第8話 老いを感じるイネ


 イネは往診先で思わぬ言葉を耳にした。「取り上げ婆さん」という言葉であった。それはイネの胸に突き刺さり、大きな衝撃であった。医業開業試験が制度として実施された。当然、イネも受験しなければならない身であった。しかし漢方医らの強い反対もあって、25歳以上の開業医には試験は免除され、免状は授与されることになったのである。世人はその処置を「お情け免状」と称したのである。そのことがイネの胸にわだかまっていたのである。


 イネは改めて自分が身につけた医学について振り返ってみた。ポンぺ、ボードイン、マンスフェルトについて学んだといっても、オランダ語に未熟な身には理解も不十分であった。結局自分が得たのは二宮敬作、石井宗謙から伝授された知識だけで、それが自分の全てであることにも気づいていた。日に月に急速な進歩を示す医学から遠く置き去りにされていく自分を意識した。医業を続けるためには「お情け免除」を貰わねばならない。政府は制度を作ることに専念し、今後もさまざまな規則に縛られて仕事をしなければならなくなるだろう。イネは疲労を感じた。

 このまま東京で忙しい毎日を送るのが煩わしく感じた。休みたかった。長崎に帰るのが好ましいと思った。イネは信義にその旨を伝え、福沢には手紙を出し、〈とう〉には事情を話し、他の医家に師事するようにすすめた。のちに〈とう〉は産科学を修め、宮中御用を拝命するまでになった。


 長崎の町のたたずまいは変わらなかったが、薩摩士族の反乱が伝えられ、町は騒然としていた。西郷らの西南の役である。顔見知りのものから「先生」と呼ばれ、往診を乞われることもあったが、休養中だと云って応じなかった。

 秋の気配が深まった頃、高からの手紙に驚いた。三瀬が亡くなったのである。コレラに感染しての急死であった。三瀬はまだ39歳で渡欧の準備をすすめ、大病院兼病理研究所を夢見ていたというのに、感染症で亡くなるとは、三瀬の無念を思い、心の支えであった三瀬を失ったイネの悲しみは大きかった。


 高は長崎に帰って来てイネと一緒に暮らすことになった。一人ならなんとか東京で蓄えたものでと計算していたが、事情は変わった。東京の石井信義から手紙があって、医師開業免許の交付があったので長崎の役所で受け取るようにすすめてきた。イネはそれに従って免許を受けた。

 イネは寡婦となった高が女として自活できる道について思案した。助手の〈とう〉は未亡人で自分に師事したが、同じ道を進ませるのがいいのではないかと思った。幸い東京には石井信義がおり、頼めば高の面倒を見てくれるだろうし、産科も紹介してくれるだろう。高はイネの突然の言葉に驚いて、「考えさせて頂きます」と答えるのがやっとであった。高はまだ夫を亡くした悲しみの中にあって、先のことなど考えていなかったのである。高は考えるといったが返事をする様子はなく、イネを避けているようでイネは苛立っていた。


 そんなおり、一人の男が高を訪ねて来た。イネが「どなたです」と高に低い声で訊くと信義の家に出入りしている片桐重命という医師で、信義の家で何度もあったことがあると言ったが、片桐がなぜ訪ねてきたかは高にもわからないようだった。イネはともかく座敷に上がって貰った。

 片桐は仏壇に手を合わせたあと、「自分が長崎に行くと云ったら、石井先生が近況をお伺いし、これを持って行くようにと言われました」と懐中から香典を差し出した。イネも高もようやく片桐の来意を納得し、その好意に胸を熱くした。片桐は27、8才の誠実そうな男性に見えた。


「石井先生は今後どのようにお過ごしか御心配されております」との問いに、イネは「高を信義先生にお預けし、産科を学ばせたい」と答えた。「実は、石井先生も高さんがそのような気持ちになられるとよいが…と云っておられました。イネ様のところにおられた〈とう〉さんも、近々助産婦を開業されると聞いております」と片桐は答えた。片桐は5日ほどで東京に帰るとのことであった。イネは信義も同じ考えだったことに喜び、「それは好都合でした。今日にでも信義殿には手紙を出します」と高を連れて行ってくれるように頼んだ。高も覚悟が決まったようで東京行の準備を始めた。イネは波止場まで高を送った。自分は非情な母親のように思えたが、今後の高のことを思えば、いたずらな情を挟むべきでないと思った。








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