口縫い少女

森 瀬織

口縫い少女

 郵便ポストに手紙を出した帰り道に、何か一つぐらい私と一緒に世界が変わっていやしないかと周りを見渡す。朝のニュースではいつも通りにマスクをつけた人々がスクランブル交差点を渡ってゆくし、林さん家の壁に貼られた政党ポスターのおじさんも変わっていなければ八百屋に並ぶ野菜のラインナップでさえ変わっていなくて、自惚れるなよ、なんて言葉が頭に浮かぶ。

「あれ?」

 クリーニング屋のポスターを眺めていると、隣から耳慣れた声がして振り向いた。

「やっぱなーこだった」

 買い物袋をぶら下げて文字通りきゃははと笑ったみぃちゃんはすぐに私のマスクをつついた。

「そのポニテ、なーこかなって思ってたんだけど、マスクもいつもより小さめサイズだし、口元のとこが傷になってたから違うかなって思って。もしかして、口の縫合手術受けたんだ?」

「うん、ちょうど昨日受けたばっか。まだ抜糸もしてないんだけどね」

 気づいた。私が口裂け女じゃなくて、ヒトになったって。もう肩身の狭い思いをして生きていかなくていいんだって。気づいてもらえたことで喜びが込み上げてきて思わずにやけてしまう。

「そっかぁ、いいなぁ。妖怪コミュニティのなかでなーこが二人目か、ヒトになったの」

 みぃちゃんも嬉しそうに笑うと、マスクの端から大きな口元が飛び出す。

「うん。そういえば最近誰にも会ってないかも。公民館での集まりがなくなってからもちょくちょくやり取りは続けてたんだけど…… 」

「そうだね。でも、ヒトになったらますます会わなくなっちゃうんじゃない? もう、同じマイノリティでもないしねぇ」

 そういったみぃちゃんの言葉が一瞬、ちくりと刺さる。たしかにもともとは、妖怪であるという特性、というかヒトとは違ったから集まっていたコミュニティではあるけれど……。

 喉渇いたなぁ、と自販機で買ったコーラを頬までのびた口元を大きく開けて飲むみぃちゃんを見ていると、途端に裂けた口が恋しくなる。

「本当はさ、どうせ今はみんなマスクをしなきゃいけない状況なのにヒトになるのもったいないなって思ってたんだよね。でも、手術の予約は取っちゃってたし」

 昨日の夜、黒い糸で縫われた頬を見て押し寄せてきたどうしようもない後悔がまた、喉元まで迫る。憧れていたフツウのヒトになれた喜びと口裂け女っていうアイデンティティを失った寂しさ。朝起きたらパンデミックはおさまっていて、私がいつどこから降り掛かるかわからない偏見からマスクをつけて隠さなくてよくなると同時に世界のヒトも、見えない敵から自らを守らなくてよくなりはしないかと、ほんの少しの期待を抱いて寝た昨日の、いや幾日もの夜の眠さ。

「いいじゃん。いつか分からないけど、みんなマスクのなかを忘れた頃にマスクを外して、小さくなった口で思い切り笑えるじゃん。今までなーこは気にしてたんでしょ?」

 みぃちゃんはマスクをつけて、大きく笑う。

「うん、そうだね」

「そうそう。そういえば天邪鬼のあの子とは連絡取れたの?」

 みぃちゃんが切り出したのは、妖怪コミュニティで一緒だった、天邪鬼のあの子のことだった。突然子どもが妖怪として生まれてきても、「たまげた」の一言で済ませてしまうほどの私の母と同じぐらい大らかな天邪鬼の母、とその子。人の感情を先読みし、口真似で人をからかったり舌足らずに私や母を真似ていたあの子。私の大きな口を大好きだと言ってくれた小さなツノの生えていたあの子は、数年前にコミュニティを訪れなくなってしまってから会えていなくて、あだ名しか覚えていない。

 だって、あの子に伝えてから口縫うって言ってたから。と微笑んだみぃちゃんはそのまま後ろを向いて、またコーラを飲んだ。

『なーこの大きな口好きだから、ずっと大きな口のままでいてよ』

 口裂け女でなんかいたくないと公民館で大泣きしたときに、下唇を噛んでそういったあの子の顔は、手術を決めたときにも頭をよぎったのを今になって思い出す。それでも、ヒトになって偏見から逃れることを選んだことをあの子は責めるだろうか、それとも案外あの子もツノをとっているのだろうか。

