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電楽サロン

カンダタとクマゼミ

 アパートの階段を降りると、クマゼミが死んでいた。仰向けでピクリとも動かない。

 危なかった。踏む直前に気がついた。通り過ぎていればクマゼミが大暴れし、階段から転落死もあったかもしれない。

 私は階段の両側の手すりに体重を預け、両足を浮かす。下手くそな吊り輪の選手のポーズのまま、よちよちと手を前にずらしていく。この瞬間にも、クマゼミが騒ぎださないか心配だった。手汗がにじみ、錆びた手すりから滑りそうになる。

 いかんいかん。蝉を見るから蝉のペースに飲まれるんだ。

 私は空を見上げながら進むことにした。午前9時。寝不足の目に朝日がしみる。普段なら昼過ぎまで爆睡できる私だが、昨日は一睡もできなかった。

 網戸に大穴ができていた。鳥のせいか、先の台風のせいか分からないが、拳大の穴が空いていた。そのせいで、カーテンに手のひらサイズの蛾がとまっているのを見た時は絶句した。私は見なかったことにして、布団にくるまろうとした。だが、畳にも細かい羽虫がとまっており、私の聖域は虫の楽園と化してしまっていた。

 しかたなくトイレに逃げ込み、夜をやり過ごして今に至る。

 最悪な出来事に想いを馳せつつ、私は無事に着地した。クマゼミを振り返り、勝ち誇った笑みをくれてやる。どうだ見たか。虫なんか怖くないぞ。

 危機を脱した私は、ポケットからチラシを出す。500メートル先に新しく出来たホームセンターの道順を確認する。

 新しい網戸が必要だった。夜のリミットを迎えるまでに、あの大穴の苦悩から解放されたかった。

 しかし、網戸の張り替えは、想像するだけで面倒くさい。あのゴムを外して網をめくり、枠を拭いて……、しかもまた網を張る。自分で掘った穴を自分で埋める刑務所作業のように思えた。

 それもこれも虫のせいだと思うと腹立たしい。こうなると通行人までも恨めしく感じる。歩行器で歩くおばあさん、彼氏の腕にくっつく女の子、幸せそうな三人家族。みんなみんな網戸に穴が空いていないから、カナブンが蛍光灯にぶつかる音に怯えていない。掃除機で吸った感覚もしらない。

 不公平ではないか? なんだか自分だけが不幸のど真ん中にいるような気がしてきた。

 鬱々と坂を登ると、お目当てのホームセンターが見つかった。

【KANDAホーム】、その店は外観が灰色の塗装で統一され、天使の輪がついたクモの看板が目印になっていた。店の前にはパチンコ店よろしく花が置かれ、【鬼一同】【バシレイア人材派遣センター 様】などと書かれている。

 最近はギャグなのか分からない店名もたくさんある。特に関心を寄せずに私は入店した。

 クーラーの涼しさとともに、木材の匂いが鼻をくすぐる。私は少し眩しい蛍光灯に目を細めた。見たところ工具や作業着などはありそうだった。果たして網戸はあるだろうか。

「いらっしゃいませ」と男性の声がした。能面のような切長の目だが、柔和な表情で、見てるこちらを優しい気持ちにさせる。見たところ10代後半だろうか。灰色の制服のネームプレートには【阿萸】とあった。

「あっ、これで【あゆ】って読みます」

 よほど私はネームプレートを見ていたのだろう。彼はそう言った。

「あの、網戸ってあります?」

「はい、こちらですよ」

 阿萸さんに先導され、店内を歩く。作業着やヘルメット、電気類のコードの束が各棚にひしめく。私はホームセンターに来るたび、同じ製品っぽいのにこんなに種類いるの、と思うけれど、きっと規格や材質など私の分からない部分が異なるのだろう。

「たくさん並んでるでしょう」

 阿萸さんは出し抜けに言った。

「はあ」

「コレ全部、クモの糸で出来てるんです」

「はは」

「あっ、信じてないですね。ホントですから」

 私を見る阿萸さんは、少し頬をふくらませた。

「ホントですから。命かけます」

「……まあまあ。仮に蜘蛛の糸で出来てるって言っても工具やらは無理でしょう」

「ふふん、侮ってもらっちゃあ困ります。お釈迦様直伝の3Dプリンターはクモの糸を積み上げて成形できますからね。お茶の子さいさいです」

 阿萸さんはかなり得意げにしている。しかし、私の頭は疑問符でいっぱいだった。

「お釈迦様直伝の3Dプリンター……?」

「あっ、言ってませんでしたっけ。このお店、天国が開いてるんです」

 ますます訳が分からなくなった。私が黙っていると、阿萸さんは続ける。

「天国や地獄って、どうしても暇になる人がいるんです。針地獄のマンネリとか天国性不感症って言われるんですけど。しかも地獄では公害まで起きてて」

「公害?」

「ええ、カンダタの蜘蛛の糸ってあるでしょう。アレのお陰で、地獄ではカンダタチャレンジと称した天国までのタイムアタック競技が出来ちゃったんです」

「地獄ってタフな人が多いんだなぁ」

「暢気な話じゃないんですよ。そのせいで、切れたクモの糸が地獄中に散らばってエラいことになってるんですから」

「具体的には?」

「まず血の池地獄の排血溝が詰まって、危うく地獄が沈没しかけました。あとは糸の繊維が散らばって慢性鼻炎が蔓延ったり、怠け癖のある鬼がダブルダッチしかしなくなったり……」

