ep.5
空は高く、水彩絵の具をつけた筆でさっと塗ったような淡い鈍色だった。それは高度を増すにつれどんどん濃く、青さを増していった。藍色の空の向こうから、何かが落ちてきた。下からでは影になっていてよく見えなかったが、シルエットは確認できた。長方形で厚みがあり、くるくると落下している影は、しかし時たま鳥のようにばさばさと羽ばたいているようにも見えた。
落下物は徐々に高度を落としていき、鈍色の空に照らされた。風圧で、ページが勢いよく飛ばされ、その身をぐるぐると車輪のように回転させながら落下していき、その一冊の本は、池の前で釣り糸を垂らしている男の頭にごつんとぶつかって、とさりと彼の傍に不時着した。
男の首は衝撃によってぐにゃりと曲がっていた。口を半開きにして、しかめ面を浮かべた彼は「痛え」と小声で呟いた。
男は緑の三角帽越しに、じんじんと痛む頭をさすった。そして恨めしそうに足元の本を睨んだ。まっさらな表紙の本だった。
男が池から目を離していると、彼の握っている木の釣竿がぐいとしなった。男ははっとして、釣り糸の垂れた先に視線を戻した。水面の下で、薄紫色の鱗をした魚が釣り針につけてあった餌をもぎ取り、ゆうゆうと池の底へ戻って行くところだった。男は獲物がいなくなった池を睨み、口を尖らせた。
「せっかくの大物だったのによ」
そう呟いて、彼は釣竿を引き上げると、さっき落ちてきた白い本を手に取った。ページをはじめからおわりまで、ぱらぱらと飛ばして目を通した。「さっぱり読めない」と不満げに鼻を鳴らした。
男は、池のそばに積んである小石の山からてきとうに三個ほど見繕い、木の
本はぶくぶくと気泡をまといながら、池の底に消えていった。
エントランスの右側にある木製の大きな扉には『この先、開架図書』とあった。ドアを押すと、けっこう重たい。ドアの向こうには、吹き抜けの大きな部屋が広がっていた。
天井はかなり高い。建物の三階まで吹き抜けになっていて、別の階層の断面がこの部屋を囲んでいる。
手前には、長机と椅子が置いてあり、その奥には巨大な本棚がずらりと列をなしている。上の方の段には、とても手が届きそうにない。部屋の中央の道を進む。左右には本棚が森のなかの木々のように立ち並んでいる。それらの本棚にはその棚に収蔵されている書籍の目次がなかった。無口な図書館だと思った。
部屋の隅に、足の部分に車輪がついた木の梯子が置いてあった。頑丈な造りのその梯子を本棚の前まで引っ張っていき、足場を登った。本棚はてっぺんまで三メートルくらいの高さがあった。適当に一冊、棚から引き抜いてみたが、やはり読めない。棚にぽっかり空いた隙間に本を戻し、まわりをきょろきょろ見回してみると、きれいに整頓された本棚の一角で、不恰好に体をはみ出させている本を見つけた。私は梯子から降りて、足場を動かした。
再び梯子を登る。棚からはみ出ていたのは、本というよりノートに近い冊子だった。表紙に名前が書いてあったが、おそらく小さな子どもの字で、読めたものではなかった。中を開いてみると、クレヨンで描かれたであろう絵があった。三角帽をかぶった誰かが、池に釣竿を垂らしていた。池の中には薄紫色の魚がいて、魚の下、池の底には何か四角いものが沈んでいる。筆致は荒いが、子どもが描いた絵にしてはやけに具体的で奇妙な風景だった。
クレヨンの色が少し変色しているから、この絵が描かれてからだいぶ時間が経っているのだろう。なぜこんなものが、図書館と名乗っている場所の本棚に収蔵されているのかはわからないが、子どものいたずらだろうか。しかし、このノートがしまってあった場所は、本棚の一番高い段だ。小さな子どもが、重たい梯子を動かして隠したのだろうか。そもそも、小さな子どもがこの図書館に来るとも思えないが。