「ほら、昔お手紙交換が流行ったときに出そうとしたお手紙あったじゃん。そこに合ってるかも分からない住所が書いてあるのはずっと持ってたから、報告のお手紙は満を辞して出してはみたよ。そんな住所とあだ名で届くかは分からないけど」

「えー、そんなの持ってたんだ。天邪鬼は生きづらいって……。でも、会えるといいよね」

 感情が読めることから親子関係がうまくいかなくなったり、友達同士で衝突が起きて天邪鬼自身が気を病んでしまったり、そういうことが度々伝えられていることをきっと、みぃちゃんは指している。

 私が自販機で飲み物を買おうとすると、みぃちゃんは「だいぶ立ち話しちゃったね」と笑って、どうせなーこも宿題終わってないでしょ、と茶化すように言った。

「みぃちゃんはいつか縫合手術受ける?」

「んー、どうだろう。まだ、口裂け女満喫できてないからなぁ」


 みぃちゃんと別れてから、また世界が変わっている兆しを探してぼんやりしながら散歩する。これからはコンビニのラックに挟まった雑誌の表紙のヒトのモデルみたいに思い切り笑えるし、しばらく経てば躊躇せずにマスクを外せるようになる。早く、パンデミックは終わってしまわないか。それとも、私が手術を受ける、手術を受けたくなるずっと前から、ヒトか妖か、みても区別ができないような、ただの顔の違いみたいな個性の範疇として誰もが受け止められる世界になっていなかったか。みんなそう言うのを区別する器官みたいなところが破損していればよかったのに。そんなパラレルワールドがあって、そこに暮らしていればよかったのに。

 そんな妄想を一通り終えてから、みぃちゃんの言葉を反芻する。

「口裂け女を満喫できてない」

 小学校の頃にネットを漁って見つけたいくつかのエピソードと口裂け女の私を思い出す。

 たとえば、私の傘は赤色でなくて黄色や透明だったし、百メートル走は六秒でなく十二秒で走った。

 そういえば、最も有名なエピソードでさえ私は実行していない。

 すれ違った人に「わたし、キレイ?」と問うあれ。

 もちろん、すれ違った人に話しかける勇気はなかったけれど、同級生とかみぃちゃんとか、聞けたはずの人はいくらでもいる。なんで聞かなかったの? そうだ。私が聞かなくてもすぐ「可愛い」のレッテルは貼ってもらえた。歳をとったたれ目の校長でさえ、可愛いがもらえるのだから、私がもらうのなんて簡単だったんだ。

 どうして、私はわたしのアイデンティティを大切にしておかなかったんだろうと今になって思いが駆け巡る。人とは違うわたしを愛したかったし、人の基準から外れたわたしを認めてあげたかった。大きな口で笑うみぃちゃんみたいに。

 世界の変化はまだ見つけられないし、もう見つけようとするのもやめた。一度出した郵便物は返してもらえるだろうか。それか、いざとなったらもう一度手紙を出してあの子に届ければいいのか。あの子に届けばまた再会できて、悩みを口真似でからかって笑い飛ばせてもらえるような気もする。天邪鬼は、無事だろうか。

 百均に向かいながら、みぃちゃんにメッセージを打って、それじゃ堪らず電話をかける。

「もしもし、みぃちゃん」

『どうしたの? さっき別れたばっかじゃん』

 そう言って、みぃちゃんは驚きつつも笑う。電話の向こう側で大きな口を開けて笑っているのだろうか。

「あのさ」

『うん。どうしたの?』

「私、キレイ?」

『それはもうヒトになったなーこのセリフじゃなくて、わたしのセリフじゃん』

 みぃちゃんは笑って、『じゃあ、わたしはキレイ?』とおちゃらけながら言う。

「みぃちゃんはきれいだよ」


 百均に入ると、ひんやり冷たいクーラーの風が身体中に染みる。

 レターセットにはさみ、手持ち鏡。かごに入れて、マスクの上から黒いプラスチックみたいな糸を撫でる。

 私は今、口縫い少女だ。きっとこのまま放っておけばただのヒトになる。かごの中身を握りしめながら、見覚えのあるレジ店員のもとに進む。



 


 

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