第3話 後継後編
「ねぇ、おにーさん」
俺に縁日の主にならないかと持ちかけた少女は狐面越しに、問いかける。相変わらず顔と顔との距離が近すぎる。それはもう、喉笛を食いちぎらんばかりに。
「知らないことは幸せだよ。無知の知なんていうけど、無知は無知で満足なんだよ。自分が無知であることを知らない方が、幸せだ。自分から見たら幸せなんだよ。他人から見てそれが滑稽でも」
ふわりと、風が彼女の金髪を持ち上げた。
「だから、おにーさんは、どうか知らないままでいてね。なにもしらないまま。何も知らない、
訳知り顔で俺を見ているんだろう。
「……何も知らないまま、って、それでいいのか?」
「勿論。疑問も持たなくていい。前に進む必要なんてないんだよ。私たちは。前に進んでいるようで、どこにも行けやしない。どこにも辿りつけない。わたしはそうだし、それはきっとおにーさんだってカオルくんだって、前の主様だって同じ」
唯一違うのは、と
「カンダタだけ」
と、告げた。
「彼は前に進むんだろうねぇ。知ってしまったからだよ。彼は、自分が何なのかを、知ってしまったんだよねぇ、可哀想に」
「わからねぇな。自分が何かを知ってしまったから、前に進むってのは道理に合ってる気がするし、そう悪いことでもねーだろ? 前に進むってことは」
「それじゃあ聞くけど、おにーさんは、何?」
「誰、じゃなくて、何か。そう聞かれると、くくりが広すぎてわからねえよ。人間、とか、手河理該、ってのは答えにならねえんだろ?」
「そう。それは『自分が何か』っていう答えじゃない。物の名前を聞いてるんじゃないからねぇ。肉塊って答えても、うん――ハズレ、かな」
一呼吸置いて、
「そんな訳のわからない問いかけに、辿りついてしまったんだよ。行きつく先を見つけてしまったから、そこに行くしかできなくなってしまたってこと。前に進む以外にも、横にも斜めにも後ろにも、いけるのに。前にしか進めない。前に進んだ先に、道が開けているとは、限らない。行きどまりだってあるだろうし、沼が広がっていても何らおかしくはない。前に行くのはポーンだけでいいんだよ。チェスのポーンがなぜ雑魚かっていうと、私はあれが前にしか進めないからだと思うね。ほかの駒は後ろにも進めるし、なかには先にそこにいたものを蹴散らして飛び越えれるものだっているしね」
また一呼吸。
「それでも恐ろしいのは、あれが雑魚のくせに恐ろしいのは、相手の陣地の奥まで行きつくと、何にだってなれるところにあるねぇ」
雑魚のくせに、と毒づいた。
「大抵はクイーンになるんだよ。キング――王なんかよりも、よっぽど駆動力がある、クイーンに」
怖いよねぇ、と。
「本当に皮肉なもんだよ。可哀想に。何がって? そのポーンを所有していたはずの王だよ。騎手はそこまで気にして指さない? 駒の気持ちなんて知らない? そんなさびしいこと言わないでよ。泣けちゃうなぁ。それは別にいいんだけど、そう、ポーンだねポーン。そんなクイーンも化けの皮を剥いでしまえば、ただのポーンだよ。前にしか進めないはずの雑魚が、最強になっちゃうなんて、ねぇ」
「それとカンダタに何の関係が?」
「んん、ちょっと煙に巻きすぎちゃったかな? まあ、あとはおにーさん次第かなぁ」
くすり、とお面の向こうから笑いが漏れた。俺が知らないことを知っている、彼女には、俺がただの滑稽な奴にしか見えないんだろうけど。それでも幸せだと豪語した。
「お面は売ってあげないよ。どうあってもね、理由が何であろうとね。おにーさんには、絶対に。確かに、今のおにーさんには必要だけどさー。いや、売ってあげないんじゃない、売れないんだよねぇ。残念だけど。だから、自力で乗り切ってみせなよ」
すっと俺から離れて、丁子は座っていた粗末な台から降りた。下駄ばきだからか、目線はほとんど俺と同じ高さになる。
「じゃ、わたし行くね」
唐突に、そんな言葉を添えて。
「っ、ちょと待て、お前ここの店番なんだろ? 勝手に離れていいのかよ?」
「別にいいの」
含みのある物言い。
丁子は、細い指を、つい、と自分の狐面に這わせ――半分だけ、顔をのぞかせた。
隈どりされた、大きな薄紅色の瞳と眼が合う。眼が。不思議と、そこから逸らすことを許してはくれない眼力だった。
「もうすぐ――きっと、帰ってきてくれる」
薄い唇から、吐息を。
「きっと、彼が」
まるで百年越しの出会いを待ち焦がれるかのように、今にも、泣きそうな顔で。
「だから、いいの」
涙をたたえたまま、じっと、俺をみつめるんだ。その目で、俺の目を、いや、もっとずっと奥深くを、見つめるように。
「あなたの足が、沈まないように」
「気をつけなさい、か?」
「……先に言わないでよ。でも本当――そういうところが、手河理該らしい、かな。まったくおにーさん、どうしようもなく、手河理該だね」
先ほどとは違う、何かを、懐かしむような調子。
「何もかもかぶっちゃうのは面白くないから、じゃあ、わたしからは二つ」
「結局三つじゃねえかよ」
「ランプの魔人にするお願いは三つが相場じゃないの?」
「お願いなのか?」
「おにーさんには、ん、ちょっと違うかもね」
くすり、と、やっと丁子は笑った。
「一つ目、多分カオルくんあたりは首に気をつけろって言ってると思うけど、あんなの抽象すぎるから、わたしからつけたし。首をとられないように、気をつけなさい」
取る? 盗る? 撮る? 採る?
どれだ。いやどれも物騒なことに違いはないが――――。
「でもっておにーさん、」
ここで丁子は言葉を切って、耳元で、そっと、囁いた。
「またあおう」
そして、こめかみに、優しく触れた。
「もう、無茶したら、いけないから。少し、休んで行ってね」
目を細めて、笑う丁子。ああ、この子はこういう表情の方が、やっぱりよく似合うな、と思った。何となく。
その、何となくに、引きずられるように。
「ありがとう。――やくそく、守るから。……ちーちゃん」
どうしてこんなことを、言ってしまったのか。
ちーちゃん。
確かに、丁子は俺に、自分をそう呼べとはいったけど。そんなつもりはなかったのに。
だけど、ちょっと目を丸くして、それから嬉しそうに――心底嬉しそうにはにかんだ丁子を見たら、それ以上何も言えなくて。
「またね、りがい」
お面を直して、踵を返して去っていく丁子の背中を、初めてみたような気がしないのは、なぜだろう。わからない。
妙に懐かしい。デジャヴじゃないにしろ、どこか、懐かしくて仕方がない。あんなふうに紙ふぶきの向こうへ、消えていく姿が。
とんとん――と、こめかみを叩こうとして、ずぶり、と指に感触があった。
ひやりとして纏わりついてくるような――、いやな予感が頭をよぎった。あわてて指を引っ込め、背筋が粟立つ。指が――指が、半透明のゲル状のものにまみれていた。血でもない、脳漿でもない――そういう有機的なものではなく、もっと違うもの――たとえるなら、どろどろにした葛湯を押し込んだような。でも一体何が?
