深淵のアルカディア
昧槻 直樹
深淵のアルカディア
Et in Arcadia ego
「私(或いは、死)は、アルカディアの地であっても存在している」
人類は追い求めるものは必ず手に入れんとする。それが如何なる結末を招こうとも、その手を止めることはしない。
アルツハイマーに、自己免疫疾患。それらの治療法として研究が続いていた薬、ドイツ語の「万能薬」から一部拝借し「アルハイル」と名付けたそれは、その大仰な名前とは裏腹に、神を崇めるどころか、神をも冒涜するような薬へと変貌していってしまった。
時は新暦3年。人類が「寿命」を半永久的に手放すことに成功した未来。人々はついに念願の夢をその手に掴み取ってしまったのだ。自然の摂理から図らずも奪うように。
電柱の上から眼下を見下ろす、一つの影。その小さな影は若い少女らしい。彼女のその見つめている目は、「憂いている」のか「蔑んでいるのか」――。
少女は、とん、と軽く飛び出すように電柱を蹴ると、その落差へ何の躊躇もなく地上へと飛び降りた。そして軽い足取りで着地を決めると、まるで小さな段差を飛び越えただけかのような涼しい顔で平然と歩き始めた。
社会の縮図と化した繁華街を静かに縦断する少女。彼女の目に映る人間は皆、生きる希望や意味を見失い堕落して座り込んでいたり、一方で自暴自棄、傍若無人になり果て、飲めや歌えと好き放題に振舞ったり、「生きる」という活力ややる気、そして「人間性」それらが感じられない者たちばかりだった。
「はぁ、一体何だこれは……」
立ち止まった少女は俯き、嘆くように言葉を漏らす。そこへ、一人の男が暢気に近付いてきた。
「おい、こんなところにおんなのこひとりで来ちゃ、あぶないんだぞぅ?」
表情や臭いからして、酔っぱらっているのが分かる男。呂律の怪しい口調で少女に絡んでいく。
「んん~? おほっ、よくみたら、かぁいいなぁ、きみ。どう、こんばんおじさんといっしょに――」
「失せろ」
「っ……!? ぅぐっ! がはっ!?」
しかし、その直後だった。彼女が男の目を見返したその刹那、男は突然喉を押さえてもがき苦しみ、そのまま地面に仰向けになって倒れこんでしまった。
『きゃー!』
複数の叫び声が上がる。倒れた男はピクリとも動かない。知り合いだろうか、別の男が遠巻きに少女へ文句の声を上げた。
「おい、この人殺し! あいつが何したって言うんだ! お前はあいつに何をしたんだ!」
すると、触発されたのか通りの反対側からも声が上がる。
「そもそも、私たちは病気でも死なない身体になったのよ!? それがどうして、彼は動かないの!」
その場にいた多くの人間が声を上げ、少女を罵った。けれど、彼女は顔色一つ変えず、それらを聞き流した。恐らく少女には、彼らの言葉は聴くに値しないものだったのだ。
少女が左手を、手のひらを上にして胸のところまで上げると、同時に、革張りのような書物がひとりでに現れ、手のひらの上で生きているかのごとく開いた。
それに目を下ろしていると、背後から一人の人物が這うように近寄ってきた。周りの人間が息をのみ、心配そうに見つめていると、少女が徐に振り向いて、その人物を見下ろす。
「……何?」
「彼は、どうして死んだ。いや、どうやって“死ねた”んだ?」
擦れた声で尋ねる男に、少女は跪いて、目を見て答えた。
「かの男は、私の邪視により死が与えられ、よって、結果的に “死んだ”。生きるとは死ぬこと。死とは生きる。月の満ち欠けのように、対であり、且つ別々であるかのように言っているだけで一つのこと。かの男は本来迎えるべき“死”を迎えなかった。設定された死“寿命”を過ぎ、生きてはいなかった。同時に死んでもいなかった。だから死んだ。生きてもなく、死んでもいなかった者。あれがその、本来の姿だ」
話が終わるのと同じくして男は、少女から目線を外し死んだ男の方に目をやって、そこで小さく息を呑んだ。そこにはボロボロの布切れと、灰色のすすの山だけが残されていた。
少女に目線を戻した男がすがるように彼女の白とも水色ともつかない、淡いワンピースにしがみついた。
「頼む! 私を、私を殺してくれ! 家には妻と娘、そして息子がいるが、こんな身体になっては、金を稼ぐこともできない。かと言って、あの者たちのように薬を飲んで寿命を延ばすこともできない! 私には、私たちにそんな金はないんだ。だからどうか、どうか……!」
少女はしばらく男の懇願する姿を眺めたのち、そっと男の手を退けた。それはとても柔らかい、シルクをそっと被せるほどの力加減だったが、驚くほどあっさりと、力強く握りしめていた男の手をどけた。
「聞き入れられない」
「な……! なぜだ!?」
「私は“殺す”ことはできない。相応しい時に相応しいものを与える」
「……それが、君の役目……?」
少女は多くは語らず、男の言葉にも反応を示さなかったが、静かに右手を出し、男の額に触れた。
数秒ほど触れたのち手をどけると、やおら少女は立ち上がり、店の前で飲み食いをして飲めや歌えと騒いでいた人々の群れの方へと近づいていった。
何も言わず近寄ってくる少女に、人々は怯えるように慌てて距離をとった。海割りのように人が退き、まだ食べ物や飲み物が多く乗っているテーブルのそこだけ場所がぱっくりと空く。
テーブルまでやって来ると、少女がまだへたり込むように地面に座り込む男の方を向いた。
何事かつかめない男だったが、身体の不快感が消えているのに気が付き、軽くなった身体に驚いた。フラフラと立ち上がると、少女は「こちらへ来なさい」と言っているのだろう、と感じ少女のもとへ歩いていく。
導かれるままにテーブルに着き、目の前に溢れる食事の数々に唾を飲んだ。
少女は、いつの間にか空いた左手を男の目に被せると、右手を背中に当て、耳元に顔を近づけた。
「身体の病は消した。貴方の名は本にはまだ載ってない。さぁ、たんとお食べ」
少女が手をどけた時、男の目は憑りつかれたかのように食事にくぎ付けとなって、それから無心で食べ始めた。
腰まで伸びた髪を翻し、身体を反転させると少女は高らかに宣言した。
「神の命令の名のもとに、これより清算を始める――」
少女は、ひとりでに出現した本を左手で持ち、その開いたページへ右手を突っ込んだ。彼女の右手は手首まで本の中へ入り、すぐに、何かを掴むと本から右手が抜かれる。
現れた右手には、銀色に輝く銃が握られていた。
「――《宿命からは、逃れることはできない》Et in Arcadia ego!」
時は新暦3年。人類が「寿命」を半永久的に手放すことに成功した未来。しかし、その弊害として多くの人々は堕落の道へと向かってしまった。そんなある日、人々の前に一人の少女が現れた。
誰が言い始めたか、彼女のことを人は、神の命令を果たす天使の名を借りて、「サリエル」と呼んだ。
彼女が手に持つ書物、「本」には、人の魂を罪にいざなう霊魂、堕天した天使、そして、本来死を迎えるはずだった人間の名が書かれているという。
彼女には幾つかの使命と幾つかの能力があり、人を癒す力と死をもたらす力、その両方を併せ持つ。
深淵のアルカディア 昧槻 直樹 @n_maizuki
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