三つの願いごと

はちやゆう

第1話

 ジャンは海岸に寝転んでいた。波がさざめいていた。目をつむっていてもわかるほど月が明るい夜だった。ジャンは目をあけ、からだを起こした。砂をはらい波打ちぎわを歩くと、透明なガラスのボトルが打ちあげられているのをみつけた。ボトルのなかには便箋が一枚折りたたまれて入っていた。ジャンはコルクを抜いて便箋をとりだした。便箋にはこう書かれてあった。


『願いごとを三つ叶えて差しあげます』


 怪しげなことが書かれた文面から顔をあげると、目の前に、金のストライプの入った青いスーツを着た男がジャンを見据えていた。

「一つ目の願いはなにになさいますか」

 青スーツの男は問うた。

 ジャンは男のあまりの浮世ばなれした姿に、驚きよりほかの感情をもてずにいた。

「一つ目の願いはなにになさいますか」

 質問の意味はわかったが意図がわからなかった。

「一つ目の願いはなにになさいますか」

 青スーツの男は繰りかえした。

「ええっと、お金が欲しい」

 ジャンは言ったあとで、すぐに後悔した。月並みで下品で想像力のかけらもない願いだと。

「たやすい御用です」

 と青スーツの男は言い、額から心臓を直径とした円を右と左の手で描き、胸のまえで勢いよく手を合わせた。かわいた音がなり、まばゆい光が爆発した。


 まぶしさに目が閉じると、次の瞬間、ジャンの手には札束が握られていた。

「二つ目の願いはなにになさいますか」

 青スーツの男は問うた。

 ジャンは札束を見つめしばし放心していた。

「二つ目の願いはなにになさいますか」

 青スーツの男は再び問うた。

 ジャンは沈黙した。ここで不用意に発言をしてそれを願いごとにされてしまってはまずいと考えたからだった。ジャンは、わかっていることと、わかっていないこととを整理した。まず一つ、願いは叶えられた。手の中に札束がある。あと二つ、願いは叶えられる。しかし、あの男はどうして叶えてくれるのだろう。世の中ただほど恐ろしいものはない。願いというのは、なにかと引き換えだったり、なにかの前借りだったりするようなものなのではないか、だったら喜んでばかりはいられない。ともかくわからないことが多すぎる、とジャンは思った。

「二つ目の願いはなにになさいますか」

 青スーツを着た男はそれだけしか発さない。

「願いを二つに増やしてもらうことは可能か」

 ジャンは質問をした。願いを単純に増やしてしまえば、なにか問題が起こったとしても、それを取り消すお願いをすれば、おそらくは、リスクを回避できると考えてのことだった。

「願いを増やすことはできません」

 青スーツの男は願いを問う以外のことがらを発した。

「では、願いを叶えることによって、わたしがなにかを失うようなことはあるのか」

 ジャンは矢継ぎ早に質問を投げかけた。

「それを知ることが願いでよろしいですか」

 青スーツの男は問うた。

「いや、待ってほしい、そうじゃないんだ。ともかく、待ってほしい」

 あと二つ、願いは叶えられる。おそらくこれは予感なのだが、ことの異様さから、大抵のものは叶えられるだろう。けれど、そのあとにはなにがあるかわからない。願いを叶えたあとに、それと同じ分のなにかを支払わなければならないかもしれない。そのように考えると、ジャンは簡単に願いを言うことができなくなってしまったのだった。


 海岸にはジャンと青いスーツの男しかいなかった。波がさざめく音がくりかえし、またそれよりほかの音もしなかった。ジャンはありとあらゆる可能性を考慮していた。ふと青いスーツの男をみると、男が透けているようにみえた。じっとみていると男の輪郭があいまいになっていく。そこでジャンは気づいた。夜が明けはじめたのだ。

 

 願いごとばかりにとらわれて、そのほかのことに気がまわらなかった自分の愚鈍さをジャンは呪った。しかし、呪ったところでどうにもならないので、ジャンは一歩踏みだすことにした。

「願いを叶えることでわたしがなにかを失ったり、また誰かに迷惑をかけたりすることはあるだろうか。たとえばこの札束がほかの誰かのものだったりして、悲しむひとがいるようでは、わたしは何も願わない」

「それを知ることが二つ目の願いでよろしいですか」

「ああ、かまわない」

「たやすい御用です」

 青スーツの男は一つ目の願いを叶えるときと同じように、額から円を描くように腕をひらき胸のまえで勢いよく手を合わせた。パンッと音と光がはじけた。


 目をあけると、ジャンはおおよそを理解した。青スーツの男がなにものであるのか。ボトルの便箋とはなんであるのか。なぜ願いを叶えてくれるのか。ひと言でいってしまえば、なんのことはない、これは好意だったのだ。ジャンはいままでありもしない不安にさいなまれて、なにも叶えられずにいた自分がとたんに馬鹿らしくなった。

 「三つ目の願いはなにになさいますか」

 まもなく夜が明けようとしていた。かわたれ時に青スーツの男は世界との輪郭、境界を失いつつあった。

 ジャンは焦っていた。青スーツの男が霧散してしまうまで時間がもうないことは空のオレンジが証明しているようであった。ジャンの頭のなかには欲望があふれていた。金、女、自動車、飛行機、チョコレート。青スーツの右半身はもうおぼろだ。王様、勇気、不老不死。

 ジャンは最後の願いを青スーツの男に告げた。

「時間を戻してくれ。願いを増やすことはできないが、一から叶えなおすことは可能だろう。これならなんでもできる」

「それが三つ目の願いでよろしいですか」

「たのむ」

「たやすい御用です」

 青スーツの男はもうほとんどみえない。顔が消え、肩が消え、腕が消えた。そして、両手が叩かれ、光があふれた。


 ジャンは海岸に寝転んでいた。波がさざめいていた。目をつむっていてもわかるほど月が明るい夜だった。ジャンは目をあけ、からだを起こした。砂をはらい波打ちぎわを歩くと、透明なガラスのボトルが打ちあげられているのをみつけた。ボトルのなかには便箋が一枚折りたたまれて入っていた。ジャンはコルクを抜いて便箋をとりだした。便箋にはこう書かれてあった。


『願いごとを三つ叶えて差し上げます』

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