まさかあの流れで丁子が何かしたとは考えたくないが(いくらなんでも外道過ぎる)、一体何が――噴出しているのか。次第にこめかみが熱を持ち、やがて、ずきり、と痛みだした。十指をつきたてられているかのように、ずきずきと。丁子と別れたからではなく、ずっと気付かなかった痛みが今になってそれに気づいたかのような、そういう感覚。
「――ぁ、う」
立っていられないほどの痛み。膝からがくり、と力が抜け、その場にうずくまった。通る人が鬱陶しそうにこちらを見ているが、それどころじゃない。そんなのどうでもいい。むしろ、だれか救急車呼んでくれよ。
痛みは酷くなるばかりで。
それなら、ここから先見たものはきっと、幻なんだろう。と、思いたい。
だんだん、感覚が麻痺してきた。これもう、このまま死んでも何の不思議もない。それはちょっと、嫌かもしれないな。丁子が戻ってきたら、ださいって、笑われそうだ。
ぼんやりと、そんなことを考えていた。
ムー、どうしてるかな。
やっぱり、素直に探しときゃ、よかったかなぁ……。覆水盆に帰らず。こめかみから零れたものも、同じようにぼたぼたぼた、ばたばたばた、表面張力を伴った緩い山になって――、ああほら、虫が集まってきた。よくみると、意外とかわいらしい虫だな――、って、こんなこと考えてるなんて、本当末期だな、俺。
自嘲気味に鼻を鳴らすと、
「やはり、手河理該、だな」
声が降ってきた、上の――竿にかかっている、お面の一つから。
群青色の、面。目や鼻や口となる穴はない。ムーのお面に似ているな、と思った。
「……ああ。俺は、手河理該、だよ」
分かりきっていることを口にした。もう、まともにかんがえるのも、しょうじきしんどいんだ。つらい。
しかし、
「ふん、それはどうかな?」
群青面は。語る。
「お前は手河理該かな?」
「何を……」
「可哀想にな、額が――割れてる。まったく、店主が知ったら、泣くぞ」
仕方なさそうに群青面は嘆息すると、竿から離れ、しゅるり、とほどけた。青い糸状になり――波を作るように、一反の着物になる。その着物の裾から、枯枝のような手足が伸びると、軽々と俺を担ぎ、露店の奥へと運んだ。台の上へ、そっとおろされる。
埃っぽい匂いと、木と、土の香りがした。
あたたかい……。少し、頭痛が緩んだ気がする。
小波のような声で、面は言った。
「少し、休むといい。丁子の言うとおりにしておけ」
ああ、あいつ、おれにきをつかってくれたんだな。
ぼうっと、木が組まれた屋根を見つめる。徐々にぼやけていく。
「お休み――、コギト」
その言葉に誘われるように、眠気が並みのように押し寄せた。不安はなく、安心感を、しっかり握り締めているような。
でも、それじゃあ、だめなんだ、と、頭の片隅が、喚く。
コギト?
耳慣れない単語。
だけど、眠気はそっと俺の目を閉じさせた。
開きかけた棺桶の蓋を閉じるように。
◇◇◇
何をやっても上手くいかなかった。
誰の真似をしても、上手くいかなかった。
あの子のように、あの子の真似をして、それでなんで出来ないの?
物分りの悪さには、多分自信があったが、そんなのは自慢にならない。あの頃の俺は、とてもちっぽけで――まあ、自分の矮小さなんて、そんなに変わらないが――俺は今でもつまらない人間だが、それでも、一つだけ、上手く良く方法があった。
誰にもいえない、俺だけの秘密。
「また来たのか、おまえ」
「うん」
「来るなって言ったろう」
「でもでも、こうでもしなきゃ、俺、多分もうだめなんだよ」
「小学生が言う台詞か」
俺の友達。俺の友達は王様らしい。
いつも真っ白い着物の、祭りの王様。
「あまりここに来るのは、どうかと思うんだけどなぁ」
「どうやってここに来てるのか、わからないんだ。どうやって帰るのかも、わかならいんだ」
「……はぁ。わかったよ、見送ってやるから」
「遊んで帰っちゃ、だめ?」
駄目だって言いかけて、いつも俺の顔を見て、俺の友達は、いつも。
少し、寂しそうな顔をするんだ。
何をやっても上手くいかなかった。
でも、ここにいる間は、そんなルールに縛られる必要はなかった。
ただ、ここを出てしまえば、俺はただのつまらない手河理該に戻ってしまう。
何も出来ない手河理該に戻ってしまう。
それは、酷く恐ろしいことだった。
誰かと話すことも、そこに立っているだけでも――呼吸をすることすら。恐ろしい。
俺にとって日常生活は鎧のないままに戦場に立つに等しい行為だった。つまり、鬱屈として絶望感しかないってことだ。
せめて鎧が欲しくって、
誰かと話せるフリをした。
そこにいられるフリをした。
呼吸が出来るフリをした。
そのうち、それが増えてって、
明るく真面目なフリをした。
ちょっとグレてるフリをした。
優しく等しいフリをした。
日常的に、自分の首を飾った。
前よりほんの少し、生きやすくはなったけど、
「理該、理該。今日のお前も、わけがわからないね」
俺の友達は、そのたび、悲しそうな顔した。
「今日の理該が本当の理該? それとも、昨日見た理該は、理該だったの?」
どうだろう。
俺にはわからない。
「ねえ理該。たまにはわたしにも何かうってよ」
やってきたのは蝶みたいな少女。
名前もそうだけど、性格だって態度だって、本当に蝶みたいな金髪少女。
「お前に売ってやる面なんかねーよ」
「あ、今日の理該はグレ理該? それともツンデレ理該?」
「うるせーな。欲しかったら十万払え、そうじゃなかったらあっちいってろ」
はいはーい、とそんな俺の態度にも慣れてくれているのは本当ありがたい。
「今うってるのは?」
「多分、傑作」
ふうん、と。じっと俺の手元を眺めている。
「どんな理該?」
「俺の理想。まるで物語の主人公みたいな俺だよ」
「え、きも」
「こら引くな。外面ちょっとぶっきらぼうでも根っこは優しいおにーさん。ネガティブっぽくても、絶対挫折からは回復するし、なにせ――自分で意思を持ってるんだ」
「意思ねぇ」
「我思う故に我あり、ってな」
この頃の俺はもう本当に駄目だった。
ずたずただ。俺も俺の人生も。
だってほら、こうして何かで補わないと、俺は自分の意思すらもてない。
我思う故に我あり。
じゃあ、何も考えられない俺は、どこにもいないの?
いや。『今の俺』はそんなことを考えたりしない。今の手河理該っていう、パーソナリティーでは。
ほらちょっとしたことで、脚を引きずり込まれそうになる。あの虫どもが、俺がいつゴミ屑になるのかと、物陰からこそこそ湧いて来るんだ。
「まあ、これが終ったら、な」
脚にまとわりついてくる感覚を振り払うように、その子に言った。
「何が?」
「なんか作ってやるよ。もうすぐカオルと一緒に縁日デビューだろ」
少女は薄紅色の目を丸くした。そして、じっと俺を見つめる。
あれ、俺何かマズいこと言ったっけ?
どうしよう、とうろたえかけると、
「理該大好きっ」
抱きついてきた。
………………。
しばらくそのまま沈黙。
え、どうしよう。瞳が濡れてるよどうしよう。
オーバーヒートしそうな俺をよそに、少女は言う。
「わかってる、分かってるよ。今日の理該はツンデレ理該だったんだね」
……。
「気が変わったもうちーちゃんには何も作ってやらねえ」
嘘だよー、と笑う少女。
懐かれるのは嫌いじゃないけど、
ちょっと困る。
なぁ。なぁ。どうして、お前はいつも悲しそうな顔をするんだ。
そう訊いたら、
「見ていられないんだ。お前はいつも、どうしてそんなに今にも死にそうな顔をしてるんだって、こっちが訊きたいくらい」
彼は、涙を流しそうだった。
こういうのはよくない。
死んだりなんかしないよ、と俺は笑った。
いつ死んでも構わないけど、死にたいとは思わないよ、と笑った。
「そう、だといいけど」
ああ本当、俺は友達にだって、笑って嘘を吐く。
よくわかってるよ。
俺には何もない。
要するに、お前はそう言いたいんだろう?
