後編
わたしは憤慨していました。ポイ捨てされる恐怖より怒りのほうが勝っていたのです。
まさか彼女の想い人が盗っ人だったなんてあんまりじゃありませんか。
「ただいま」
彼は図々しくもわたしを家まで持ち帰りました。傘立てには家族のものらしい傘たちがささっていました。
「やあ、お嬢さんこんばんは」
その方はどうやらその家の主人の傘のようでした。
「ゆっくりしていきなさい」
「あの、わたし盗まれたんです!」
「ゆっくりしていきなさい」
彼は同じことを繰り返すだけでした。
不安と怒りがごちゃ混ぜになってわたしを困惑させていました。
そのうちにガチャリと扉が開いて彼が戻ってきました。顔があるのならわたしは目を背けていたでしょう。彼は半裸でした。
わたしは彼の部屋へ無理やり連れ込まれました。
「やさしくするから……」
彼は言うと、首にまいていたタオルを取りました。
長い鎖骨が見えました。瑞々しい肌は水滴を弾いています。ひと動作ごとに動く筋肉がわたしの目を捉えてどうしようもありませんでした。
もはや抵抗することなんてすっかり忘れて、わたしは彼にされるがまま、足を開いていました。
「ごめんな」
彼は言いました。
そしてわたしの濡れた体をタオルでふきはじめたのです。水1滴残さず、汚れひとつひとつ落とすように丁寧に。
わたしは彼のひと拭きひと拭きに為す術なく身もだえました。
これを裏切りというのならそうかもしれません。あろうことか、わたしは持ち主である彼女より先に、彼と一夜を過ごしてしまったのです。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
しばらくして、また雨の日がやって来ました。
わたしはいつものように学校の玄関で彼女を待っていました。しかし、わたしを持っている人物はいつもの人ではありませんでした。
大勢の生徒たちが目の前を通って帰っていきます。わたしには見慣れた光景でした。
いえ、もしかしたらこの人もまた同じ光景を見続けていたのかもしれません。
生徒たちがほとんど帰った後で、その子はやって来ました。足取りはゆっくり、左右に揺れていて、帰るのを躊躇っているようでした。
靴を履き替えた彼女はいつもの癖で、傘立てに向かいました。そこでわたしたちに気づきました。
彼女は驚いた様子でした。わたしと彼を見て、逃げ出そうとしました。
「ごめんっ」
彼女の足がピタっと止まりました。
「ごめん、傘借りた」
彼はぶっきらぼうに言いました、が、その手は汗にまみれていました。
「……あのっ!」
「お詫びにさ!」
彼女の声をさぎって彼は大きな声で言いました。
生唾を飲み込む音がわたしにだけは聞こえていました。肺を押しつぶさんばかりにふくらむ心臓の鼓動もわたしにだけは聞こえていました。
「明後日、スワローズの試合があってチケットがあるんだけど、い、一緒に行かないか」
「……………」
呆然とする少女へ彼は傘を差し出しました。それはわたしと彼だけが知っていることでした。
うながされるままに少女は傘を開きました。すると、中からヒラヒラと紙が3枚降ってきたのです。
1枚は彼の連絡先でした。
もう2枚は野球の観戦チケットでした。
「あ、でも、明後日はたしか雨……」
「雨降っても」
彼はわたしを持ち主へと返しました。
「この傘をさして行こう」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
わたしは傘です。名前はもう無くなりました。
なぜならわたしはもう「置き傘」ではないからです。
吾輩は傘である ミニ王 @mininou
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