バリケード粉砕ババアの半生

高橋 白蔵主

バリケード粉砕ババアの半生

自分が人から好かれる性格でないのは分かっていた。


完璧で居よう、と思うあまり他人にも非寛容になる傾向が彼女にはあった。いや、その傾向があるのは彼女だけではない。少なからず、誰しもが持っているものではあったが、彼女の場合不幸だったのは、それを指摘することが最終的に相手の成長につながると信じてしまったことだった。

事実、自分への指摘を、彼女は素直に受け入れていた。直しようのないもの以外は、頑張って改善するようにつとめた。だから「きちんと」「根拠をもって」「誤解が生まれないように」指摘すれば、人間は分かってくれると信じていた。

結果、少ない友人たちは彼女から離れていった。絶交するほどではない。ただ、離れていった。「正しい」彼女は、毎年のクリスマスカードを欠かさない。

かつて結婚した連れ合いは、彼女が指摘することに無頓着で、なおかつ欠点の少ない男性だった。穏やかで、論理的で、友人もそれほど多くなく、妻を大事にして暮らした。彼の数少ない欠点は、その寿命がきわめて短命だったということだった。


決して長くは続かなかった結婚生活、彼女は幸せに暮らした。

客観的に見たらどうだったのか分からない。彼女はいつも同僚たちのいい加減さや政治の失態について夕食で愚痴をこぼし、夫はそんな彼女を受け入れた。食卓は、彼女が九割喋っていた。夫の一割は「相槌」でしかなかった。話題のほとんどは、他人への不満だったが、夫はいつもそれを黙って聞いた。彼女は夫の悪口を誰にもこぼしたことはない。

子供は作らなかった。夫に先立たれた彼女は、まったく孤独に数年間を過ごした。


犬を飼いはじめたのは、セラピストに勧められたからだ。

彼女の話を聞いてくれるはずのセラピストは六度目のカウンセリングで、巧妙にうんざりした顔を隠しながら、犬でも飼ってみたらどうですか、と言った。良くないニュアンスであることはおいておいても、アイデア自体はいい考えだわ、と彼女は思った。犬は言い訳をしない。彼女にとっては初めての動物飼育だった。

自身の老齢を自覚していた。責任の取れないことをしてはいけません。彼女は自身の教義に厳格に、まず最初に「自分が死んだ場合に犬の面倒を見てくれる団体」の門を叩いた。正確には、単純な動物愛護団体だ。団体の主宰は最初、あまりいい顔をしなかったが「自分が死んだ後に犬の面倒を見る」というその約束の代わりに彼女が継続して多額の寄付をするという条件を出したところ、個人的な約束ですよ、という断りを入れたうえで受け入れてくれた。

本当に彼が約束を守るだろうか、と彼女は少し疑ってはいたので、公証役場で誓約書にサインを貰った。幾分うんざりした表情だったが、主宰は書面にサインをした。


彼女は犬と一緒に暮らした。

犬と一緒に色々なところに行った。レストランで断られることもあったが、正当な理由がなければ彼女は抗議した。公共施設に、犬を連れて入れるように公開の抗議文を送ったこともある。動物愛護団体から感謝状を貰ったこともあるし、逆に、出入り禁止を言い渡された施設もある。


そんな彼女は、うろうろとバリケードの中をさまよっている。外からは呻き声やらぺたぺたと歩き回る音が聞こえている。どうしてこうなってしまったのだろう。彼女はあたりの男たちに問いかける。「どうしてこんなことになってしまったの」「一体責任者は誰なの」「施設の担当者は一体何をしているの」疲弊しきった男たちは彼女の問いに答えない。

引っ込んでろ、婆さん。男たちはテーブルを積み上げ、ガラス面に補強をしながら彼女を邪険にした。ショッピングモールの外は歩く死体でいっぱいだった。

男たちは彼女の問いに答えない。

「わたしの、マドンナちゃんは一体どこなの」

母親は子に寄りそう。泣きじゃくる女子高生の肩をボーイフレンドが抱く。だが誰も、彼女のそばには座らなかった。


彼女が、バリケードの向こうにその姿を見たのは、神が与えた試練だったのかもしれない。呻く死体たちの中、彼女は愛犬の鳴く声を聞いた。しろくふわふわの毛。ところどころ血に汚れているが、窓の外で彼女を探して鳴く、『マドンナ』の声、聞き間違えるものか。共に過ごした年月。聞き間違えるものか。


彼女は男たちを振りほどいてバリケードに向かう。たかが犬だろ。やめろ。ババア。男たちは彼女を止めようとする。誰か、このババアの足を折れ。乱暴な声がする。彼女は男の目に指を入れ、羽交い絞めから逃れた。彼女の人生は、彼女を置いて行ってしまった。彼女は誰からも愛されない。彼女が愛する犬だけが、彼女の存在そのものだった。こんな、乱暴で、思いやりのない男たち、自分のことだけしか考えない女たち、そんなものとは比べ物にならない。


彼女は、引っかかれて血の流れた顔で叫んだ。こんな大声を上げたことがこれまでの人生であっただろうか。マナーも、ルールにも反している彼女の初めての違反。


「わたしの!マドンナちゃん!わたしの!すべて!」


彼女はバリケードの隙間からガラス戸にたどりついた。やめろ、なんてことを、と男たちが叫んでいるが、彼女には届かない。彼女には自由がある。自分の人生を、何を大切にするのかを決める自由がある。ここはアメリカだ。誰も彼女の自由意思を侵すことはできない。

彼女は、ばん、とガラス戸を開く。初めに彼女の愛犬が走り寄り、そしてうろついていた死体の群れが彼女に気付き始める。


そして彼女は外側からバリケードを崩し始める。不可逆的に、自分が通り抜けた隙間から、もう誰一人、それこそ犬一匹ですら戻れないように、積み上げたテーブルを崩し、ガラス戸を塞ぐ。彼女はもう戻ろうとしない。


「さあ、もっと!もっとよ!バリケードをふさぎなさい!」


開いた扉から彼女の声が中に響く。男たちは新しい資材で、彼女が通り抜けた穴をふさいだ。ちらりと見えていた男たちの顔が、完全に見えなくなった。死体は彼女を囲み、彼女は犬を抱いている。犬は血に汚れ、震えている。彼女も犬も、もう歩けない。


「わたしが、何を大事にするかというのは、わたしが決めるの」


彼女は片手で犬を抱き、逆側の手を死体に差し伸べた。


「食事の前に、いただきますも言えないからそんな、汚らしい姿になるのよ」


最後の嫌味だ。そして彼女は自分の自由を全うした。

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