■■。
「どうやら、俺はもう本格的に駄目みたいだ」
「中三になっても、小学生といってることが変わらないっていう」
「年取っただけで、成長してない証拠だろうな、きっと」
「違いないね」
俺の友達はそう笑った。
「理該。理該。
なぁ――たまには、その面をとって、お前自身と、話がしたいんだ」
空気が氷る。
「なんのフリもしてないお前と、話がしたいんだ」
それは無理だよ、と俺は笑った。
これがなければ、俺は意思を持つことすら叶わない。
多分、昔みたいにお前と話すことも。
だから言ったろう。
俺はもう、本格的に駄目みたいだ、って。
とある雨の日だったと思う。
電車から降りると、俺の友達がいた。
ずぶ濡れで、いつもの服も泥まみれ。
■■?
呼んでも、返事がないんだ。
■■?
どうしてお前が、今にも死にそうな顔をしてるんだよ。
ごめんな、と俺の友達は呟いた。
「もう、お前とは遊べない」
雨の音が響く。
高架下に響く。
周りから切り離されたかのように。
雨が。雨の音が。
「ごめん、理該」
俺の友達は、王様じゃなくなった。
そんなことは構わなかった。
背負って歩く雨の道。傘もなくて、俺も、そいつも、ずぶ濡れ。
とりあえず、送ってやることにした。
「それでも帰るんだろう? お前は」
「当たり前だ。あんなのに任せられない」
そう、と呟いた。
俺の友達は強かったんだと思う。彼は決して何にも甘えなかったし、自分にも妥協を許さなかったし、いつも等しかった。
でも、だからこそ。
彼がそんな性格だから、俺はもうこいつには会えないだろうな、と思った。
彼には外傷なんて一つもなかったけど、全身が真っ赤に染まって見えたんだ。
「こんなとこからこっちへ来てたのか」
あきれ返るように言う俺の友達は、それでも俺を責めたりしなかった。
来る方法がわからない、そうやって嘘を吐き続けた俺を。
「しばらくこっちへこない方がいい」
「どうして?」
その問いには、答えてくれなかったけど。
最後に彼は言った。
「幸せになれよ、理該」
誰の幸・不幸も願ったことがないはずの俺の、友達は。
その日以降、行方が分からない。
何をやっても上手くいかなかった。
結局、大事な友達も。どうなったのか、わからない。妙なところで彼のいいつけを、俺はずっと守っていた。
そして、
その日がやってくる。
こんこん、とこめかみを叩いた。
高校生になっても、やっぱり俺は駄目だった。
という言葉を呑み込むことにする。
今の俺はそういう言葉は使わない。
「手河くん、ちょっと頼まれてくれない?」
はいはい。
「おーい、手河っ」
何だどうした、また面倒ごと? いいっていいって、俺やっとくし。
……はぁ。
なんでこうなったんだか。
「りがいっ」
うん、俺は君のことが大好きだ。愛しているなんて口が裂けても恥ずかしくていえないが、月がきれいですねなんて柄でもないが、それでも好きだ。
多分。
ずっと前に随分と俺に懐いてくれていたあの子のことを思い出すけど、だって会えないんだからしょうがない。
まぁいいよ別に。
俺自身はこの子の名前すら知らないんだから。
俺は俺を陥れている。自分という泥に陥れている。
こんな矛盾を抱えたままで、日常生活にボロが出ないほうがどうかしていた。きっとどうかしていた。いつか回ってくるはずの付けは、すぐそこにあったんだ。
俺は、俺自身の首を落としたくて仕方がなかったけど、その理由も機会もとっくに逃してしまって、だから。
「ばいばい理該」
ホームで、そんな風に声をかけられた。
次の瞬間。
身体が、宙に。
脚が地面から離れて。
まるで時間が切り取られたような。
それでも耳にはしっかり、がたんごとんと。
轟音が。
背中に残った手の感覚。
落下のほんのひと時に見たその顔に、ああ、と納得した。
ほら、やっぱり、何をやっても上手くいかない。
◆◆◆
きっとこれは夢なんだろう、と思った。
悪い夢だ。
終ったことは、つまり過去は、俺にとっては悪い夢だった。
後からどうすることも出来ないのなら、それはもう次元が違うことだ。さっさとそんなものは地面に埋めてしまった方がいい。
だけど、唯一つ気をつけなくてはいけないのは、そうやって埋めたものが、ふとした瞬間にゾンビのように起き上がってくることだ。
悪い夢、というのは訂正した方がいいのかもしれない。過去は、ゾンビのようなものなのかもしれない。
振り切らなければ自分が引き摺り込まれてしまう。
だから、目が覚めた俺は最悪の気分だった。
ゾンビの群れにでも囲まれているかのような気分――最悪といわずになんと形容しようか。
徐々に感覚がはっきりしてくる。
全く、俺がどうやって生き延びたのかは分からないが。
曖昧になっていたものが、くっきりとした形を持った。その事実だけが、まだ頭の隅にある。
土と木と、埃の匂いと。
「あぁ――よかった、手河さん。目が覚めたんですね」
隣にいた、白い着物に肌色一色のお面の子ども。身長には少し高めの台の横にちょこんと立っていて、首から上しか見えなかったが、紛れもなく、
「ムー……」
そう、紛れもなく。
「いや、前の、主、か」
縁日の前の主。つまり、
俺の、友達。
「手河、さん……?」
ちょっと驚いた様子で、ムーは俺を訝しげに見た。ああいう首の使い方とか、本当――、何一つ、変わっていない。
長く息を吐いた。埃っぽい空気を肺一杯に吸い込んで、吐き出す。ぐちゃぐちゃになった頭の中を、少しでもすっきりさせたかった。
「ムー、無事か?」
それは、いつからのぶんの質問だったんだろう。さっき分かれたときから? ……それとも、あの雨の日にお前を見送った時から?
分からなかった。
「ええ。……ぼくは無事です。ありがとうございました、守ってくれて」
ムーは礼をした。一瞬、台から見えなくなる。
「それより、手河さんこそ」
心配してくれている、声音だった。
「うん――俺は、もう、大丈夫」
思ったより、冷静だ。
「もっと、とりみだすところなんだろうけどな、フツーは……」
吐き出した声は、意外と枯れていた。
「なにか、あったんですか?」
いや、と首を振ろうとして、何もなかったフリをするのもどうなんだろう、と首を傾げた。
その態度で十分だったのかもしれない。
「なにがあったんですか」
確実に、何かあったことを悟られてしまったようだ。うん、と俺はもう一度頷いた。
ムーの声に聞き覚えがあるわけだ。どれだけたくさんの声をこいつが持っていたところで、その中で聞いたことがあるのが幾つかあって当然だったし、こいつがある種の現象のようなものであることを、俺は知っていたはずだった。ずっと前から。
土と木と、埃の匂い。
木が組まれた屋根。――あの辺の梁は、薫陸――カオルに手伝ってもらったんだっけか。
「そりゃあ……、だれも、俺に面を売ってくれるはずがないわけだ」
パンがないならパンを作れば良いじゃない、って訳じゃないが。
自分で作っているものを、他所で欲しいとは言わないだろう?
