天が落ちてくる

黄黒真直

天が落ちてくる

あ、完全に終わった。


終了のチャイムと同時に、私はそう思った。


高校入試なんてものに、情熱は注いでいなかった。高校なんてどこに行っても同じだと思っていたし、中学の成績も良かったから。だけどいざ結果がボロボロになると、心の中に重く苦しい澱みが沈んだ。


あ、私、本当はこんなダメ人間だったんだ。

こんなテストひとつでここまで落ち込むなんて。


答案が回収された後も、私は立ち上がる気力が湧かなかった。今日のために買った無地のシャープペンシルを眺めているうちに、教室からは誰もいなくなっていた。


気が付くと、窓の外はひどい嵐だった。午後一時だというのにもう暗い。私の心のようじゃないか、と皮肉っぽく笑う。


一度笑い始めると、止まらなかった。


そうだ、こんなときは笑ってしまおう。もう何もかもどうでもいい。すべてを失った今、私は無敵なのだ。


笑いながら静かな廊下を歩き、昇降口に着いた。鞄から、念のためとお母さんに渡された折り畳み傘を取り出して、土砂降りの外へ出た。


その、たった五秒後だった。

横殴りの風が、傘の骨をバキバキに折った。

豪雨が制服をボロ雑巾のように濡らし、口が少し空いていた鞄を水槽にして、ローファーの中を海にした。


何もかもボロボロだった。


「…………」


笑おう。

こんな状況、逆に笑えるじゃないか。

すべてを失った今の私は無敵なんだ。一人で高笑いするところを見られたって、何も失うものはない。


「ふ、ふふ……」


だが私の口から笑い声は漏れず、代わりに目から涙が溢れた。


一度泣き始めると、もうダメだった。

私は使えなくなった傘を投げ捨てて、雨と涙でぐしゃぐしゃになった顔を伏せながら、校門から走り出た。


駅へは向かわなかった。代わりに、知らない街の知らない道をただひたすらに走った。迷子になる心配はしなかった。未来のことは考えられなくなっていたから。

私は陰気な路地裏に入ると、大声を上げた。


「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」


私の声は、まるで硝煙弾雨のような雨音がかき消してくれただろう。そうじゃなかったとしても、気にすることはない。私は無敵だから。


ひとしきり声を上げると、少しだけ心がすっきりした。

肩で息をしながら、私は顔を上げた。


そして、ほんの数メートル先でしゃがみこんでいた少年と、目が合った。


「…………」

「…………」


少年は傘を差していなかった。レインコートも着ていない。私と同じで、全身ずぶぬれだった。

彼は私より年下に見えた。たぶん、小学五年か六年だ。おびえたような表情で、私をじっと見つめている。


なぜ見つめているんだ。そしてなぜおびえている。

それはたぶん、私が大声を上げていたからだ。


ではなぜ傘も差さず、こんなところでしゃがみこんでいるのだ。

この先は行き止まりだから、私より先にこの路地裏に入って、ここでずっとうずくまっていたんだろう。そこに私が来て、大声を上げた……。


なんだか申し訳ないことをした気がする。それにちょっと恥ずかしい。無敵なのに。

そんな気持ちを誤魔化すように、私は彼に鷹揚な態度を取った。雨で張り付いた前髪をかき上げ、叫びすぎてかすれた声を出す。


「やあ、少年。迷子か?」


返事はない。ただ、震えた。寒さのせいではないだろう。


「それじゃあ、家出か?」

「……」


今度は表情が変わった。彼の顔がくしゃくしゃに歪んでいく。

痛いところを突いてしまったのかもしれない。同時に、なんだか彼が他人とは思えなくなった。


「もしかして、君も人生が何もかも無理になった口か?」

「……」

しばしの沈黙のあと、少年は頷いた。


その瞬間、私の中に優越感のような連帯感のような、庇護欲のような感情が芽生えた。自分より弱いものを見つけた快感、自分と同じ境遇の人間を見つけた安心感。


雨が少し止んだ。私はやっと、笑えてきた。悪い笑みだったが。


「よし、その様子だと昼もまだだろう。ついてきなさい、お姉さんが奢ってあげる」

私は少年に手を伸ばした。道端の少年をナンパするなんて悪いことを、堂々とやっていた。今の私は無敵だった。

「どうせ行く当てもないんだろう? 私もないんだ」

少年はしばらく悩んだ後、私の手を掴んだ。

冷たい手。だけど体重はしっかりと乗った手だった。


格好つけて路地裏から出たものの、私にはこの辺の地理がわからない。

「少年、ここから駅までの道はわかるか?」

「……」

少年は空いてる手で駅までの方を指差した。そっちへ歩いていくと、入試会場の横に出た。走り回ったようで、案外近場をグルグルしていただけのようだ。

ここまでくれば、私も駅までの道が分かる。雨の中、私は少年の手を引っ張った。


広い駅ではなかったが、駅前には一通りの遊び場が揃っていた。私は真っ先に、バーガーショップに入店した。

全身ずぶ濡れの私達に、店員のお兄さんはぎょっとした。

「あの、お客様……」

という言葉を無視して、私は店員さんにピースした。

「テリヤキバーガー……の、セット二つ!」

私はちょっと贅沢した。だって無敵だから。


窓際のカウンターに座って、私達はバーガーを無言で食べた。椅子も床もびしょびしょになってしまったが、店員さんは何も言わなかった。私達が寒さに震えていたからだと思う。

生まれて初めて頼んだホットコーヒーで、体を温める。味はよくわからなかった。子供だからではなく、寒かったからだ。

少年もおおよそそんな感じで、ただひたすらに温かいバーガーとコーヒーを口に入れていた。


食べ終わって外に出たとき、私は少年の声を初めて聞いた。

「あの、ごちそうさまでした」

少年は礼儀がなっていた。

「礼には及ばないさ」

後ろでは、店員さんが迷惑そうに雑巾がけしていた。


その後、私達は日が暮れるまで駅前で遊んだ。ゲームセンターでダンスをし、たこ焼き屋で体を温めた。もらったばかりのお年玉が底をついたが、それがむしろ快感だった。


私達は無敵だった。


「少年、ここから家へ帰れるか?」

「うん」

「そうか。今日はありがとう、楽しかったよ」

「ぼくも」

私達はすっかり打ち解けていた。

「まぁあまりくよくよしすぎるな。健康に良くないぞ」

どの口が言うか、と私は笑ってしまった。少年も笑った。雨は止んでいた。


結局、少年の名前も、なぜあそこにいたのかも、何も訊かなかった。少年も私に訊かなかった。それでいい気がした。




後日、入試の合否を確認したら受かっていた。


案外そんなもんである。

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天が落ちてくる 黄黒真直 @kiguro

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