Welcome to the New Face

【case:00】

『警視庁刑事部捜査一課

第五強行犯捜査-殺人捜査第12係、葵生班』





 係長が部下よりも先に出勤する、なんて事は自分の巡査時代ではあり得なかった話だなと。葵生幸太郎あおい こうたろう警部は未だ、人の少ない早朝のオフィス内を見渡し溜息を零した。

 ちらほらと見える人影はソファーや自分のデスクで眠りこけて居るか、どこぞの班の新人で先輩達のデスクの掃除をせっせと熟して居るか、だ。因みに、自分が担当する12係に今年の春に配属となった12係の最年少巡査長は今朝は現場へと直接向かう事になって居る為、此処に姿は無い。それを知っている次に若い巡査部長は今、他の班の若い刑事達が今、まさに熟している雑務を久方ぶりに行う為にもう少ししたら出勤してくる事だろう。

 別に始業の15分前に己のデスクに着席出来ていれば遅刻扱いとはならないわけなのだが。新入りは先輩よりも先に出勤しなければならない、だとか。デスク周りの掃除とお茶の用意は下っ端の仕事だとか。何故か、脈々と受け継がれている『捜査一課』独特のルールが存在する。────なので。

 現時刻、早朝6時27分。この時間に12係のトップが係員誰一人出勤していない状態でデスクに居る事が異例と言えば良いのか、珍事だと言えば良いのか。


「まぁ、今は”新人だから〜”とか、そんな時代でもなくなったしなぁ……」

 

 空席の6つのデスクを見詰め、葵生はもう一度溜息を吐き出すと。出勤途中の緑色の看板の目立つコンビニで買った、少しお高いカップのホットの珈琲を啜った。……と、その時。


「あっれ……係長?」

「おぅ。おはよーさん」

「お早う御座います。……って、早すぎません?」


 葵生の腕時計が6時30分を指したと同時に。だだっ広く、人のほぼ居ないオフィス内に少し驚いた様な色を含む男性にしては少し高めの明るい声が響いた。

 声がしたのはオフィスの入り口付近。12係は殺人捜査係の中でも一番数字が大きく、設立も若い。……故かどうかは定かではないが、係員のデスクはオフィスの入り口から一番遠い、最奥に存在する。その、最奥のデスクに座る葵生が入り口から目視出来たのは、出勤してきている人間がほぼ居ないせいだろう。そして、声の主……12係の捜査員、濱遊翔はまゆう かけるは巡査部長の声が葵生に届いたのも人が居ない所為と刑事と言う職業ゆえの声のデカさの所為だ。

 少し、駆け足気味に自身のデスクへと向かう濱遊を横目でちらりと見遣り、葵生は再び珈琲を啜る。己が一番乗りだと思って居たのに、思わぬ人物に先を越された事が想定外過ぎて気にかかるのか。濱遊は己のデスクの上にボディバッグを投げ出しながら、珈琲を啜る葵生の顔をジッと見詰めた。


「奥さんと喧嘩でもしたんですか?」

「シバくぞ」

「じゃあ、娘さんの送迎でもあったんですか〜?」

「朝の6時に何処まで連れて行けと」

「まぁ、それはそうですけど。朝練とかあるじゃないですか?」

「あったとしても、俺に送れとか言わんな」

みゆきちゃん、確りしてますね。相変わらず」

「んー、……まぁ、せやな」


 濱遊の言葉に何処と無く、端切れの悪い返事を返し。葵生は今朝から何度目か解らない深い溜息を吐いて手の中の飲みかけの珈琲が入ったカップをデスクに置いた。


「実はな、新人が来る」

「はぁ……」


 低い声を更に低くして。唸るかの様に奥歯にまるで何か挟まったかの様な物言いでデスクに両肘を付き組み合わせた両手で口許を覆った葵生を、濱遊は隣りの先輩のデスクの拭き掃除をしていた手を止め「それがどうした?」と言いたげな顔で見下ろす。確かに9月の半ばという中途半端な時期の異動ではあるが、構えるほどに珍妙な事かと問われれば、そうでもない。なにせ、警察官と言う職務は常にどの課も人材が不足している。得に12係においてはもう数名、捜査員が欲しいのが係員全員の本音だ。ただ、『増やす』のと『使える』のはイコールしないのが専務の悲しい所である。なので、配属されてくると決まった時点で余程の特例でない限りはその人間は『使える人材』確定で喜ばしい事なわけなのだが。どうにも、葵生の表情は暗い。