一旦ノートを棚に戻そうかと顔を上げた時、梯子を移動させている時は気がつかなかったものが目に入った。棚と棚の間に、不自然な空間があった。梯子から降りてみると、そこに背の低い木の箱が挟まっていた。三角屋根が載っており、箱に楕円の穴がぽっかりと開いている。犬小屋のように見えたが、そんなものがなぜ、図書館の中の、それも本棚同士の隙間に置いてあるのか。
しゃがみこんで、穴の中を覗いてみた。中は暗くてよく見えないが、そこに何かいるような気配はしない。
「ちょっと、そこをどいてくれないか」
不意に背後から声をかけられ、体がびくっと跳ね上がった。歳を重ねた男の声だった。まさか、自分以外に客がいるとは思っていなかった。慌てて立ち上がり、道を空けようとした。しかし、私は別に、通路の真ん中にいたのでもなく、本棚の前を塞いでいたわけでもないことに気づいた。
後ろを振り返ると、そこに一匹の犬がいた。白のブルドッグ。緑色の首輪を着けて、床の上に座っている。その犬のほかに、人影は見えない。ブルドッグは、私の後ろにある犬小屋をじっと見つめている。口を固く結び、微動だにしないその姿は、犬としては不自然なほどに落ち着いていた。
さっき声をかけてきたのは、この犬の飼い主だろう。だとすれば、その男は犬を放っておいて、一体どこへ行ったのか。周囲を見回してみたが、誰かがいる様子はない。
「なあ、お前さん」
また声がした。例の男の声だ。声のした方には、犬が座っていた。私はブルドッグのしわくちゃ顔を見た。そいつは、私の眼に、しっかりと視線を合わせて、言った。
「そこは私の寝床なんだ。早く道を空けてくれないか」
年甲斐もなく、私は走った。本棚の並びを走り抜け、入ってきたところとは反対側のドアから部屋を出た。
急いでドアを閉める。久しぶりに走ったせいで、息が上がっている。膝に手をつき、はあはあと息を荒立てる。犬が喋った。そんなばかな。そんなばかなことがあるか。この図書館は本当に魔女の館だというのか。冗談がきつい。しかし、確かにあのブルドッグは、人の言葉で私に指図してきた。ありえない。なんなんだ、一体ここは。頭がぐるぐると回っているのか、思考回路が止まってしまっているのかもよくわからない。おそらくどちらもだろう。とにかく、何も考えることが出来ない。いったん落ち着かなければ。幸い、あの犬が追ってくる様子もない。犬小屋の中に戻ったのだろう。ドアを背にして、もたれかかる。乱れた呼吸を落ち着ける。息を深く吸って、吐く。吸って、吐く。動悸はだいぶ収まってきた。
ドアの先、自分が今いる場所は、廊下だった。長い通路は四角形の辺になっていて、手すりを隔てた内側に壁はなく、大きな庭とつながっていた。庭の中心には太い塔が立っていた。手すりから身を乗り出し、塔の上を見上げてみたが、ずいぶんと高い。図書館に入る前に見た時には、こんな大きくはなかったような気がするのだが。
手すりから体を引っ込める。手についた埃を払っていると、遠くでドアが開く音がした。廊下の奥の扉の横に、女が立っていた。彼女も私の存在に気づいたようで、こちらに小走りで近づいて来た。
「来館者の方ですよね?すみません、お迎えに上がれなくて」
彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。犬の一件もあったため身構えていたが、彼女の態度をみて緊張感は解けていった。
栗色のセミロングほどの髪は後ろで束ねてあり、小さなイヤリングが銀色に光っている。ブラウスにオーバーオールという、なかなか奇妙な出立ちだった。流行りのコーディネートの一種なのかと考えたが、お洒落着にしては、オーバーオールはしっかり汚れていた。
「私はグレイブ・ヤード図書館司書のミサです。何かご覧になりたい本があれば、ご案内……いたしますね」
ミサは髪の色と同じ、栗色の眼を細めて微笑んだ。表情とは裏腹に、何でもない台詞を言い淀んだのが気になった。
グレイブ・ヤードの図書館 そうま @soma21
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