第6話 露呈した本心

 僕は奏佑の演奏に息を呑んだ。僕がいつも弾いている同じ曲とは思えなかった。僕の演奏は、ただフォルテッシモを強調し、鍵盤を叩きつけるだけ。奏佑の演奏は違った。曲の全体を緻密に計算し、曲の中の細かい強弱も丁寧に扱いながら、最後のフォルテシッシモに頂点を築いてみせた。エチュードなんて、ただの練習曲だと思っていたのに、奏佑の演奏にはストーリーがあった。僕は自分の演奏がなんだか恥ずかしいものに思えた。


 五歳からずっとピアノをやって来たにも関わらず、これほどの差が僕と奏佑の間には横たわっている。何もかも僕とはレベルが違う。この十年間、僕がやって来たことは一体何だったのだろう。僕は、唇を噛みしめた。


「ごめん。僕、もう教室帰る」


僕は音楽室を飛び出そうとしたが、奏佑が僕の腕をつかんで引き止めた。


「待てよ。なぜ逃げるんだ。さっきも教室からいつの間にかいなくなってしまったし、今度は音楽室からも逃げるのか? 俺たち、友達だって言ったよな」


「・・・もう僕は、奏佑と友達でいるつもりはないから。関わらないで」


すぐにでもこの場を逃げ出したかった僕は、思ってもいないことを口走った。僕はそんなことを口走った自分を激しく後悔した。本当は、もっと奏佑と関わりたかったのだ。仲良くなりたかったのだ。そんな自分の本心に僕は初めて気が付いた。だが、あんなことを口走ってしまった手前、前言撤回なんてみっともない真似はできないと思った。僕は音楽室を飛び出した。


 教室に一人で戻った僕はすっかり落ち込んだ気分で机に突っ伏した。奏佑と友達になろうと約束したあのコンクールの夜、僕が去年ほど悔しさを感じなかった理由がわかった。僕は、奏佑という友達ができたことが嬉しかったのだ。ずっと友達を作ることなど下らないと、「友達」そのものを見下して生きて来たくせに、僕はずっと淋しかったのだ。そんな自分でもずっと押し殺して来た感情に、僕はこの時初めて気が付いた。


 小学校からずっと、周囲とも話が合わず、友達になろうとしても話す話題がなかった。友達は好きなテレビや漫画、ゲームの話に花を咲かせていた。だけど、僕はテレビなど見ることもなく、ずっとピアノに向かって来た。


 そんな僕にも、小学三年生の同級生で、初めて僕と気兼ねなく話をしてくれる友達ができた。だがある時、「好きなアーティストは?」と聞かれた僕は、幼いころから憧れだったピアニスト、ディヌ・リパッティの名前を出した。彼は、三十三歳で亡くなった天才肌のピアニストだ。第二次世界大戦の前後の時代を生きた、知る人ぞ知るピアニストだった。


 だが、そんな人をその友達が知るはずがない。僕がリパッティの名前を答えた途端、その友達は「誰それ?」と怪訝な顔をした。クラシック音楽が好きな友達など、誰も周囲にはいなかった。遠足の時に皆で歌った流行りのアイドルの曲も僕だけ歌えず、僕は全員から白い目で見られた。きっとこの友達も、僕をそんな奇異な目で見るのだろう。そう思った僕はそれ以上、彼と関わるのをやめた。


 それからというもの、ずっと僕はピアノだけが友達だと信じて生きて来た。ずっとピアノを弾いてばかりいたせいか、小学校高学年に上がる頃には、ベートーヴェンのソナタやショパンのエチュードを弾きこなすまでになっていた。


 だが、小学校の音楽会での合唱のピアノ伴奏には決して手を出さなかった。「ピアノばかり弾いている変なやつ」として見られるのが嫌だったからだ。でも、表向きには、「友達など下らない」、「合唱のピアノ伴奏など自分のピアノの練習の邪魔でしかない」と思うことで自分を誤魔化し、本当の気持ちに蓋をして来たのだ。


 でも、そんな時に奏佑と出会った。彼も同じくピアノを弾くやつだった。それも、僕なんか及びもつかないレベルで。そんなやつが、僕と友達になろうと言ってくれた。こいつなら、好きなピアノの話をしても引いたりしない。バカにしない。だから、彼とはもっと仲良くなりたかった。それにも関わらず、僕はできかけた友達を自ら拒絶してしまった。何をやってるんだろう、僕は。


 僕はその日、一日窓の外をぼうっと眺めて過ごした。隣の奏佑は僕にそれ以上、何も話しかけて来ることはなかった。もう、完全に奏佑との関係は終わった。僕がバカだったのだ。友達なんて下らないものだとわかっているのに、友達ができたと浮かれていたからだ。やっぱり友達なんて僕には必要ないんだ。僕はずっと一人でピアノに向かい続けていく。それだけだ。


 放課後、僕は奏佑と顔を合わせないように荷物を急いでとまとめると、奏佑を避けるように教室を出た。校門を潜り抜け、学校の前の道路を横断しようとした時、後ろから強い力で引っ張られた。目の前を大きなトラックがスピードを緩めることなく通り過ぎていった。奏佑のことで頭がいっぱいになっていた僕は、車道を走る車にろくに注意も払っていなかったのだ。


「危ないだろ!」


僕をトラックにひかれる寸での所で救ってくれたであろう人が僕を怒鳴った。


「すみません」


そう言って振り返った僕はあまりの気まずさに硬直してしまった。その声の主はあの奏佑だったからだ。

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