「ここは、俺の店なんだ」
何となく、呟いた。
「手河、さん」
はっとしたようなムーの声。何かを理解し、そして、少し、戸惑っているようだった。
俺は身体を起こして、ムーに向き直る。
こいつの名前も、俺は知っていた。横文字じゃない。
息を吐いて、俺は少し申し訳なく思って、彼の名前をちゃんと口にした。
「
◆◆◆
取り敢えず、無有と離れてこのお面屋――いや、もうそこまで硬い言葉を使う必要もないか、俺の店に戻ってきた経緯をかいつまんで話した。どうにも無有はまだ驚いているようで、イマイチ返答もおぼつかない。だけどまあ、無理もないだろう。むしろ冷静でいる俺のほうがおかしいくらいのはずだ。丁子や群青面のことは、改めて認識してからは説明するのもなんだか小恥ずかしいが、それでも一応、細部まで詳細に説明した。これは、自分の置かれた状況をもう一回整理するのにも、役に立ったし。
「大方、
話をそう締めくくると、無有は、ふぅ、と短く嘆息し、苦いものでも吐き出すように、
「そうですかねぇ」
ともらした。
「釈然としねえ、って感じだな」
「そりゃあ……そうですよ」
「でも、お前が前の主、ね」
「釈然としないって感じですね」
「いや? そうでもねーよ。俺にとっては前から知ってた事実だし、まあ祭りの主は子どもがやるくらいが丁度良いんじゃね?」
「そんなこと思ってたんですか」
少しは、と俺は笑った。冗談のつもりなのに、無有は笑わなかった。何かを見極めるかのように、じっと黙り込んでしまう。
「無有?」
「あぁ、はい。どうしました?」
どうしました? って。どうにも心ここにあらず、って感じだ。なんだろう、友人同士の再会ってもっと感動的なものなんじゃなかったっけ? 少なくとも俺が小学校のときから詰め込まされた道徳教育ってものでは、そういう雰囲気だと教わったが。まあ、あれはほとんど現実から乖離してるから、現実はそこまで美談で収まりはしないものなんだろうけど。
「喋り方、変わったな」
「え、ああはい。心境の変化、ってほどでもないんですけど。まあ、次のためにもうちょっと謙虚になろうと思ったに過ぎませんよ」
やはり自分が縁日の主に戻ることを諦めてはいないようだ。
「それより、手河、さんこそ」
「うん?」
「いえ、何でもないです」
どうにも歯切れが悪い。俺そんなにおかしいこと言った?
「前みたいに下の名前で呼んでくれたほうが、ありがたいんだけどな」
「ぼくも、そうしたいのは山々なんですけど、なんかこう、違うん、ですよね」
首をかしげて、そのあと無有はくいっとおとがいをあげた。目が合ったような気がする。そのまま俺をじっとみて、
「―――――――――――、」
何かを呟いたが良く聞き取れなかった。
「過ぎた年月のことを気にすることはねぇよ。気楽にやろうぜ。俺だってあんまり現実感ねぇけど、お前がそんな調子なら、」
思い出さないほうが、良かったって。
そう思ってしまうから。
何も知らない手河理該でいてね、って、そういう意味だったのか?
でも、何も変わっちゃいない。事故ってその後のことは知らなくても、それより前のことが分かってればなんとでもなる。自分の名前を忘れていたわけじゃない。だからほら、俺は、さっきと今とで、何も変わっちゃいないだろう?
そういってしまえたら良いんだが。無有はすっかり俯いて黙りこくってしまった。
こういう時にどうすれば良いのかは、やっぱり苦手だ。上手い切り抜け方がわからねえや。本当、俺はやっぱり駄目駄目なんだよな、とこめかみを叩く。
こんこん、と音がした。
ああひょっとして、定期券のことを気にしているのかもしれない。
「無有、定期のことなら、別に気にしなくてもいいんだけどな。お前もお前で事情があったんだろうし――俺が思い出すように気を使ってくれたんだろう? ありがとな」
あれ。と、自分の発言の矛盾に気付く。それじゃあ、あの射的は? 何か、忘れたいことを、忘れるために、あの射的があるなら。そして、無有がそこへ俺を連れて行った真意って何。
「お礼を言われるようなことは、何もしていませんよ。りがい」
おもむろに無有が顔を上げた。
「友達、なんですから」
「無有……」
「さあ、それじゃあ、行きますか。盆踊り、は――もういいんですけど。りがい、家に帰りたいでしょう? そろそろ」
どこか気ぜわしく辺りを見回す無有。何か、もしくは誰かを探している、のか?
「ん? ああ、最初の目的は、そうだったんだけど、まぁ、もうちょい居たって……」
「馬鹿言わないでください!」
言葉が、遮られた。いや、むしろ、今、無有が、怒鳴った。突然。息を切らして、次の言葉を何かつむごうとして、怒りで、それが出てこない、という感じだ。
「……無有?」
恐る恐る訊く。
「勝手なことはしないで頂きたい! 状況がわかってないのに、いっつも、そうやってあなたは、」
そこまで、勢いでまくし立て、息切れ状態で、それこそ肩で息して、少し、頭を冷やしたのか、はっと肩をあげた。沈黙。
ややあって、
「……すみません。熱くなりました」
小さく、一礼する。
「いや、かまわねぇけど。状況? 何か、マズいことでもあんのか?」
頭を冷やした無有は、間髪いれずに、かぶりを振った。
「何も。気にしないでください。でも、……お願いですから、今日は、もうこれで帰っていただきたいんです」
改まって言うことでも、ないだろうに。
「できれば、理由は訊かずに」
「俺がいない間に……何か、状況が変わったってのか? 俺が、はっきりといろいろ思い出すまで? それとも、ここ数分の内に?」
「それも、お話しすることは、できません。本当に、何も訊かないで、帰ってもらいたいんです」
帰ってもらいたい、ね。よっぽどそっちのが釈然としないが。折角、まともに再会できたと思ったのに。ゆっくり話せないまま、お別れとは。
「無有、またこれるんだろ?」
そう、まだ次の機会がある。そうだろう? これが一生の別れのわけでもあるまいし。
軽い気持ちで、そんなことを考えるべきじゃなかった。……そう後悔することも、きっと、ないはずだ。
でも、無有は。
「……また、これますよ」
口ではそういっても。どこか、そう思っていなさそうで。
さっきの怒鳴り声とは一変した潤んだ声で、そんな自分に気付いて、
「すみません。本当に、ごめんなさい」
ムーは、また一礼する。
「こんなことをしている場合じゃないってのも、分かっているんですけど、あなたに対して、とても失礼なことをぼくは言ってるんじゃないかって。ぼくは、取り乱してばかりだ」
こんな調子で主に戻れるかどうか、と苦笑する。
「手河さん」
りがい、とは言わずに、手河さん、と俺を呼んだ。
「せめて、駅まで送らせてください」
◆◆◆
結果的に、盆踊りはしないことになったが、目的地は盆踊りの広場になった。そこにホームが来るらしい。
「電車が来るんじゃなくて、ホームが来るのか」
「その辺のことは」
「あぁ、まだ曖昧でな。ふぅん、初めて訊いた、ってわけじゃあ、ないんだろうけど」
ひょっとして初耳か? と、考えなくはなかった。
「ホームが来ても、電車が来るタイミングが合わなかったら、待ちぼうけですけどね」
今後のことは、出来るだけ、話さないようにした。このあとまたいつ俺がここへこれるかは、本当にホームで無有と別れるときにでも訊けばいい。不用意に無有を怒らせたくはなかった。何であの時怒ったのかはよく分からなかったし正直理不尽だとも思うけど、何も、こんなときに、別れ際に、相手を怒らせる趣味がある奴はそうそういないだろうし、俺はそのタイプの人種にカテゴライズされるつもりもない。できるだけ、別れは爽やかで、少し名残があるくらいが丁度良いだろう。
祭囃子が、かなり近くなった。だんじりが動くのは、意外と速い。あ、いや、前にその音を意識してからしばらくは店で寝込んでいたから、速さはそれなりか。
盆踊りの広場は、提灯がいっぱい下がっていた。真っ赤な提灯。ここに来るまではあたりは昼だったが、ここだけは切り取られたかのように夜の風景が広がっており、空には天の川をぎゅっと凝縮したような空が広がっていた。きらきら、きらきら。涙のような、空が。濃紺よりももっとずっと深い色に散りばめられた、涙の白。星明りを上塗りするように、提灯でその辺りは真っ赤に彩られていた。悲しみを塗り重ねるような、薄桃色の。盆踊り、といっても曲も何もかかっていない。踊っている人も、誰もいない。ただ、人気だけが多い。誰も彼もお面を被っているが、どこか皆、しみったれた感じがした。その人混みの向こうに、すっと一筋、夜空に向かって、地面に対して垂直にレールが延びていた。クレーンのように見えていたものは、どうやらこれらしい。近くに来るまで全く分からなかったが、電車が通る、本物のレールだ。がたんがたん、と音がして、地面の方から車体が露になる。硝子球を八つ繋いだような形の列車。それぞれの球には透き通った緑色のゲル状の物体と、それを緩衝剤に包み込まれた人たちがみっちりと詰っていた。がたんごとん。レールの音を、響かせながら、涙の空へ。