「先日、退職者が出た11係の補充じゃなくて、12う ちなんですね」

「本人の希望らしいからな」

「12係希望って事です?」

「嗚呼」


 へぇ、と生返事を返した濱遊の眉間に僅かな皺が寄った。


(希望?本人の希望って言ったか?)


 己で確認したくせに、葵生から返って来た言葉を数回、脳内で繰り返す。警視庁捜査一課はいわば、警察官としての花形部署であり、配属を希望する人間も多い事は自分も良く知っている。だが、希望して配属されるような部署でもない。所轄で地道に成績を上げアピールし実力で勝ち取るしかない、狭き門であり、数の少ない椅子である。それを幾ら椅子の空きが出たからと『本人の希望』が通るとは……。


「……何者ですか?」


 決して男前ではないが。目鼻立ちがはっきりとし、優しそうに笑う好青年と言う言葉がしっくりとくる風貌の濱遊。ついさっきまで、顔に貼り付けていた笑顔を何時の間にか消し、瞳を僅かに細めた濱遊を瞳だけ動かし見上げ、葵生は重そうに口を開いた。


「……ロンドンで犯罪学を学んで博士号を持つ、"優秀"なお嬢ちゃん、らしい」


 それだけの筈がない。濱遊は何処かで感じていた違和感の正体が急にストンと腑に落ちた様な気がした。

『新人が来る』そんな理由だけで、12係の長が係員である部下の誰よりも早く出勤する理由にはならない。自分が配属された初日は確か、誰よりも早く出勤したし葵生は眠そうに欠伸を零しながら、一番最後に出勤をしてきたのを思い出す。あの時は12係の面々が誰も自分に話しかけてはくれず。葵生が来るまでの二時間近くを葵生のデスクの横で只々、立ち尽くして待っていた。

 この、捜査一課には昔からの『仕来り』や独自の『ルール』が幾つか存在する。例えば、今自分が先輩達より先に出勤してきている事、とかもそうだ。

 ……まさか。嫌な予感が濱遊を襲う。


「もしかして、係長────」

「お早う御座います!!」


 濱遊の言葉を遮る様に、少しだけ人の増えたオフィス内に透き通る様な、しかし芯の強そうな確りとしたよく通る若い女性の声が響き渡り。その場に居た全員が声のした方へと視線を向けた。


「本日付けで警視庁刑事部捜査一課、第五強行犯捜査-殺人捜査第12係に配属されました、橘雪々たちばな みゆき警部補であります!!」


 入り口に背筋をピン、と伸ばし。綺麗な敬礼姿で立つ若い女が一人。橘雪々、と名乗った警部補は敬礼したまま真っ直ぐに前を見据えその場を動こうとはしない。


「あー……」

「はぁ、」


 同時に橘を見遣った葵生と濱遊が今度は同時に溜息を吐き出すのを、他の係の面々が横目で気の毒そうに見る。はぁぁ、ともう一度深い深い溜息を吐き葵生は重い腰を持ち上げ立ち上がった。

 いつもなら、ポケットに両手を突っ込んで足を引き摺り、ペタペタと足音をさせ背中を少し丸めて歩く癖のある葵生が珍しく背筋を伸ばし、足早に橘の方へと歩み寄って行く。その、背中を見送りながら濱遊は心中で安堵の吐息を吐き出した。

 聞こえて来た彼女の階級は警部補、だった。葵生の話を聞いてもしかすると、若い警部か警視が来るのでは、と少し思ってしまったのだ。そうなると、場合によって係長の交代もありえなくはない話である。

