智恵子の半生と智恵子抄(抜粋)
武藤勇城
智恵子の半生と智恵子抄(抜粋)
妻智恵子が南品川ゼームス坂病院の十五号室で精神分裂症患者として
(中略)
製作の結果は或は万人の為のものともなることがあろう。けれども製作するものの心はその一人の人に見てもらいたいだけで既に一ぱいなのが常である。私はそういう人を妻の智恵子に持っていた。その智恵子が死んでしまった当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかった。
(中略)
そういう幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失う事によって
(中略)
(彼女は)概してあまり頑健という方ではなく、様子もほっそりしていて、一年の半分近くは田舎や、山へ行っていたらしかった。私と
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながらいふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
彼女と一緒に旅行する度に、ゆくさきざきで人は彼女を私の妹と思ったり、娘とさえ思ったりした。彼女には何かそういう種類の若さがあって、死ぬ頃になっても五十歳を超えた女性とは一見して思えなかった。結婚当時も私は彼女の老年というものを想像する事が出来ず、「あなたでもお婆さんになるかしら」と戯れに言った事があるが、彼女はその時、「私年とらないうちに死ぬわ」と不用意に答えたことのあるのを覚えている。そうしてまったくその通りになった。
(中略)
昭和六年私が三陸地方へ旅行している頃、彼女に最初の精神変調が来たらしかった。私は彼女を家に一人残して二週間と旅行をつづけた事はなかったのに、此の時は一箇月近く歩いた。不在中泊りに来ていた姪や、又訪ねて来た母などの話をきくと余程孤独を感じていた様子で、母に、あたし死ぬわ、と言った事があるという。
(中略)
前夜十二時過にアダリンを服用したと見え、粉末二五
(中略)
そうした或る期間を経ているうちに今度は全体に意識がひどくぼんやりするようになり、食事も入浴も
(千鳥と遊ぶ智恵子)
人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな
千鳥が智恵子に寄つて来る。
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
両手をあげてよびかへす。
ちい、ちい、ちい――
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。
(山麓の二人)
二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野とほく
半ば狂へる妻は草を
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のやうに
――わたしもうぢき駄目になる
意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
のがれる
その不可抗の予感
――わたしもうぢき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
わたくしは黙つて妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返つて
わたくしに
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
昭和七年以来の彼女の経過追憶を細かに書くことはまだ私には痛々しすぎる。ただ此の病院生活の後半期は病状が割に平静を保持し、精神は分裂しながらも手は
(レモン哀歌)
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
智恵子の半生と智恵子抄(抜粋) 武藤勇城 @k-d-k-w-yoro
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