智恵子の半生と智恵子抄(抜粋)

武藤勇城

智恵子の半生と智恵子抄(抜粋)

 妻智恵子が南品川ゼームス坂病院の十五号室で精神分裂症患者として粟粒性ぞくりゅうせい肺結核で死んでから旬日で満二年になる。私はこの世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の廃頽はいたい生活から救い出される事が出来た経歴を持って居り、私の精神は一にかかって彼女の存在そのものの上にあったので、智恵子の死による精神的打撃は実にはげしく、一時は自己の芸術的製作さえ其の目標を失ったような空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した。彼女の生前、私は自分の製作した彫刻を何人よりもさきに彼女に見せた。一日の製作の終りにも其を彼女と一緒に検討する事が此上もない喜であった。又彼女はそれを全幅的に受け入れ、理解し、熱愛した。私の作った木彫小品を彼女は懐に入れて街を歩いてまで愛撫した。彼女の居ないこの世で誰が私の彫刻をそのように子供のようにうけ入れてくれるであろうか。もう見せる人も居やしないという思が私を幾箇月間か悩ました。

(中略)

 製作の結果は或は万人の為のものともなることがあろう。けれども製作するものの心はその一人の人に見てもらいたいだけで既に一ぱいなのが常である。私はそういう人を妻の智恵子に持っていた。その智恵子が死んでしまった当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかった。

(中略)

 そういう幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失う事によってかえって私にとっては普遍的存在となったのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言わば彼女は私とともにある者となり、私にとっての永遠なるものであるという実感の方が強くなった。私はそうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終って製作を眺める時「どうだろう」といって後ろをふりむけば智恵子はきっと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである。

(中略)

(彼女は)概してあまり頑健という方ではなく、様子もほっそりしていて、一年の半分近くは田舎や、山へ行っていたらしかった。私と同棲どうせいしてからも一年に三四箇月は郷里の家に帰っていた。田舎の空気を吸って来なければ身体が保たないのであった。彼女はよく東京には空が無いといってなげいた。私の「あどけない話」という小詩がある。



 智恵子は東京に空が無いといふ、

 ほんとの空が見たいといふ。

 私は驚いて空を見る。

 桜若葉の間に在るのは、

 切つても切れない

 むかしなじみのきれいな空だ。

 どんよりけむる地平のぼかしは

 うすもも色の朝のしめりだ。

 智恵子は遠くを見ながらいふ。

 阿多多羅山の山の上に

 毎日出てゐる青い空が

 智恵子のほんとの空だといふ。

 あどけない空の話である。



 彼女と一緒に旅行する度に、ゆくさきざきで人は彼女を私の妹と思ったり、娘とさえ思ったりした。彼女には何かそういう種類の若さがあって、死ぬ頃になっても五十歳を超えた女性とは一見して思えなかった。結婚当時も私は彼女の老年というものを想像する事が出来ず、「あなたでもお婆さんになるかしら」と戯れに言った事があるが、彼女はその時、「私年とらないうちに死ぬわ」と不用意に答えたことのあるのを覚えている。そうしてまったくその通りになった。

(中略)

 昭和六年私が三陸地方へ旅行している頃、彼女に最初の精神変調が来たらしかった。私は彼女を家に一人残して二週間と旅行をつづけた事はなかったのに、此の時は一箇月近く歩いた。不在中泊りに来ていた姪や、又訪ねて来た母などの話をきくと余程孤独を感じていた様子で、母に、あたし死ぬわ、と言った事があるという。

(中略)

 前夜十二時過にアダリンを服用したと見え、粉末二五 グラム入の瓶が空になっていた。彼女は童女のように円く肥って眼をつぶり口を閉じ、寝台の上に仰臥ぎょうがしたままいくら呼んでも揺っても眠っていた。呼吸もあり、体温は中々高い。すぐ医者に来てもらって解毒の手当し、医者から一応警察に届け、九段坂病院に入れた。遺書が出たが、其にはただ私への愛と感謝の言葉と、父への謝罪とが書いてあるだけだった。その文章には少しも頭脳不調の痕跡こんせきは見られなかった。一箇月の療養と看護とで平復退院。それから一箇年間は割に健康で過したが、そのうち種々な脳の故障が起るのに気づき、旅行でもしたらと思って東北地方の温泉まわりを一緒にしたが、上野駅に帰着した時は出発した時よりも悪化していた。