 のんびりとしていて、少し頼りない部分もある葵生だが、濱遊は彼の部下で在る事を気に入っている。多分、恐らくだが、コレは自分だけではなく12係の全員が少なからず思って居る事ではなかろうか、と濱遊は思って居る。他の五人に改めて確認をした事はないが。個々の能力が高く個性的な面々が揃う12係。一癖も二癖もあるメンバーだが、葵生だからこそ上手く手綱を握って居られると、思うからこそ。


(急に係長交代って言われるかと思ったが、大丈夫そうだな)


 ふっと、表情を緩め。濱遊は二人から視線を外すと掃除の続きをし始めた。

 一方、葵生は橘の前まで辿り着くと自身もまた敬礼をして返す。その葵生が腕を下ろすのを見て、漸く橘が敬礼を解いた。


「自分が12係の責任者、葵生幸太郎警部です」

「橘雪々警部補であります!!」


 緊張しています、と。顔に大きく書かれている橘の赤く染まった頬と固まって少し震える肩を見詰め、葵生が彼女を落ち着かせるかのように微笑みを浮かべて見せた。


「橘警部補」

「はい!!」

「……そこ、入り口やし、通路やから。他の連中の通行の邪魔になるんで取り敢えず、コッチ来て」

「え、あ、あっ!はいっ!!す、すみません!!」


 葵生の笑みに釣られ、表情が和らいだかと思えば「そこ、邪魔」と言われ。橘は小柄な体を更に小さくし、頬だけではなく耳の先まで濃い朱色に染めて葵生の後ろを静かについて行く。その耳にクスクスと小さく笑う声や、何かを此方を見ながら話す声が届き、橘は無意識に下唇を強く噛み締めた。


「あー、他の連中の事は気にせんでええから」

「え、あ……はい」


 背中を向けたまま。此方を振り返り、自分の所作を見たわけでも無いのに葵生がひらひらと片手を振りそんな言葉を放つ。その言葉に、橘は不思議と肩の力が抜けるのを覚えた。


(……なんだろう。本当に不思議な人)


 伸びて居た背筋は最初だけで、結局背中を少し丸め片手をポケットに突っ込み歩く葵生。けれど、その後姿の方が、最初の敬礼姿よりも好感を覚える。固い言葉より、崩れた言葉にも。

 広いオフィス内。最奥に置かれた12係の面々のデスクに辿り着く頃には橘は最初の緊張がすっかりと、までは言わないがだいぶ解けて居た。


「ハマぁ〜。橘警部補のデスクやけどな」

「あー、すんません係長。俺、出て来ます」

「どないした?」


 己のデスク、定位置に腰を下ろしながら濱遊に橘のデスクの場所の相談を持ちかけた葵生だったが。何処かと電話でやり取りをしていた様子の濱遊は電話を切りながら葵生の言葉を遮り、慌てた様子で脱いで椅子の背にかけていた己の背広の上着を持ち上げた。


「今、ひふみさんから連絡が来て。……藤原が死んだ、と」

「……はぁ?」

「サクさんには道中連絡して、現場直行してもらいます」

「現場どこや」

「藤原のマンションですね。……自宅の窓から飛び降りたらしいです。詳しい事は後でまた報告します」

「解った。……ハマ」

「はい?」

「橘、連れて行け」

「はぁ!?」

「頼んだ」

「頼んだって、いきなり臨場させるんですか!?」

「此処に居っても仕事あらへんしな、今日は」

「あー、まぁ、あー、……解りました」


 どうやら、何処かで事件が発生したらしい事は側で聞いていて理解は出来た。そして、急いで現場へと行こうとしている濱遊と己のパソコンを立ち上げ、書類仕事を始めながら話す葵生をどうして良いのか解らずに交互に見詰める事しか出来ず。ぼんやりとしていた橘の耳に突如、濱遊の怒鳴り声に近い橘を急かす声が響き渡った。


「警部補!!取り敢えず、財布、携帯、警察手帳以外の邪魔な荷物は俺のデスクの上に鞄ごと置いて構わないので!行きますよ!!」

「え、えっ!?あ、はい!?」

「早くして下さいっ!!」

「はいっ!!」


 もたもたと、鞄の中を漁る橘が待てなかったのか。濱遊は橘の鞄を取り上げると、中から必要最低限の物を取り出し投げる様にし橘へと渡す。そして、鞄を己のデスクの上へと置くと「こっちです」と踵を返した。

