かつてカミだった幽魂を喰らうケモノ【掌編読み切り/2000字以内】

蒹垂 篤梓

第1話 かつてカミだった幽魂を喰らうケモノ

 昔、昔のことだった。

 ソレは天然の流動する精気マナから零れ落ちた。

 モノを見、モノを聞き、モノに触れるモノ。

 モノとコトの有り様を識り、刻を解き、理りを悟る。

 ソレは、己をナニとも知らなかった。

 ただ天然に遊び、天然と踊り、刻の移ろいを愉しんでいた。

 そこにいつしか紛れ込んだ異物。

 人間

 後にはそう自らを呼ぶ猿の亜種。

 彼らは、瞬く間に増え、いくつもの集団を作り、道具を作り、言葉を操り、栄えていった。

 彼らは、それまでそこにあるだけだったモノに名を付けた。名を付けて、この世界の有り様の表層の一端を理解しようとしていた。

 ソレは、そんな人間に興味を持った。

 ソレは、風のように空を舞い、大地に縛られず、自由だったから風の精霊カミだと見做された。実際には何モノでもないモノに過ぎなかったが、ソレ自身も、無論人間もそんなことは知らない。

 ソレは悪戯を好み、時に恩恵を与え、また厄災をもたらした。感謝されたり怖れられたりしたが、ソレはまるで気にすることもなかった。彼は天然から生まれたモノで、天然そのものだったから、天然の理りに従ってあるがまま、誰のためとか、利とか害とかまったく頓着なかった。

 いくら「カミ」と崇められても、ソレには関わりないことだった。

 時を経て、長い永い年月が過ぎて、ソレは変わらずソレであり、あるがままにあって、変わりない。けれど人間は、短い時間で入れ替わり、激しく移ろい変わっていった。感情が複雑になり、思考し、計算し計画し、企み、妬み嫉み、怨み、そして殺し合った。


 始め、人のそのような感情を、ソレは理解することができなかった。根本的にソレには、天然にはないものだったから。

 けれど、それらをじっくり観察する内、段々と分かってきた。時に人の世に入って共に暮らし、田畑を耕すのを見守り、戦争に加担したりした。

 そうしている内、ソレの中に、何とも表現のし難い何かが生じ始めていた。それは人間達の語る感情にも似た、もっと動物らしい情動でもあろうが、そもそも欲というものがなく、死に脅かされることもないソレには縁のない、熱のようなもの。

 そう、敢えて強いて、人の言葉を介して言うなら、

「美味しそう」

 ソレは舌舐めずりをした。

 人のココロの何と芳しいことか。美しく、醜悪で、真っ直ぐにも、婉曲にも、歪みきっていて、この複雑妙味は何と形容しようか。

 けれどソレは、新たなことを行うのに著しく抵抗があった。これまで長い永い間、一切の変化をしてこなかったから、今更変わることに怖れに近い感情めいたものを抱いていた。

 けれどけれど、その感情はどんどん募り募って、溜り溜まって、ソレの中に拭い去れない澱のようになって、ざわざわと内側で涌き立って、どんどんどんどん、辛抱たまらぬようになって、そして遂に、ソレは手を伸ばした。

 小さな子供だった。複雑な精神を持つ子供で、明るく快活だったが、陰では弱者を甚振り、小さな生き物を殺したりしていた。長じては、聡明して公平、誰にでも優しい一方で、世を怨み、人を呪い、妬み、心の内で常に罵声を挙げ、口汚く罵り、どうやって殺そうか考えていた。壮年に差し掛かり大きな失敗をして、何も彼もを失った。地位も名誉も、富みも、あらゆる人間関係も。

 その時の、その者の歪んだ貌。精神こころがばらばらに崩れ、二度と元に戻せないほどに歪に組み直され、その純粋な悪意、歪みきった怨嗟、嫉妬、呪い、詛い、咒い……


 その余りの香しさに、ソレはもう己を留めることができず、そして、そのココロを、幽魂を喰らった。

 その時の歓び、蕩けるような、感じたことのない愉悦、恍惚となり何もかもがどうでもよく、全てを投げ出しこの悦楽に浸っていたいとまで思った。

 ソレは思った。

「我はこのために存在したのだ。我は今まで何をしてきた。こんなにも嬉しいことが今までにあっただろうか。こんなにも愉悦に浸ったことがあったろうか。我は……」

 ソレは、変わってしまった。本質からして変わってしまった。

 ソレは天然から生まれたモノには違いないが、天然そのものとは言えなくなっていた。ソレは天然のモノであり、人のココロを喰らって天然の則を越えて、別のモノになり果てた。

 モノノケ

 あるいは、妖し

 そう呼ばれることに最早抵抗なく、寧ろそう、その呼び名で呼ばれることに歓びを感じた。

 カミより堕ちたモノノケが誕生した

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かつてカミだった幽魂を喰らうケモノ【掌編読み切り/2000字以内】 蒹垂 篤梓 @nicho

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