第36話 雪解け
上陸した海岸まで戻ってきたとき、太陽は空の高い場所にあった。カレルとオーリハを木陰に座らせたソウは一人で海を渡る準備を始めている。気温はここ数日で最も高い。春はすぐそこまで迫っていた。
カレルはソウの愛読書を手にぼんやりと海の向こうを見つめる。これからホウはどのように干渉してくるつもりなのか。完全に破壊されたレンも別個体として新しく現れる可能性がある。そう考えるとソウはこれからも危険に晒され続けるのかもしれい。
船の準備を終えたソウはそのまま周囲の警戒に当たる。まるで何か理由をつけて距離を取っているようだった。痺れを切らしたオーリハに横腹を小突かれたカレルは自分のすべきことをよく考える。
激しく動かなければ喉の傷は問題ない。再び右腕を失ってしまったが、今では片手で立ち上がることにも慣れた。砂浜を歩いて近づくと、ソウはすぐに気付いて首を傾げた。
「これ、渡しておこうと思って」
「……ありがとう」
一度手放した愛読書をソウは今一度手に取る。大切そうに表紙を手のひらで撫でると砂粒を丁寧に払っていく。カレルは複雑な心境でその様子を見つめた。視線を落としたソウはそのまま黙ってしまう。
「ソウも木陰で休んだら?出発は陽が沈んでからなんだし」
「でも」
「じゃあ少し歩いて話そうよ」
距離を作るソウだったが、カレルは少し強引に言い聞かせる。上陸時は真っ暗で気付かなかったが、林にはマツやクヌギのような風や海水に強い木々のみならず、綺麗な花を咲かせた木々も点在している。まだ花の数は少なく開花はここ数日の出来事らしい。こんなところからも春の到来を感じられた。
「水素の残量はどれくらい?」
「まだ4分の1は残ってる」
「体の具合は?」
「カレルほどじゃない」
ソウが横目でカレルの右腕を心配する。カレルは傷口を手でさすって笑った。
「痒みがあるくらいだよ」
「本当にごめんなさい」
「だから気にしなくていいって」
「私には分からないから心配なの」
ソウの身体は人間と違って強靭であり、痒みという感覚を必要としない。人間特有の感覚をカレルが上手く説明できないでいるとソウは大袈裟に捉えてしまっていた。
木陰に入ると涼しい風が林の中を吹き抜けてくる。その流れに乗って桃色の花びらが宙を踊る。カレルはその花の出所を探し、ある木の下で立ち止まった。
「僕こそまだソウに謝れてなかった」
「え?」
「ソウを傷付けようとしてしまったこと。ずっと後悔してて。本当にごめん」
あの時、カレルはホウにハッキングされていたものの、ソウに拳を振り上げた。その時に見た表情は今でもカレルの脳裏に焼き付いている。カレルが頭を下げるとソウは激しく首を横に振った。
「ホウの仕業だって分かってるから!もとはといえば私のせいでこんなボロボロに」
「ちゃんと謝りたいんだ。ずっと考えが空回りして困らせてばっかりだった」
「そんなこと」
否定するソウの両手が少し広がり、二人の距離が一歩分だけ狭まる。しかし、ソウはすぐに愛読書を抱き締めて視線を逸らしてしまった。二人の間には壁がそびえている。
最初に作ったのはカレルだった。人間とヒトの間にある違いは擦り合わせることができないと考えていたのだ。そんなことを思っていなかったソウであるが、最終的にカレルの意見に飲み込まれた経緯がある。今のソウも人間らしいという言葉では言い表せない仕草をしている。それを見たカレルは意を決した。
思いとどまったソウに代わり、カレルから一歩ずつ近づいていく。ソウは目を丸くして考えを巡らせている。何かを悟られてしまう前に、カレルの片腕はソウを抱き締めた。
「カレル!?」
「僕が間違ってた。ソウを傷付けることはとても恐ろしいことだったから」
「だから気にしないってば!」
ソウが両手でカレルを押しのけようとする。それでもカレルは離れない。
「ホウの支配から助けてくれたのもソウだった。一人涙を流して歩くソウの姿をまた思い出したんだ。もう二度とあんな思いはさせたくない」
「私は耐えられるよ!だって私は……ヒトだから!」
「僕が耐えられないんだ!」
ヒトと人間には違いがある。これから戻るナミハヤでも、その差異に基く差別はいつまでも蔓延っていく。ただ、ソウとの間でそのような理不尽はもう許せなかった。無意識に抱いていた偏見や色眼鏡は反省しなければならない。カレルの言葉を聞いて、強張っていたソウの身体から力が抜けていく。
ドサッという音がして足元を見てみると、ソウの手から愛読書が滑り落ちていた。
「私にとってカレルは一人しかいない……。だから!カレルのためだったら何度だって無茶するし、また涙だって流す!」
「ありがとう」
「だからこれからは同じ目線でいたい!同じ価値観で喧嘩したい!」
「うん、約束する」
カレルが優しく頷くとソウも両手を回す。二人の間に横たわっていた空白はそれによって圧し潰されていく。これを雪解けと捉えて良いものか。最初は不安だったカレルも、心を通わせる内に心が落ち着いていく。風が吹くとひらひらと花びらが落ちてきて、その一つがソウの手の上に乗った。
「これ何の花?」
「サクラ。知ってるでしょ?春に咲く綺麗な花だ。国ではほとんど見られなくなったけど」
それを聞いてソウが自分の服のポケットをごそごそと探る。出てきたのはナミハヤの検問所て渡されるキョウエン人を示すバッジだった。見上げた先にあるサクラの花と同じ形をしている。
「いきなり連れていかれたから返せなかったの」
「そのバッジのこと嫌ってたけど、本物はソウに似合って綺麗だ。そうだろう?」
「う、うん」
ソウが照れる。言った後でカレルも顔を熱くした。それでもソウと離れることはしない。愛読書にもサクラの花びらが落ちていた。
いつまでもこうしていたい。そう思ったカレルだったが、ふと上げた視線の先にいた人影から終わりを告げられる。腕を組んだオーリハがこちらを見ていたのだ。背中越しだったソウもその不穏な雰囲気に苦笑いを浮かべる。
「そろそろオーリハのところに戻ろう」
「そうだね」
カレルとソウは一歩ずつ離れて笑顔を見せあう。お互いまだ異なる想いを抱えている。それでも、オーリハのもとへ歩いているうちに共通の不安は綺麗さっぱりなくなっていた。
ソウの小難しい愛読書 クーゲルロール @kugelrohr
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