「別れの名所、とでも、いうんですかね」
「涙の池?」
「ええきっと」
アリスかよ、ともらした。
「それなら、さしずめ理該は帽子屋でしょうか」
「お面屋ならぬ、帽子屋、な」
それじゃあお前は何なんだよ、と笑う。
「白兎、ですかね」
「ハートの女王、じゃねえの?」
「ぼくに人の首を刎ねる趣味はありませんよ」
心外です、とむくれる無有。
「そんなにこの市はお洒落じゃありませんし。理該はどうせ、笠地蔵の笠売り爺さんでしょう」
「そっちのがここらしいな。けど、なんだろう、このがっかり感」
「それくらいが丁度いいんですよ」
ふふ、と、ようやっと無有は笑った。
こうしていると、懐かしさが、こみ上げてくる。感無量、というか、――むしろ、……あれ? こうやって、話すことを、俺はずっと望んでいた。いや、でもそれは無有じゃなくても良かった。ただ、そう、自分の、自分のための意思で―――。
ずっと、前から。
そんなはずはない、と首を振った。
しばらく、無有とは、取り留めのないことを話した。勿論、お互いの身の上なんかは話さない。ただ、何の価値にもならず、後になれば思い出すことも難しいような、ごく、日常的なことを。
別れの名所、だなんて。一体誰が言ったのか。
きっと、周りの連中も、同じ。
本当は、寂しいから。紛らわせようと。踊るんじゃなくて、こうして、ひたすら。一時の別れだろうと、一生の別れでも、変わらない。
別れは、寂しい。当たり前だけど。いや、いっそ清々しい時も合ったりするか。少なくとも、ここにいる人たちは後者ではない、と思う。
別れは、惜しむもの。
今の俺が、無意識の内に悲しいフリを、していなければ、いいのだけど。
「さて、それじゃあ、りがい」
改まって、無有は、
「そろそろ、お別れの時間です」
向こうからやってくる、だんじりを指した。まだ少し距離があるが、十分にここから見て取れる。あれは確かに、だんじりだ。
「え?」
「駅の、ホームですよ」
「あれが?」
「あの中に。ホームが来る、というのは、そういうことですよ」
どこでもドアのようなものだと思ってください。と無有はつけたし、おもむろに懐に手を入れた。そして、
「お返しします」
パスケースを、渡そうとして、
多分。
やっと、ここまで来て。別れを、おそらく意識して。だんじり、ホーム、これで、無事に、俺を送れた、と。
初めて無有は、油断したんだろう。
「どうも、ありがとな」
ひょい、と無有の手から、パスケースを取った。
……ただしそれは俺じゃない。
いつのまにか、それは。当たり前のように、ごく自然とそこにいた。
「お久しぶり、でもって、はじめまして」
本当に、空気に混ざっているかのように。そこにいなかったことに違和感さえ湧きそうだが、さっきまでこんな男はいなかった。
「縁日の現行の主こと、カンダタだ」
◆◆◆
「よぉ、お二人さん。別れの挨拶は済んだ、って感じだな」
まるで十年来の友達であるかのような口ぶりで、その男――カンダタは、面もつけていない顔に薄っすらと笑みさえ浮かべていた。だけど、その表情は酷く擦り切れ、掠れ、干からび、ダンプに
どこかでみたような、いや、どこにでもいるかのような雰囲気を漂わせながら、きっとこういったニンゲンはどこにもいないに違いない。
ありふれた髪型に、ありふれたブレザー姿が、かえって胡散臭い。ブレザーの上から袖も通さずに真っ白な着物を一重、羽織っている。真っ白な、着物。ひょっとすると、あれが縁日の主であることの証のようなものかもしれない。王冠みたいに。
無有も俺も、突然現れたカンダタに一瞬驚きはしたものの、無有のほうがやはり、反応が早かった。
すぐさまカンダタに向き直る。そして、懐から小さな黒い塊を取り出し、構えた。黒い塊、ともったいぶる必要もないだろう。それは、射的のときの回転式自動拳銃だった。……いや、好きにしていいって、俺も言ったけど。何のためらいもなく、カンダタに向けるのは異様にも見えた。
「何しに来たんですか?」
とげとげしい調子。引き金に指をかけることはしなくても、もう安全装置は外している。
「いや? 何もするつもりはなかったんだけど、ちょっと、気が変わって何となく」
へらっと笑って、カンダタは言う。目が全く笑っていない。見事に、口角だけがきゅっと上がっている。
「何となく、だよ。気を悪くしないでくれ。あんたがおれのことを嫌ってるのは分かってるし、心配しなくとも、おれはあんたが大っ嫌いだ。だから、こうして今もお互いの脚を引っ張り合ってるわけだ」
「……………………」
「黙り込まないでくれよ。ほら、隣の巻き込まれたお兄さんがどうしたら良いか困った顔をしてるようだけど?」
ひらひら奪ったパスケースを振って、カンダタは俺を見る。値踏みをするような視線が気持ち悪い。
「困らせたのはあなたでしょう。それ、この方のものなんですよ。返していただけませんか?」
「へぇ。こいつの、ね……。余裕あるじゃん。てっきり自分のことで手一杯なのかと思ったよ。何せ、まだ必死らしいじゃん、おれを引き摺り下ろすのに」
「そういう人を食ったような調子、変わりませんね」
「あんたは随分変わったな。前の傲岸不遜で糞みたいな王様履き違えた態度よりは、少しはマシになったみたいだ。見た目どおりに、それなりに、それらしく」
カンダタは小さく肩をすくめた。いかにも、馬鹿馬鹿しくて付き合いきれない、といった風に。
無有とカンダタの間の因縁を、俺は把握していない。縁日から放り出される前、何があったのか。俺が無有を送り返したその日から、今まで、何があったのか。
俺は知らない。
何ていうか、おいていかれた感は物凄くあるけど。
「まぁ、おれはあんたと口喧嘩したくて来たわけじゃないんだ」
向けられた銃口に怯むこともなく、カンダタは淡々と語る。
「うん、考えてみればこうしてあんたと口喧嘩をするのもおそらくこれが最後だろうし、そう思えば名残惜しくもあるけど。おれは口喧嘩は好きじゃないし、できればあんたと口も利きたくない」
「何となくぼくに話しかけたのでは?」
「ああ、あれは嘘だよ」
舌の根も乾かない内に、嘘、といった。
「何の理由もないのに用事もないのに、あんたに話しかけたりしないよ。鬱陶しいな。そこまで自分のことが心配かな? もう一度、おれに殺されるんじゃないかってさ」
「………………………」
無有は。こいつに概念的に殺された、といっていた。無有は、ある種の現象だ。物理的には死ななくても、概念的に、社会的に死ぬことはある。
しかし、ここまで聞いていて、ふと思ったのは、そして、おそらくこんなことを無有に言うと必ず否定されて滅茶苦茶怒られるんだろうけど。
このカンダタの態度が。口調こそ違えど、この縁日で定期を盗った後しばらくの無有の態度に――似ているように感じる。
無有も言っていたが、人を食ったような。
歯に衣着せないようで、奥歯にものが挟まったような。もったいぶって、人の神経を逆なでする。
そういった、態度。
一致ではなくて、あくまで相似だけど。似ている。
どちらかが、どちらかの真似をしていた? でも、何のために?
仮に、カンダタが無有の真似をしていたのなら、辻褄が合いそうだが。奪った主の座を前の主に良く似せた態度で務める。皮肉が利いているっていうか、嫌味ったらしいっていうか。それくらいの嫌がらせはしそうだ。
でも、矛盾がある。真似にしては多分、上出来なんだけど、あのウザさはよく再現されてると思うけど、どこか物足りない。むしろ、足らなくしている、いや、剥がしている、といった方が正しいか。
要らなくなった化けの皮を、脱皮するように剥いでいる、それも自分自身で。そういった感じか。
「おおむね正解だけど、間違っている。そうは思わないか、お兄さん」
急に話を振られて、はっとした。無有とこの男の問答は続いていたらしい。……一瞬、考えていることを悟られた気がして肝が冷えた。
「聞いてなかったんですか? まあ、聞いていたにしても、答える必要もない問いかけですよ」
無有は警戒心をありありと出していた。話を聞いていなかったのは軽率だったかもしれない。
「おれは、別に市の主なんかに、興味がなかったんだけど、そいつは勘違いしてたみたいでな」
「……は?」
ちょっと待ってくれ。市の主に興味がなかった? 無有を蹴落としておいて?
