第10話 後記


 以上が粗筋である。上下2巻、上下に2段、700ページ近いのをまとめるのである。大変。シーボルトの娘として、〈あいのこ〉として生まれたイネの一生が語られるのであるが、動乱する歴史が背景で語られる。そちらの方が多くのページを占める。歴史小説であるから当然と云えば当然だが、それがあって、イネの生き方が浮かび上がってくる。


 幕末から明治へ、激動期の時代を生きた主人公を扱った小説に、島崎藤村の『夜明け前』がある、〈木曽路はすべて山の中である…〉で始まるあの小説である。わたしはこの小説と対比させて読んでいた。

『夜明け前』が、主人公青山半蔵は奥深い山の中、中山道に面した宿場町馬篭宿が舞台で主人公はほとんどここを動かない。イネの方は、ベースは長崎であるが、宇和島、岡山、大坂、東京と、この時代としては結構動くのである。『夜明け前』が閉ざされた宿場町、それに対して長崎は開かれた港町、青山半蔵が学んだのが国学、イネは蘭学。激動期という時代は共通するのだが、何かと対照的なのである。

和宮の降嫁の行列が中山道の宿を通る場面がある。それを宿場の自家からじっと眺めて、半蔵は時代が大きく動くことを感じるのである。イネの場合は、もう誕生それ自身が激動の時代を予兆したものであった。


 夜明け前の主人公・半蔵は、王政復古に陶酔し、山林を古代のように皆が自由に使う事ができれば、村民の生活はもっと楽にできるであろうと考え、森林の使用を制限する尾張藩を批判していた。下層の人々への同情心が強い半蔵は新しい時代の到来を熱望していた、明治維新に希望を持つが、待っていたのは西洋文化を意識した文明開化と、政府による人々への更なる圧迫など半蔵の希望とは違う物で、更に山林の国有化により一切の伐採が禁じられるという仕打ちであった。

 半蔵はこれに対し抗議運動を起こすが、戸長を解任され挫折。意を決して上京し、自らの国学を活かそうと、国学仲間のつてで、教部省に出仕するが、しかし同僚らの国学への冷笑に傷つき辞職。また明治天皇の行列に憂国の和歌を書きつけた扇を献上しようとして騒動を起こす。上京も失敗し、失意のうちに帰郷する。


 次第に酒に溺れるようになり家産も傾きになる。そして最後の期待をかけて、上京させた学問好きの四男、和助(作者島崎藤村自身がモデル)が期待に反し、英学校への進学を口にする。最後は半蔵が尽くした村人たちによって、狂人として座敷牢に監禁されて果てる。対比させて何かと印象的な作品であった。吉村氏の力量をいかんなく発揮された作品であった。少しくどいところもあったが、一字たりとも飛ばさずに読んだ。この時代を学ぶ歴史の入門書としても最適ではないか。作者の歴史観の押しつけもなくたんたんと事実の経過が語られる。歴史の通史本はどうしても、無味乾燥した味気ないものである。物語、生きた人間の息吹の中で歴史を知るのもいい方法だと思う。


 それにしても、石井宗謙、片桐重命、医師としてひとかどに成功した人物なのだろうが、女性に対して不名誉を犯した人物として、いつまでも名を留めなければならないとは、同じ男性として同情しかかってしまう。仕方がない、それが罰というものだ。でもいちばんきつい罰かもしれない。


注釈

イネと高の名前について

イネは宇和島藩主・伊達宗城から厚遇され、宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤(くすもと いとく)と名を改める。高は明治になって高子と改名する。


人物

吉村 昭(よしむら あきら)1927年(昭和2年)~2006年(平成18年)

東京生まれ。習院大学中退。1966年『星への旅』で太宰治賞を受賞。同年発表の『戦艦武蔵』で記録文学に新境地を拓く。同作品や『関東大震災』などにより、1973年菊池寛賞を受賞。現場、証言、史料を周到に取材し、緻密に構成した多彩な記録文学、歴史文学の長編作品を次々に発表。小説家津村節子の夫。


ハインリヒ・フォン・シーボルト

日本に滞在し、日本で岩本はなと結婚して1男1女をもうけた。またオーストリア=ハンガリー帝国大使館の通訳官外交官業務の傍ら、考古学調査を行い『考古説略』を発表、「考古学」という言葉を日本で初めて使用する。


大村益次郎

文政8年(1824年)~明治2年(1869年)。幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務めたが、明治2年軍事施設視察のため出向いた京都で元長州藩士8名によって襲撃され、その傷がもとで亡くなる。元の名字は村田、幼名は宗太郎、通称は蔵六、のちに益次郎。周防国の村医の長男として生まれる。防府で、シーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学ぶ。後年、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾の塾頭まで進む。嘉永3年(1850年)、帰郷し、村医となって村田良庵と名乗る。

ペリー来航で蘭学者の必要性が高まり、伊達宗城候のたっての要請で宇和島藩に出仕する。大村はシーボルト門人で高名な蘭学者の二宮敬作を訪ねるのが目的で宇和島行を決意したとも云われている。宇和島に到着した大村(村田蔵六)は、二宮や藩の顧問格であった僧晦厳や高野長英門下で蘭学の造詣の深い藩士大野昌三郎らと知り合う。一級の蘭学者として翻訳、砲台の設置、蒸気船研究と藩主に重要される。藩主伊達宗城の江戸行に同行し江戸詰めになる。宇和島藩御雇の身分のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行う。安政5年、長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行うが、このとき桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合う。これを機に長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となる。維新への功績は西郷、大久保、竜馬に次ぐものと評価されている。


伊達宗城(1829年~1892年)

福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち「四賢侯」と謳われ、幕末期に有力藩藩主として影響力を持つ。養父宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、宇和島藩を豊かにした。幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手した。

明治になって、明治2年(1869年)、民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のためイギリスからの借款を取り付けた。明治4年には欽差全権大臣として清の全権李鴻章との間で日清修好条規に調印し、その後は主に外国貴賓の接待役に任ぜられた。しかし、その年に中央政界より引退する。明治25年、葬去。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『ふぉん・しほるとの娘』 北風 嵐 @masaru2355

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