第9話 高の悲劇

 高が去ってからは、イネは急に寂寞感が自分を包み込むように思えた。前年まで東京で産科医として多忙な日を送っていたのが夢のように思えた。医師免状は持ってはいるが、産科の看板をかかげる気持ちにはなれなかった。信義からは高を一人前の産科医に仕上げるからと温情のこもった手紙が寄せられたが、高からは東京に着き石井の家に身を寄せた旨の簡単なものであった。その年もあけ、明治12年の正月をイネは一人で侘しく迎えた。2月下旬珍しく高から分厚い手紙が届いた。


 そこには驚愕すべきことがらが書かれていた。船中でイネと同じようなことが起きたのである。片桐は三瀬の存命中から密かに高の美貌に心を惹かれていたというのだ。

 長崎に来たのも高に会いたい一心からであったという。子供まで宿したのもイネと同じであった。自分たち親娘には、共通した不運なめぐりあわせにあるのかも知れぬと思った。高が上京以来ほとんど手紙を寄こさなかった理由が理解できた。その間悩み続けていた高の心中が察せられ、イネは手紙の上に大きな涙粒を落とした。


 イネは産科にしようとしたこと、片桐に託したことを後悔した。虚脱したように毎日を過ごした。母として娘にどのようにしてやったら良いのか、高が身ごもっている子を同じ境遇には落としたくはなかった。そのためには高が片桐の妻になることが好ましい。片桐は医師であり、妻帯していない。夫としては、不足はないはずだと思った。高は片桐と結婚し、片桐を楠本家に入り婿させるのが最良の方法だと心が定まって、そのことを信義宛に手紙にして書き送った。


 暫くして信義から返事が来た。イネの考えに反対していた。また、高にもその意思はみじんもなく、怒りがおさまらぬので、片桐に詫び証文を書かせ、今後高には近寄らぬよう厳しく伝えたという。

 高はしばらくして何の前触れもなく長崎に帰って来た。高はうつろな目をして日々をすごしていた。そんな折、長崎医学校の助教である山脇泰助という人物の使いの者の来訪があった。要件は、高への結婚の申し込みであった。イネは会ったことはなかったが、名前は知っていた。東京大学東校を出た27歳の俊才であった。再婚の高には望めぬ良縁であったが、高はその資格を失くしていた。イネは断るしかなかった。高は男の子を生んだ。イネは名前を周三とした。


 再度使いのものが見えて、事情を知った上でどうしても高を妻として迎えたいという話であった。山脇は長崎に帰って来た高を見初めたのである。またシーボルトを尊敬し、イネが立派な女医であることにも敬意を払っていて、その血を受け継ぐ高を医師の妻として迎えたいというのである。

 周三も実子として育ててもよいということであった。高は過去を断ち切って新しい幸せを掴まねばならない、山脇の厚意に甘えるわけにはいかなかった。イネは周三を楠本家を継ぐ者として自分の養子とした。山脇に嫁いだ高は二女をもうけた。しかしその山脇も早世する。高は「私はよくよく男運がない女です」と、仏壇におさめられた骨壺を見上げながら、切なく泣いた。


その後のイネと高


 その後のイネと高であるが、アレクサンダーから東京に出てこないかと誘いがあった。周三も小学校に通うようになっていて成績も群をぬいていた。幼いながら自分の将来は医師と決めているようであった。周三の教育のことも考えて東京行を決めた。明治22年秋、イネは高と三人の孫を連れ長崎を離れた。


 上京したイネらはアレクサンダーの案内で、麻布のハインリッヒの家に腰を落ち着けた。楠本医院という木札を掲げて5年ほど産科医院を開いたが、それも閉じた。高は子供の育児に専念したが、その手がはなれてからは琴や三味線に励み、その才を開かせ良家の子女に教えるようになり、その道で生計を成り立たせるようになった。イネは自然と孫の教育係となり、厳しく教育した。周三はその後、慈恵医大に進み医師になった。福沢諭吉の死が新聞に報じられた。イネは視力の衰えた目でその記事を読んだ。

 明治36年8月25日、夕食に大好きだった鰻のかば焼きを近くの鰻屋から取り寄せ、食後孫たちと西瓜を食べた。夜半から急にイネは腹痛を訴えた。診察に来た医者は鰻と西瓜の食べ合わせが老いたイネの消火器に悪影響を与えたと診断した。夜半近く昏睡状態におちいった。慈恵医大の医学生であった周三も寮から駆けつけ治療にあたった。8月26日午後8時過ぎ、イネは息をひきとった。76歳であった。


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