他の誰かとこんなに好きなピアニストについて話ができたことに感動を覚えた。ずっと僕は、こんな友達が欲しかったのだ。気兼ねなく、好きな話をできる友達が。
それと同時に、こんなに楽しい時間を過ごしているにも関わらず、奏佑の演奏を初めて聴いた時に感じたような、あの切ない感情がこみ上げて来た。なぜ、今、こんな気持ちにならないといけないのだろう。そんな僕の様子を知ってか知らずか、奏佑がおもむろに切り出した。
「今日の昼休み、俺と友達になれないって言ったのかわからないけど、ピアノのことで何か悩んでいたりするのかな?」
僕はドキッとした。昼休みのこと、やっぱり覚えていたのか・・・。
「ごめん。でも、あんなの本心じゃないから。奏佑と友達になれないなんて、嘘だから」
必死に弁解する僕の頭を奏佑は軽くポンと叩いた。
「そんなのわかっていたよ。あれから、ずっと律が落ち込んでいたの、見てたら丸わかりだったから」
「・・・そうなんだ」
そんなにわかりやすく落ち込んでいたとは・・・。奏佑には本当に何もかも見透かされているようで気まずい。
「もし、音楽のことで苦しくなっているんだったら、もっと気楽にやった方がいいよ。コンクールの時からずっとお前、思いつめたような顔ばかりしていたから気になっていたんだ」
「・・・ごめん。奏佑のショパン聴いた時、僕は自分と奏佑との差がどれだけ大きいのかってことに気付いたんだ。僕には奏佑みたいな演奏なんて無理だ。五歳からずっとピアノやって来たけど、全然僕より才能ある人なんてたくさんいる。そう思ったら、なんだかむしゃくしゃして・・・。八つ当たりだよね。本当にごめん」
僕は唇をギュッと噛みしめた。奏佑はしばらく何も答えなかったが、
「律、音楽ってどういうものだと思う?」
と、僕に聞いた。
「どういうものって言われてもな。楽器を演奏して奏でるもの、じゃないの?」
「音楽って、音を楽しむって書くだろ。楽しくなかったら、音楽じゃない。よく言われる話だけどね。だけど、俺たちは時々その楽しむって行為を忘れてしまう。練習でうまくいかない時もある。コンクールで思ったように評価されないこともある。コンクールの時の律、音楽を楽しんでなかったんじゃないかな? ただ技術をひけらかしたいって感じだった。その技術をひけらかすために、ミスをしないようにって、そればかり気にしていたんじゃない?」
僕は自分の心が揺れ動くのを感じた。
「うん・・・そうかも」
「でも、ラフマを弾いていた律は本当に楽しそうだった。律の弾くピアノの音、全然違ったよ。音楽ってその時の心が映し出されるものだから、演奏している方が楽しくなかったら、聴いている方も楽しくない。本当に美しい旋律を美しいとこっちが思っていなければ、聴衆も美しいと思わない。そういうものだと思うな、俺は。だから、俺はあまり勝ち負けで音楽を語りたくない。音楽ってそんなものじゃないから。そりゃ、時には競い合うこともあるよ。プロの世界も、常に誰かと比較され、優劣を判断される。だけど、そればかりに気を取られて、音楽本来の魅力を見失ったら、それはもう音楽家とはいえないよ」
「音楽」か。僕は音楽がどういうものか、なんてこんなに真面目に考えたことなかったな。確かに、今までの僕は音楽をやりながら「楽しい」という感覚を失っていた。五歳から初めて小学校に上がってしばらくはひたすら楽しくてピアノを弾いていた。それがいつしかコンクールに出るようになり、入賞したり上の大会に出ることばかりを考えるようになっていった。
もう一度、音楽への向き合い方を考え直してみようかな。楽しいと感じていた幼いころのピアノへの気持ちをもう一度取り戻してみたい。そう思った。
*律の好きなピアニスト、ディヌ・リパッティと、奏佑おススメのピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルについてはこちらで簡単に演奏を紹介しています。
https://kakuyomu.jp/users/hirotakesan/news/16816700427715541954
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