第7話 スタインウェイの音色と共に
*本エピソードで登場するラフマニノフの前奏曲Op. 23 No. 2のイメージが沸かない方はこちらで紹介しています。
https://kakuyomu.jp/users/hirotakesan/news/16816700427715541954
僕は、トラックとの衝突から守ってくれた奏佑に詫び、そして礼を述べたが、奏佑は僕を怒鳴り続けた。
「お前、自分の命を粗末にするなよ!」
「あ、いや。別に死のうとした訳じゃ・・・」
「そういう問題じゃないんだよ! 道路を渡ろうとする時に、車が来るかどうか確認するのは当たり前だろ。お前、俺が後一歩遅かったら死んでたんだぞ。わかってるのか」
「はい・・・。すみませんでした・・・」
僕がおずおず謝ると、奏佑は僕をつかむ手を緩めた。彼は俯き、少し震えているように見えた。
「そうやって、死ぬつもりがなくても、突然死んでしまうことだって人にはあるんだよ」
「奏佑、何かあったの?」
「いや、何でもない。物の例えだよ」
そう言って奏佑は僕に笑顔を見せた。だが、奏佑は何かを内に抱えているようだった。
「律、今日、これから暇? よかったら家に来ない? 見せたいものがあるんだ」
奏佑はさっき僕がトラックにひかれそうになったことも、休み時間に僕が一方的に友達関係を解消しようと言ったことも忘れたかのように、明るく僕を誘った。
「いや、急に来るかって言われても・・・。僕、帰ってからピアノの練習が・・・」
「ピアノなんていつでも弾けるじゃないか。今日は俺んちに来てよ。俺、律と話したいことたくさんあるんだ」
「ねえ、ちょっと待ってってば」
奏佑は僕の手を無理矢理引いて歩き出した。強引にでも奏佑が僕を家に連れて行ってくれることが、実はとても嬉しかった。だが、休み時間に僕が言ったことはもういいのだろうか? もう忘れてくれたのかな? それなら忘れたままでいい。友達になれないなんて、僕の本心じゃないから。
__________
奏佑の家は、見るからにお金持ちの住むような、大きな邸宅だった。広い庭はイギリス式の洋風なこじゃれた庭園で、花が咲きほこっている。奏佑に案内されるまま、僕は奏佑の玄関に上がらせてもらった。
「あら、奏佑。お友達を連れて来たの?」
奏佑のお母さんが僕らを出迎えてくれた。モデルのように美人な人で、とても高校生の息子を持つ母には見えなかった。
「そうだよ。霧島律くんっていうんだ。高校の同級生」
「霧島律です。どうぞよろしくお願いいたします」
僕はカチコチに固くなって、今までしたこともないような恭しいあいさつをした。
「どうもご丁寧に。奏佑の母です。さあ、どうぞ。上がってらっしゃって」
奏佑のお母さんの物腰から仕草一つに至るまで、全てが上品だ。
「し、失礼します」
いつも家で靴を揃えて脱げと怒られている僕は、この時ばかりは靴をぴったり揃えて脱いだ。広い居間には一台のグランドピアノが置かれている。見ると、スタインウェイのピアノではないか。あの、一台一千万円は下らない世界最高峰のピアノメーカーだ。僕も、スタインウェイはピアノのコンクールや発表会の時にしか弾いたことのない代物だ。
「いいなぁ」
僕は思わずつぶやいた。
「弾いてみる?」
奏佑が僕にニヤリと笑いかけた。
「いいの?」
「いいよ。だって、弾かれるためにピアノはあるんだから。置いておくだけじゃ勿体ないよ」
「え? じゃあ、奏佑はこのピアノでいつも練習している訳じゃないの?」
「違うよ。だって夜にこのピアノ弾いたら近所迷惑になるでしょ? 地下に防音室があって、そこに練習用のピアノがあるんだ」
地下の防音室・・・。ちょっとこの家はレベルが違う。
僕は奏佑のお言葉に甘えて、スタインウェイを弾かせてもらうことにした。僕の得意とするラフマニノフのOp. 23、前奏曲第二番変ロ長調を弾くことにした。この曲は、左手の激しいアルペジオのパッセージから始まる、ラフマニノフらしい華やかな一曲だ。僕が弾き始めると、そこに奏佑のお母さんも僕のピアノを聴きに来た。スタインウェイの華やかな音色がこの祝祭的な前奏曲にピッタリ合う。弾いていて気持ちがいい。ピアノを弾いていて、僕は久しぶりに楽しいという感覚を味わった。
これまで、ずっと僕はコンクールでいい成績を取ることに拘り、ずっとピアノを弾くことが重く僕の心にプレッシャーとしてのしかかっていた。だが、今は違う。心がまるで解放され、羽ばたいてしまいそうなほどの自由に溢れていた。ピアノってこんなに楽しかったんだ。僕は弾きながら自然と顔がほころんで来るのを感じた。
僕が弾き終わると、奏佑と奏佑のお母さんは拍手をしてくれた。
「霧島さんもピアノを弾かれるのね。奏佑よりも上手なんじゃないの?」
まさか。随分と奏佑のお母さんは、お世辞がうまいことで。ああ、どうせこの人はピアノのいろはすらわかっていない人なんだろうな。僕はそう思って内心鼻で笑った。だが、
「律、今のラフマ、コンクールの時よりずっと良かったよ。こんな演奏ができたら、きっと律も全国に行けていたのに」
と、奏佑に初めてピアノを褒められた僕は、思わず耳を疑った。なぜ? こんなにただ好きにピアノを弾いただけなのに。ミスタッチだってあったし、コンクールの時のように集中もしていないのに。でも、奏佑に褒められたのは純粋に嬉しい。顔が自然にほころぶ。
「ありがとうございます!」
と、僕は、何度も頭を下げた。
「やめろよ。そんなに改まって話すような関係じゃないよ、俺らは」
奏佑が照れ臭そうに笑った。そのはにかんだ奏佑の笑顔に、僕の心はときめいた。なぜ、奏佑の笑顔に僕はこんなに魅かれているんだろう。顔が火照って高揚している。この感覚は何なのだろう。友達ができた嬉しさなのか。それとも別の何かなのか。
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