ep.4
車で走ること二十分。海岸沿いの道に出た。道路の向こう側には砂浜があり、夏には海水浴を楽しみたい人たちで溢れる。今年はもうその時期は過ぎて、半分開けた窓から、少し冷たい風が入ってくる。海のにおいはあまり好きじゃないので、窓を閉めた。
住民から「グレイブ・ヤード」と呼ばれているその図書館は、この道の先にある低い崖の上にぽつんと佇んでいる。図書館の中央から縦に伸びる塔と、常に白い輪を吐き出している煙突は、おだやかな海岸沿いの風景の中で異彩を放っていた。
地元住民のほとんどは、グレイブ・ヤードへは行かず、街中にある大きな市立図書館を利用する。街外れの薄気味悪い図書館へ近づくような者は、観光客か、よほどの変わり者くらいしかいないという。いびつな外観や人気のなさが悪さをしているのか、グレイブ・ヤードには、根も葉もない噂話が数多く囁かれている。
図書館には魔女が住んでいる、とか。凶暴な獣が住み着いていて、来館者を餌にしている、とか。館内の一番奥には別次元につながる部屋があって、現存していない歴史上重要な書物が大量に納められている、とか。誰が言い始めたかは知らないが、子供騙しの、しょうもない都市伝説たちだ。
◇◇◇
「不服ですか」
電話で呼び出しを喰らい、向かったカフェ。大きくないスクエアテーブルを間に挟み、担当編集の横溝が言った。
「そんなことはないさ」
「であれば、気持ちのいい返事をもらえますか」
「……」
私は、黙りこんだ。
視線を逸らした私を見て、横溝はちらりと時計に目をやった。それから、白いカップを持ち、縁に口をつけ、ゆっくりと紅茶を啜った。昼下がりの喫茶店。客はわれわれ二人だけだった。
新しい小説の試作。その締切をぶっちぎった私に、横溝は突然、『グレイブ・ヤードへ行って来て下さい』と言い出した。何か、新作の構想に繋がる手がかりが得られるかもしれないですし、と。うだつの上がらない作家をなんとか奮起させようという、彼なりの気遣いだろう。
だが、あの風変わりな図書館もどきに行ってみたいとは、微塵も思わなかった。というか、行きたくなかった。海は近いし、人気もないし、運転は面倒だし。興味関心の湧かない場所に行って時間を浪費するほど、私は暇じゃない。
……というのが本心だったが、今の私は、締切を守れなかった愚かな作家である。そんなことを言う資格など、当然持ち合わせていない。
横溝は、左手首に巻いた腕時計を、じっと見ていた。細長のメガネをかけたその顔は、いつも通りの無表情。紅茶の入っていたカップは、既に空いている。
無言。
合わない視線。
彼お得意の、静かで、穏やかな圧。
トイレに行くふりをして外に逃げようかとでも思い始めたとき、横溝は唐突に口を開いた。
「今、何時だと思いますか」
「は?……いや、わからない」
横溝は腕をひねり、時計の文字盤を私に見せた。
時刻は、午後二時三十分。
「ここからグレイブ・ヤードまで車でおよそ二十分。図書館の中を適当にうろつき、本を読んでいたら、一時間や二時間はすぐ経ちます」
彼はそう言いながら、時計に描かれた数字を、指でなぞっていく。
「この時期、あの辺りでは夕暮れになると、水平線に落ちていくきれいな夕日が見れるんです。知っていましたか?」
◇◇◇
車を降り、ドアを閉める。潮風が上着の中を通り抜けていく。寒い。空が若干曇っているせいだろうか。これで夕日が見れなかったら、全くの骨折り損だ。
グレイブ・ヤードは、小さく突き出した崖の上に佇んでいた。灰色の古びた石門を通り抜ける。
波の音。それと、足元の雑草たちを踏みしめる感触。
私の住んでいる家の近くに、百年以上の歴史を持つ高級ホテルがあるのだが、グレイブ・ヤードの外観は、それよりもだいぶ古びたものだった。建てられてから一体どれほど経っているのか、外壁のあちこちが崩れ、塗装が剥げていた。
窓や扉の形状も、見たことのない形をしていた。たしかに、こんな見てくれをしていては、魔女が住み着いていると噂されても仕方がないのかもしれない。
館の入り口。建物全体のスケールに対してはかなり小さい縦長のドアの前に立った。チャイムらしきものは見当たらないので、そのままドアノブをひねる。手の中のドアノブは、金メッキが剥げている。
ぎりぎりぎり。
扉が嫌な音を立てた。
中に入ると、そこそこの広さがあるエントランスが私を迎えた。しかし、中は暗い。外から入った光が床の上に伸びていく。人の気配は、ない。
ドアを閉めて、部屋をざっと見渡す。入り口から向かって右側には、おそらく受付であろうカウンターがある。台上には、型の古いパソコンがずいぶん場所をとっている。黒い革の椅子が置いてあるが、空席。カウンターの側に、名前も分からぬ観葉植物が植わっている。窓から差す弱い光が葉の表面を照らしているが、光沢はいまいち冴えない。
深緑の壁紙、暗い色合いの木材を基調とした部屋の造り。来館者に落ち着きを与える色調だ。部屋の中央には、背の低い本棚がいくつか並んでいた。新しく入荷した本が収められているのだろうか。
こちらに表紙を向けて置いてある本が目に入った。背中に白い羽が生えた男の子が描かれている。題名は……わからない。見たことのない言語だった。海外の作品だろうか。となりの本に目を移す。ピラミッドに似た遺跡の写真が表紙だ。題名は、こちらも読めない。知らない言葉で書かれている。中を開いてページをめくってみる。意味のわからない記号の羅列だった。
私は、本棚の左上から右下まで、すべての本をチェックした。収められていた本は厚みも背の高さもバラバラで、書かれている言語もみなそれぞれ違った。なんとも統一性のない本棚だ。そしてやはり意味を理解できるものはなかった。
まさか、図書館に来て、本の一冊も読むことができない、なんてことになるのだろうか。いや、この図書館のどこかに、読める本がいくらかはあるはずだ。
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