 携帯と財布をスーツの上着のポケットへと捩じ込みながら慌てて濱遊の後を追おうと右足を強く踏み出す。相手は男性でコンパス差もあり、しかも駆ける様にデスクからどんどんと離れて行く。置いていかれないようにしなければ、その思いで駆け出そうとする橘を葵生が「待て」と呼び止めた。


「あ、あの?」


 行けと言ったのは葵生だと言うのに。今度は行くなと言う。なんなんだ、と。立ち止まり振り返った橘の眉間には思わず深い皺が刻まれた。

 その皺と表情を見て、葵生がにんまりと不敵な笑みを浮かべたものだから、橘の眉間の皺が増々、濃ゆくなる。


「忘れもんや、橘」

「???」


 そんな橘を面白がる様に低く喉を鳴らし笑い。ほれ、と葵生は橘へと向かい何か小さな丸いものを投げて寄越した。本当に小さなソレは動体視力には自信のある橘でもやや厳しく感じられた。見失わないように、と。キラキラと蛍光灯の光を反射しながら緩やかな曲線を描き己へと向かって空中を舞うソレをジッと見詰める。


「えっ?……っ!」


 目測を誤ったのか、投げた方が態と狙ったのか、下手くそだったのか。顔面へと向かって落ちてくるソレにどうして良いか解らず思考も動きも固めてしまった橘の顔のすぐ前で、節の目立つ大きな手がソレを器用に橘の顔に当たる前にキャッチした。


「係長っ!!!!」

「そんな怒るな、ハマぁ〜」

「こんな時に遊ばないで下さい!!サクさんだったら、もっとキレてますよっ!!」

「大丈夫や。サクの前ではやらん。キレたらめんどい、あいつ」


 ぎぎぎ、と。まるで油の切れたブリキ人形の様な動きで橘は己の眼前に急に現れた掌の行方を追う。どうやら、それは後ろに橘が付いてきて居ない事に気づき引き返して来た濱遊の掌だったらしく。固く握られた右手は橘の視線に気付くと、彼女の眼前へと戻りそっと開かれた。


「俺なら良いってのも、釈然としませんけどね。こんな大事な物、投げないで下さい。俺でも怒ります、普通に」

「橘がちゃんと受け止めたら良いだけの話やろ?」

「そうですけど、そうじゃないです」


 はぁ、と。深い溜息を零すと、濱遊は視線を橘へと移した。


「どうぞ、警部補」

「え、あ……」


 ん、と己の眼下に差し出される濱遊の掌の上に乗った丸く小さなソレを橘はそっと、右手の人差指と親指を使い摘み上げた。

 視線の高さまで、ソレを持って行き、ジッと見詰める橘の目尻がじわり、と熱くなる。


「これ……」

「お前さんのや。橘警部補」

「私、の……」


 ソレは赤い、小さなバッジ、だった。金色の文字で「s1s mpd」と刻まれたその赤いバッジは橘が憧れて、憧れて止まなかったモノの一つ。


「改めて、警視庁刑事部捜査一課、第五強行犯捜査-殺人捜査第12係、通称『葵生班』へようこそ、橘警部補。歓迎会は今夜するとして……。先ずは、初仕事に向かってくれ」

「……っい、はい!!」

「急ぎましょう。橘警部補」

「はい!」


 自己紹介は現場へ向かう車の中でさせて下さい、と。再び踵を返し駆け足に近い速さで歩き出した濱遊に強く頷き、赤バッジを握り締めながら駆けるようにし濱遊の後ろを行く橘。そんな二人がオフィスを出ていくのを見送ると、葵生は再び険しい表情を浮かべ。すっかりと冷めてしまい、饐えた味のする不味くなった残りの珈琲を無理やり喉の奥へと流し込んで飲み干した。

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桜流し 雪月花 @sgk_ss

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