「なんだかほのぼのしてるなぁ」

「流石に閻魔様もこの状況を危惧しまして。強度のあるクモの糸を再利用できないかと天国に相談しました。お釈迦様は手早いもので、すぐに製品ができました。でも、天国も地獄も製品の買い手がいませんから、間をとって今生にホームセンターを建てようとなったわけです」

「間をとって……、あ。もしかして灰色なのって」

 私は一瞬、間を置いて納得した。

「そうです。天国と地獄の間、白と黒の狭間ってわけで店のテーマカラーは灰色に決まったんです」

「なるほど。それで阿萸さんたちも全身灰色なんだ」

「出店は決まったので、後は生きがいのない地獄と天国の人たちを選び出して、働かそうとなったわけです」

「じゃあ阿萸さんも」

「まあ、そうですね」

「ちなみにどっち出身なんですか」

「地獄ですけど……、お客さん、意外とデリカシーないんですね」

 阿萸さんが意地悪そうな笑みを浮かべる。私は「すみません」と頭を下げた。

「いいんです。別に隠すことでもないし」

「いや、でも」

「大丈夫ですって。1300年も前のことですから」

 さっきからこの人は突拍子もないことをすぐ口にする。1300年と言ったら奈良時代ではないか。目の前の少年が急に大きく見えた。

「はは、大先輩ですね……」

「いやだな、畏まらないでくださいよ」

「はは……」

 なんとなく恐縮してしまい、しばらく黙って歩いた。きゅっ、きゅっ、っと床を鳴らしながら進み、網戸のコーナーが見えた。

「どうぞ。お好きなものを」

「わぁ、沢山あるんですね。どうしようかな……」

「まず横幅から決めちゃいましょう」

「たしか……、このくらい?」

 私は腕を伸ばして幅を示す。

「60センチもあれば十分ですね。縦幅は他の網戸を張り替えるときも考えて6メートルにしときましょう」

 奈良時代の人でも、今ここにいるのはホームセンターの店員さんなのだと、私は再認識させられる。

「この18とか26って数字はなんですか?」

「これは、糸の密度ですね。高いほど虫が通りにくく、視認性も良くなります」

 阿萸さんが巻いてある網を広げてくれた。なるほど。たしかに密度が高い方が向こう側が見やすい。

「30もありますよ」

「おお……。じゃあそれで。ちなみにこれもクモの糸なんです?」

「もちろん。耐久性はピカイチですので、槍で突かれても、砲撃されても破れませんよ」

「すごい」

「あとはオプションの【怨】ですが、アリにしますか? ナシにしますか? お客さんは女性ですし私の見立てだと」

「すみません、【怨】とはいったい……?」

 割り込み気味に私は訊いた。

「はは、駆け足すぎましたね。【怨】というのは糸に宿る地獄の住人の憎しみの感情です。製造段階で大抵は抜けてしまいますが、中には遺るものもあって。そういう糸は、触れるだけで怨恨が移って死ぬので防犯や防虫にうってつ──」

「ナシで」

「そうですか。ちぇ……」

 そう言って阿萸さんは口を尖らせた。あなたは一体私に何を買わせようとしてるんだ。

 口を尖らせた阿萸さんは10代相応の表情で、少しだけくすぐったい気持ちになった。

 しかし、すぐに私は思いなおす。もし死んだ時の姿のままだとしたら、阿萸さんの若さで地獄に行くとはどんなことが起こったのだろう。

 目の前の少年の見えない背景を想像した。だが、すぐにやめた。店員さんを詮索するのはそれこそ野暮ってもんだ。

「こんなもんですかね」

「大変勉強になりました」

 私は深々と頭を下げる。

 1時間と少し。網戸の張り替え方まで阿萸さんに教わり、無事に買い物が完了した。

 阿萸さんは店の前まで送ってくれた。

「また来ますね」

「ええ。今度は【怨】も考えておいてくださいね」

「ははは。じゃあまた」

 私は店を出る。自動扉が閉まっても阿萸さんはお辞儀していた。私もお辞儀し返した。

 外はジリジリと焦がすような暑さだった。これだったら、もう少しホームセンターで涼めばよかったかな、と後悔する。

 まあいいか。今度来るときはそういう理由で、阿萸さんと話そうかな。

 汗を噴き出しながら、坂を下っていく。そこで、私はアッと思い出した。

「クマゼミ……」

 両手は網のロールでふさがっていた。今このまま進めば、私に奴を避ける術はない。行きで何も起こらなかったからと言って、帰りが無事とは限らない。アパートに近づけば近づくほど私の不安は膨らんでいく。脳内では階段を一歩踏んだ瞬間に、けたたましく暴れるクマゼミの姿がリピートされる。抵抗できない私に、黒い塊が飛ぶ。鼻の頭に6本足が食いつく。死ぬ間際の最大音量で泣き叫ぶ。じゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃ……。

 ……無理だ。

 100メートルほど歩いたところで私は踵をかえした。来た道をえっさほいさと戻り、自動扉をくぐる。

「いらっしゃいま……あれ?」

「すみません。殺虫剤って置いてますか?」

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