「何となく、だそうですよ」
冷たく無有は言った。自分で言うのも腹が立つようだった。
「祭りの王なんてただの手段さ。目的じゃない。おれはもう、本当に駄目だったから、こうするしかなかったんだ」
カンダタの吐いた台詞に、背筋が凍る。
待ってくれ。
おかしいだろ?
それは、
「手河理該が、よく言っていた」
俺の、台詞だろう?
「彼は本当に駄目だったんだよ」
いや、本人を目の前にして、そんなことを言わなくても。結構傷つくぞ。
「昔、一度だけ彼を見かけてね。ああこういうやり方があったんだ、ってね。純粋に感動したね。憧れもした。おれは、『手河理該』になりたかったんだよ。ご覧の通り俺には中身がない。すっからかんだ。箱を空けたら猫が死んでるかどうかが問題じゃない、猫なんていない。空箱みたいなもんだ。まったくどうして俺たちは、箱の形こそ違えど、中身がないという箱の中身の内容で全く同一だった。いや? 正確に言えば、手河理該は、空箱を幾つも空箱の中に入れている、つづらみたいなもんだったが―――、おれはどこまでいっても、からっぽだった。
彼のあり方から着想を得て、何とか箱をデコりゃいいってことにまで辿り着いたが――誰をどう真似すりゃいいかってなると、それは、手河理該こそが、ビギナーには丁度よかったわけだ。
だが、うん、どうにもおれにはああいうやり方はあっていなかった」
ああいうやり方――
「俺が、面を被ってたことか?」
そう聞くと、カンダタは、ぽかんとした表情を浮かべ、一瞬、怪訝な顔をし、また、あの後ろが透けそうな笑みになり、
「手河理該にしちゃあ、そういうこと、かな」
といった。何だか気分が悪い。
「そこでこいつは言ったんだ、」
と、カンダタは無有を指し、
「『そうして何となく、自分を蹴落とすことにしたのか』と」
でもそれは違う、と付け足す。
「違う?」
と聞き返した俺を、
「さぁ、もういいでしょう。こんな頭のイタイ人に付き合う義理はありません。早く行きましょう」
無有が制し、詰襟の裾を引っ張った。行く、といっても、ここが目的地で、だんじりがここへ来るまで、何とか時間稼ぎをしなければいけない。無有に何か策があるのか? っていうか、定期は。
「おい、待てよ、コギト!」
その時。
怒号にも似た、カンダタの声が。
コギト。
コギト?
……………………。
ぴたり、と。脚が、止まってしまう。
「……りがい?」
不安そうな、無有。
その単語を聞くのは、二回目だ。
コギト。
「そう、あんたのことだよ」
足を止めた俺に向かって、後から。
「まぁ、待てよ。おれにパスケース、盗られたままでいいのか?」
それはそうだが。しかし、振り返ろうとする俺の服の裾を、無有はより強く引っ張った。
「手河さん早く」
小声で。
「無有も、そう急かすこたぁないだろう? あんたら、神輿待ちなんだろ?」
「話を聞く必要はありません」
「でも、無有、定期が」
「…………………」
無有は、何かを言いたそうにして。俺を見上げ、俺の顔を見たんだろう、お面越しに。そして、小さく嘆息した。
「分かりました」
不承不承、頷いた。
もう一度、振り返る。
「……多分、お前は誰かと勘違いしてる。俺は、手河理該だ。コギトってのが誰なのかは知らねぇが、」
「手河理該? あんたが?」
言葉を遮って、そして、俺をもう一度、カンダタは値踏みするように見る。見て、そして――、悲しそうに、笑った。
「可哀想になぁ、コギト」
「悪いが……、お前みたいなイカれた野朗に可哀想っていわれるほど、落ちぶれちゃいないけど」
「あんたまでつんつんするなよ。それともこれも、手河理該の意思か」
「……何を」
訳のわからないことを。
「りがい、話を聞く必要は」
「あるだろ。黙ってろ。それとも、コギトに知る権利はないってか。あんたにも、丁子にも、思い通りにはさせねーよ」
ぴしゃりと無有を撥ね付けたカンダタは、そうだなぁ、とどこから話そうか、と思案する。
これ以上間延びするのも癪だから、俺から訊くことにした。
「どうして俺をそう呼ぶんだ?」
「おっと、あんたから訊いてくれるのか? それなら都合がいいや。その方が話しやすい」
「御託はいい」
「手厳しいね、どうも。逆にそう名乗らないほうがおかしいからだよ」
おかしいと、彼は断言した。
「そこのクソガキや笠被った変人や恋に恋した狐面の言葉は全部、なかったことにして、他にあんたをそう呼んだ奴がいるはずだ」
「……群青面」
「あぁ。だろうな。商品ってのは実に誠実だ。作り手がそれを商品に求めたんなら、商品はそれを実直に実行する。ニンゲンよりモノのほうがこのエリアじゃあ信じられる」
「話を逸らすなよ」
「逸らしちゃいないね。あんたには、関係のあることだ。そしてそれに聞かれたはずだ。『お前は手河理該か』ってな」
「あぁ、で、ちゃんと答えてやったよ。手河理該だと。俺は、手河理該だ」
「それは、あんたの主張だ。あんたの主観だよ」
はっきりと、カンダタは言い切った。
俺を、正面から見据えて、
「あんた、一体いつから自分が手河理該だって、勘違いしてるんだ?」
哀れな羽虫を見るように。俺に、向かって――。
「何を」
訳の、わからないことを。
勘違い?
「――――何を、お前は」
これ以上は訊いてはいけない。
どうして?
自分が何かを、知ってしまう。
「言ってるんだ」
『だから、おにーさんは、どうか知らないままでいてね。なにもしらないまま。何も知らない、手河理該であることだ。このままの自分でいたいなら』
ちーちゃん、いや、丁子。
お前は、俺が何なのかを、知ってたのか?
つまり、
「あんたは、手河理該じゃない」
俺が、手河理該じゃない。って。
知ってたのか?
