ロリババアが男の子を甘やかしたり甘やかさなかったりする話

高橋 白蔵主

姉なるもの

姉は九つの頃に人魚の肉を喰らったのだという。飢饉じゃったでなあ、と鈴の転がるような声で彼女は言う。

姉は、形式上「姉」として暮らしているが、実は祖母の祖母よりずっとずっと年上なのだという。姉は老けず、病気もしない。エネルギーを使いすぎた分だけ食べればよいらしく、普段はほとんど食事をしない。母も、祖母も、姉のことを習慣で「ねえさん」と呼んでいた。彼女たちにとっても姉は姉なのだ。

父は姉のことを「すゑさん」と呼んでいた。ぼくもとうに姉の年を追い越してしまったが「ねえさん」と呼ぶことにしている。姉はぼくが、ねえさん、と呼ぶといつも小さく笑う。照れるんだそうだ。

高坂の家に男子が産まれたのは、姉が生まれた後ではぼくが初めてらしい。ぼくに名前をつけてくれたのは姉だという。響、というのは少し女っぽくて嫌だなと思った時期もあったが、今はけっこう気に入っている。

姉はインターネットの仕事で生計を立てている。顔を見せなくても仕事ができるというのは、彼女に言わせると凄いことらしい。悪いことに手を染めているんじゃないかと母が心配していたが、姉に関しては大丈夫だと思う。中学校に行けなくなったぼくを、姉はひとことも責めなかった。姉が瀬戸内海に浮かぶ島をひとつ買ったのは、そんな頃だった。小さい、何もない島にどこからか設備を揃えて、ちょっとした別荘を作ってしまった。

以来、姉はぼくを供に連れて夏を過ごす。


「ラジオはいいなあ」

姉は音が割れて時々パチパチいう古いラジオに、わざわざ無線の電波を飛ばして音楽を聴く。雑音混じりがいいなら、悪くなったスピーカーで聞けばいいじゃないかと指摘したこともあるが、ラジオがいいんだそうだ。

姉の趣味はよくわからない。見ているとソファで横になったようで、背もたれの向こうに頭が消えた。

ぼくは姉が横になっても海が見えるよう、掃き出し窓を開けて、ソファの隣の籐の椅子に腰かけた。ラジオからは、ひび割れたエレクトロスイングが聞こえている。

「響は、このままずっと家にいるつもりなのかな」

不意の切り込みに返事できないでいると、姉は小さくあくびをした。

「べつに響の面倒を見る分くらいは私が稼いでいけるだろうし、慧子が思ってるみたいに、おまえより先に死ぬのが悲しい、というのも私には縁のない話だ。おまえが望むなら、ずっと面倒をみてやってもいい。私は、おまえたちのおねえちゃんだからな」

慧子というのは母の名前だ。

祖母が亡くなった時、母は姉にすがるように抱きついて泣いた。おねえちゃん、お母さんが、お母さんが、死んじゃった。泣きじゃくる母の頭を、姉はそっと撫でていた。姉は黒いフレンチスリーブのシャツを着ていた。姉は祖母の葬式では一般の参列者の席にまぎれて座り、一度も泣かなかった。


ソファに寝転ぶ姉を見ると、その姿はただの女の子にしか見えない。少し日焼けして、長い髪を無造作にまとめている。細くて長い手足。ぼくよりずっと年上の人には見えないけれど、姉は確かに姉なのだ。

半分目を閉じて、姉は午後の海を見ている。あの葬式の時の表情に似ている、とぼくは思った。

「響は、かわいいよ」

ぼくの方を見ず、呟くようにして姉はおなかの上に手を組んで乗せた。波の音がきこえていた。

「私は、男の子と暮らすのはうまれて初めてだったよ。弟は喋れるようになる前に死んでしまったし、その後はみんな女の子ばかり。だから、響を見ているととても楽しい。響は私が知らないこともよく知っているし」

エロいアニメとかな、と姉はくすっと笑った。

「だけど響、なんで私がこんなことを言うかというと、少し怖いからなんだ。私はこうやって、響のことを独占していて本当にいいんだろうか。おまえが弱っているのにつけ込んで、私に依存させて、外に出さないように仕向けて、外堀を埋めるみたいに、私だけのものにしようとしてるんじゃないだろうか。私には時間はたっぷりある。私は自分を時々おそろしいと思うんだよ」

体を起こした姉は、真面目な顔でぼくの方を見た。

「私が響を私だけのものにしようと思ったら、私はあと何年か待つだけでいい」

姉は、ぼくの目をじっと見ていた。そして、にへっと笑う。

「だけど私は、おねえちゃんだからな。おまえが私から巣立って、自分の世界を作っていくのを応援してやるべきだと思うんだ」

ぼくは姉のそれが、作り笑いであることを知っている。姉はぼくを見ているが、ぼくの中に、ぼくだけでない沢山の誰かを見ている。母や、祖母や、もっとたくさんの誰かを。


「夏休みが明けたら、学校に行ってみたらどう?」

姉は至って一般的な、ホームドラマのセリフみたいなことを言った。なんと答えるべきか迷っているうちに、うまく返事ができなくなってしまった。姉はゆっくりと作り笑いを消して、普段の表情に戻った。

「ちょっと急な話だったかな。おいで。ぎゅってしてあげる」

ぼくが首を振ると姉はもう一度笑った。

「おまえたちはいつもそう。すぐ恥ずかしがって、大人のふりをするの。慧子も、福も、ウキもタエもそうだった。かわいい子たち。いくつになってもわたしはおまえたちのおねえちゃんなのに」

姉はソファから降りて、ぼくの頭をそっと抱きしめた。ぐるっと頬に回された掌が少しひんやりした。頭を撫でられて目をつむると、そこには確かに静謐があった。姉の時間がそこには流れていた。

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