(中略)

 そうした或る期間を経ているうちに今度は全体に意識がひどくぼんやりするようになり、食事も入浴も嬰児えいじのように私がさせた。私も医者もこれを更年期の一時的現象と思って、母や妹の居る九十九里浜の家に転地させ、オバホルモンなどを服用させていた。私は一週一度汽車で訪ねた。昭和九年私の父が胃潰瘍いかいようで大学病院に入院、退院後十月十日に他界した。彼女は海岸で身体は丈夫になり朦朧もうろう状態は脱したが、脳の変調はむしろ進んだ。鳥と遊んだり、自身が鳥になったり、松林の一角に立って、光太郎智恵子光太郎智恵子と一時間も連呼したりするようになった。



(千鳥と遊ぶ智恵子)

 人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の

 砂にすわつて智恵子は遊ぶ。

 無数の友だちが智恵子の名をよぶ。

 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――

 砂に小さなあしあとをつけて

 千鳥が智恵子に寄つて来る。

 口の中でいつでも何か言つてる智恵子が

 両手をあげてよびかへす。

 ちい、ちい、ちい――

 両手の貝を千鳥がねだる。

 智恵子はそれをぱらぱら投げる。

 群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。

 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――

 人間商売さらりとやめて、

 もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の

 うしろ姿がぽつんと見える。

 二丁も離れた防風林の夕日の中で

 松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。



(山麓の二人)

 二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は

 険しく八月の頭上の空に目をみはり

 裾野とほくなびいて波うち

 すすきぼうぼうと人をうづめる

 半ば狂へる妻は草をいて坐し

 わたくしの手に重くもたれて

 泣きやまぬ童女のやうに慟哭どうこくする

 ――わたしもうぢき駄目になる

 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて

 のがれるみち無き魂との別離

 その不可抗の予感

 ――わたしもうぢき駄目になる

 涙にぬれた手に山風が冷たく触れる

 わたくしは黙つて妻の姿に見入る

 意識の境から最後にふり返つて

 わたくしにすが

 この妻をとりもどすすべが今は世に無い

 わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し

 げきとして二人をつつむこの天地と一つになつた。



 昭和七年以来の彼女の経過追憶を細かに書くことはまだ私には痛々しすぎる。ただ此の病院生活の後半期は病状が割に平静を保持し、精神は分裂しながらも手はかつて油絵具で成し遂げ得なかったものを切紙によって楽しく成就したかの観がある。百を以て数える枚数の彼女の作った切紙絵は、まったく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛憐の情の訴でもある。彼女は此所に実に健康に生きている。彼女はそれを訪問した私に見せるのが何よりもうれしそうであった。私がそれを見ている間、彼女は如何にも幸福そうに微笑したり、お辞儀したりしていた。最後の日其を一まとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑う表情をした。すっかり安心した顔であった。私の持参したレモンの香りで洗われた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去った。昭和十三年十月五日の夜であった。



(レモン哀歌)

 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた

 かなしく白くあかるい死の床で

 わたしの手からとつた一つのレモンを

 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

 トパアズいろの香気が立つ

 その数滴の天のものなるレモンの汁は

 ぱつとあなたの意識を正常にした

 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

 あなたの咽喉のどに嵐はあるが

 かういふ命の瀬戸ぎはに

 智恵子はもとの智恵子となり

 生涯の愛を一瞬にかたむけた

 それからひと時

 昔 山巓さんてんでしたやうな深呼吸を一つして

 あなたの機関はそれなり止まつた

 写真の前に挿した桜の花かげに

 すずしく光るレモンを今日も置かう

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