「手河さん、なんと言われようとあなたは手河理該です。それを、否定なんて誰にも」
無有は、酷くうろたえていて。
本当に、
本当に。
「黙れっつってんだろうが! 誰のせいだ、話をこじらせやがったのは。あんただろうが!」
カンダタが、突然激昂した。
これまでの淡々とした調子から、一変して。
まるで、火がついた油に水をかけたように。
激昂した。
「綺麗ごとで丸め込むな! そんで、あんたまだ気付かねえのかよ! 自分をよく見てみろ! 鏡なんかねーけど、自分の、こめかみでも何でも叩いて確かめろ!」
――――あぁ。
指を伸ばして、こめかみに触れた。そのまま額に、指を這わせると、割れ目を、補修したかのような跡。
割れ目。
そんなものが、ニンゲンの顔にあるかよ。
こめかみを叩くと、
こんこん、と音がした。
薄い木を叩く音に、よく、似ている。
吐き出すような、カンダタの言葉。
「手河理該は、二年前に死んでいる。事故に巻き込まれて、――線路に落ちて、撥ねられて、死んだ」
「あんたは、奴の傑作だ。
我思う、故に我あり。
題名は『
◆◆◆
急速に、何かが崩れる音がした。
それが、これまで『俺』を創り上げてきたいろんなものだったと気付くのに、そう時間はかからなかったけど。
「事故死ってのは怪しいけどな。あんなニンゲンにもカノジョがいたそうだが……案外、痴話喧嘩が原因で、まあ、野暮なことは考えるもんじゃねーか。手河理該が死んだ今、……あんたは一体何なんだろうな? 手河理該の思考の残滓か、劣化版付喪神、みたいなもんなのかな」
思いの残滓。付喪神。
つくりはおそらく、―――あの群青面と。同じか。
今にも、自分の手が、脚が。
しゅるりと、ほどけてしまうんじゃないかって。
――あぁ。
――――――ぁぁ。そっか。
「そりゃあ……、だれも、俺に面を売ってくれるはずがないわけだ」
自分の声は、思ったよりも、枯れていた。
面に面を売ったりしない。
あれが、俺の店なんじゃない。懐かしいと感じたのも、全部。
あそこが、俺の、生まれた場所だから。
ここに来たのがいつからなのかも、どうしてここにいるのかが、分からないのも。
全部全部、俺が、あぁ、自分で自分のことを言うのが嫌だ。こんなふうに、自分を自分じゃないみたいな風に言うのは。
「りがい……」
心配そうに、申し訳なさそうに、無有は、俺を見上げていた。
無有。…………。ムー。
「もういいよ、ムー」
「……何が、ですか。そんなこと……言わないでくださいよ。ぼくは、―――あなたに、そんなことを言って欲しかったんじゃないんですから」
ぎゅっと、俺の詰襟の裾を握って。今にも、泣きそうな声だった。
「ムー……、ごめんな」
お前を、騙すつもりなんて、なかったんだ。だから、だから―――、
「何言ってんだ、あんたが謝る必要はない」
そう割り込んだのは、カンダタだった。
つまらない、茶番でも見ているかのように、白けきった表情だった。怒りが透けて見える、呆れ返った白け顔。
「一体いつから自分が手河理該だって思い込んでた?」
カンダタは、俺に繰り返し問いかける。先ほどのような、責めるような調子ではなかった。
「思い込む、か」
本当に。俺は、理該じゃないんだな。
より強く自分が理該だと、そう思ったのは、自分がはっきりしたように感じたのは、さっき、あの店で目が覚めたときだったけど。ムーの、ずっと戸惑ってたのは、再開するなり俺が自分を手河理該だと、より強く思い込んでいたから? とすると、
「丁子……?」
やっぱり、何かされてたか。
納得のいく気持ちと、怒りとが、妙に混ざっているが。
しかし。
「いいや」
カンダタは、はっきりと否定した。
「違うね。もっと前だ」
もっと前?
「あんた、この二年間一体何をしていた? 手河理該が、死んで、二年の間」
「それは……」
覚えていない。分からない。ずっと眠っていたような気もするし、そうでないような気もする。
ただずっと前に、あの、掃き溜めの片隅で、『君には幸せになってほしい』、そう言われたことだけは、はっきり覚えている。
その人に、俺はここへ連れ出されただろうことも。
「わからねぇよ。だって、俺は、ムーに、定期を盗られて……」
あ。
「そう。定期を、盗られて。それから――追いかけた?」
――――ぁ。
「その直前に、」
「ぼくが、声を掛けました」
ムーが。はっきりと。
「ぼくが呼んだんですよ」
手河さん、と。
自らそういった、この小さな少年は。
多分、泣いているんだろう。
「とっくに、理該が死んでるのなんて、分かってましたから」
「……………………」
全部、わかってました、と。
「それでも、あなたを見かけて。市を彷徨っているのを、見かけて。二年ぶりに――親友に、再会した、気がして。あなたが手河理該じゃないと知りながらも、手河理該であって欲しいと、願って。
ぼくがあなたを、手河理該と、呼びました」
「そこからは、あなたもはっきりと、覚えているでしょう。……コギトさん」
ムーと出会い、同行し、別れ、そうして今に至るまでのことは、はっきりと。まだ、覚えていられる。
嗚咽が混じっていた。のっぺらぼうのお面の下で。ムーは、泣きじゃくっていて。
ただ本当に、寂しかったのか。
友達が――死んで。
「だから、コギトさん」
鼻をすすって、ムーは、顔を上げた。
「あなたを、理該にしようとしたんです」
◆◆◆
「理該が死んだことが分かったのは、一週間たってからぐらいでした。
ショックでしたよ。こんな言い方をしていたらそうでもなさそうに聞こえるかもしれませんけど、凄く、ショックで。どうしようもなくって。
ああ、ぼくを助けたから死んだんだな、って。
事故死ってことは、知っていましたが。それでも腑に落ちませんでした。ぼくは決して誰にでも好かれるものじゃなかったし、ぼくがいなくなって清々してる人も、いるでしょうから」
そこでカンダタを一瞥した。カンダタは肩を竦めてみせただけで、特に何も言わなかったが。こういうことを言われるのには慣れているようだ。
「親友、でしたね。多分、ぼくの思い過ごしでなければ。こんな訳も分からん存在と、よくもまあ、一緒に居れたもんだな、って。呆れちゃうくらいに。
だから、ぼくを助けて死ぬようなことが、あっちゃいけないんです。
何とか、彼が死んでいない理由を探したい。その一心でした。
そこで思い至ったのが、コギトさん、あなたです」
「俺……?」
小さく頷いて、ムーは続けた。
「こういう言い方しか出来ない自分が憎たらしいんですが……。原則、こちらで作ったものをあちらへ持っていくことは出来ません。理該は、それを無理やり自分に馴染ませてやっていたんです。持ち主が死ねば、必ず、こちらへ戻ってくる」
「ホラーじみてるな」
自分のことだからいまいち笑えないが。
「それからぼくは、」
少し言いにくそうに躊躇って、
「一枚の面を探すことを始めました。
お面屋をやってたのは、理該だけじゃありませんから。あっちこっち。捜し歩いて、ようやっと。
市の掃き溜めの中で、あなたを、見つけたんです。
覚えがあるでしょう、きっと。
真っ暗で、泥が溜まったような、あの場所を」
「……………………」
真っ暗な視界で小さく悲鳴を上げたのを、よく覚えている。
そうか。
そう、繋がるのか。
柄じゃない、って。そうやって捨てられたのは、
事実、だったのか。
その内容が、嘘であれ。あそこにいたのは、事実だった。
なら、どこにも辿り着けない俺に手を、差し伸べたのは、
「『きみには幸せになってほしい』」
沈みかけた俺に、手を、差し伸べたのは。
「……そう言いましたよね」
「ムー……」
ごめんなさい、と。
ムーは、小さく言った。
「あなたに向けた言葉じゃなかった」
「……………………」
その言葉に、予想が出来なかったわけじゃないけど。
多分、予定調和で。
ここに来るまで、全てが。
ムーの、思惑通り。
そう考えると。
一体俺は、何だったんだろう。
今まで、何をしていたんだ。
手河理該の身代わりで。
ただの。
物に、過ぎない。
「ヒヨコ」
口を吐いて出たのは。単語だけだった。思いのほか、頭の回転は悪くなっているらしい。掠れた声が、ノイズが混じっているみたいで、人工くさくて、余計、嫌になる。
「あれは?」
問い詰めるような口調にならなくてよかった。
いや。
何言ってんだ俺は。
この期に及んでまだ、案じるようなことを。
問い詰めたって責めたって。
何ら悪くないだろうに。
でもそこでそうなれない自分は、やっぱり。あいつの理想の身代わりでしか、ないのか。
そんな自分も、あいつと。ムーの。計算の内。
「あれも、ですよ」
申し訳なさそうに言わなくてもな、と思った。
どうせなら、「やっと気付いたか馬鹿め」とでも罵ってくれた方が、まだマシだ。
「店まで運ばせるための、お膳立てです」
「……そっか」
「丁子がいたのも」
「そっか」
「あなたがぼくを、助けることでさえ」
「……………………」
「ぼくの、予定の内、でした」
群青面が手を貸したことは、予想外でしたけど、とつけたして。
「誰も彼もが、嘘を吐いていた」
それだけだ。と、やはり吐き捨てるようにカンダタが言った。
まぁ、たしかに、丁子はムーには従わなかったんだろう。あの子は自分に正直なだけだった。純粋に、手河理該に、帰ってきて欲しかっただけ。
あんなに焦がれるように、手河理該の帰りを、待ち望んでいたから。
俺が、必要だったわけじゃない。
「射的は、理該が事故で亡くなったことを、忘れてもらうために。あなたが撃ち抜いた塊を持ってくるのは、予想外でしたけど」
と、俺のスラックスのポケットを指差した。
手を伸ばして、中身を取り出す。
真っ黒い、小箱。
セロテープでぐるぐる巻きにした、手河理該の真実。
直感を信じて持ってきたけど。
「理該が死んでいるということさえ忘れていただけたら、後は、構わなかった。ぼくとの思い出が多少なくなっても、これからは、あなたが理該になってくれるなら、って」
躊躇いすらもうなかった。ムーの語り口には。ただ、淡々と、坦々と、耽々と。
「何だよ、それ……」
俺は。俺は?
意思の塊のくせに、自分の意思で動くことを、一切許されていなかったってのか?
「言ったろ? あんたに、謝る必要はないってな」
とんだ茶番だ、とカンダタは吐き捨てた。
「こいつが主に戻ろうとしてるのは、ここのルールを書き換えるためだ。こちらのものをあちらへ持っていけない、というルールを。何も気付かせないようにして、あんたを逆向きの列車に乗せて掃き溜めへ一旦出し、おれを市から排除した後で、またここへ訪れさせる。そうして末永く仲良くしましょう、ってか。気持ち悪ぃトモダチごっこの出来上がりって寸法だ」
「気持ち悪い友達ごっこですって? そんなこと、言わないでくださいよ」
悲しそうに、言うムー。
もういい。
お前に、悲しそうに俺を語らせはしない。
哀れそうに語るな。
寂しそうに語るな。
「ぼくは、大事な友達に、幸せになってほしい、だけなんですから」
ねぇ、あなたなら、わかってくれますよね?
コギトさん?
いや、もう、理該と呼んでも、いいですか?
「そうしたら、丁子だって、幸せで」
みんな、幸せで。
「そのためだったら、カンダタ一人倒すことくらい、きっと簡単です。力を合わせれば、ほら、友情パワーってやつですよ。ぼくとあなたなら、きっと。だって、あなたは、理該なんですから。
そうして、ほんとうのさいわいを、探しにいきましょうよ」
……あぁ。
ああ。
よく、わかったよ。お前の言い分は。
お前は何にも、わかっちゃいない。
お前が何を犠牲にしたのか知らないし、お前がどれほど理該を大事に思ってるのかなんて、俺の知ったことじゃねえんだよ。
ほんとうのさいわい?
誰にとってだ。
全部、お前のためじゃねーか。
カムパネルラ気取りも大概にしてくれ。
ムー、と。俺は名前を呼んだ。
はい、と。嬉しそうにムーは返事をした。
心底、嬉しそうに。
丁子と、一緒だった。
お面越しで。俺を見ちゃいない。
だから、言うべきことは一つだった。
「俺は、理該じゃねぇよ」
あいつの意思だけど。意思の、塊でしかないけど。
「理該じゃ、ない」
きっぱりと。言えたと思う。
「だから、俺に縋るな。俺に懐くな。
俺は、お前が望んだように、なりはしない」
一歩、二歩。
ムーから距離をとる。
ムーは。凍りついたように動かなかった。
「『どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸せのためならば、僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない』、だっけ? そう言えばいいのか?」
怪訝な様子で、ムーは俺を見た。
「ジョバンニかよ」
と、カンダタは苦笑したが。
「悪いけど、俺はそんなにサービス精神旺盛じゃあねーよ」
他の人間のために。いつまでも、こんな状態を続けろだって? 冗談じゃねぇふざけんな。
ムーは凍りついたまま、じっとしていた。
信じられないことを、受け入れたくない。
そうだろ? でも、お前がいくら思ったところで。
俺自身の意思は、変わらない。
「どうやら、交渉決裂みたいだぜ? 前の主様」
小気味のいいものでも見たように、カンダタは笑い、
「まぁ、おれも黙って倒されるつもりは毛ほどもなかったんだけどな。
おれはコギトの意思を尊重する。
あんたと敵対するためじゃねーよ。現行の主として、当然のことだ。だから、おれも、あんたが望んだように、動きはしねーよ」
残念だったな、と笑い。
「あんたと口喧嘩するのも、これが最後って言ったよな? 嬉しくて嬉しくて、せいせいする。いろんな意味でな」
そして、
長い指で、俺を指した。
「次の主に、コギト、あんたを指名する」
「そのあとどうしたいのかは、あんた、もう決めてるんだろ?」
カンダタは穏やかに笑った。おそらく、俺がどうするつもりなのか、こいつには分かってるんだろう。
「ありがとな」
「おれに感謝するのも、筋違いだろ。あんたに丸投げしただけだぜ、おれは」
カンダタがパスケースを、投げて寄越した。片手で受取り、中に定期券が入っていることを確認する。
そして、中身を取り出して、真っ二つに破り捨てた。これでもう、列車には乗れない。逆向きであれ、何であれ。
「コギト、さん?」
震える声がお面の裏から漏れる。目の前で見たものが信じられないか? そんなに。
「どういう、つもりですか」
「誰も助からない、ために」
ただの紙切れとなった定期券を放り捨てると、すぐさま虫が集まって、紙くずは餌になった。
餌。
ヒヨコが見つけた餌は、俺だったんだろう。
「お前の幸せ、ねぇ。俺はお前にとって、餌も同然だったってことだ。都合のいい、消耗品だ。俺がいなくなったって、誰も悲しまない。そんなことは分かってる」
「じゃあ……あなたが理該になったって」
「嫌だ」
「ぼくはあなたのためにカンダタだって、追い出す覚悟だったのに」
「それは、俺のためじゃねえだろうが」
話を摩り替えるな。
でもって何度も言わせるな。
俺は、理該じゃない。
「あんた、言ったよな。市の主として、誰かの幸せ・不幸せを願うようじゃあ、失格だと。芥川派のおれから言わせてもらえば、『人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある。もちろん、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。ところがその人がその不幸をどうにかして切りぬけることができると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする』」
カンダタはそこまでいって、皮肉っぽく笑った。
「さぁ、おれはとっくに失格者だ。『少し誇張していえば、もう一度その人を』」
カンダタは、ブレザーにすっと手を入れ、
「『同じ不幸に陥れてみたいような気にさえなる』」
かちり、と。撃鉄を起こした。
「おれだけがおかしいみたいなことをあんた言ってたけど、こんなの、だれでも普通に思ってるぜ? ネットとか見てみろよ。リア充爆発しろとか、よく聞くし、こんなの通常運転だ」
だけどまぁ、と俺のほうを見やって。
「喜べよ。あんたのお望みどおり――誰も幸せにも不幸にもしないやつが、新しい主だ。もちろんあんたも、幸せにならない」
「理該を、ないがしろにして、あなたが、市の主ですって……?」
そんな、ことを、と呟く声が震えている。
「ぼくが認めるわけ、ないでしょう!」
乾いた音が、一つ。同時になった。
辺りが、水を打ったように一瞬、しんとなり。次の一瞬で、別れの名所は悲鳴に染まった。辺りの人々が逃げ惑う。四方八方へ、我先にと。
甘い香りの中で、火薬の匂いがした。細く細く、二つの硝煙が、涙の空へと昇っていく。
ムーのと、カンダタの。
不可視の弾丸。
つまりは。
「あぁ……痛ってぇ……」
外傷はないのに、痛い。
腹に手をあてがうと、両手が真っ赤に染まって見えた。もちろん、概念上。
カンダタは、納得したようにうなずいた。
「そこまでは、あんたの考えどおり」
と、笑って。
「これで本当にいいのか?」
「……もちろん。でも、これ、結構痛いな。ムー……お前も、そうだったろ?」
腹を押さえて、笑う俺を見て。ムーはようやっと気付いたらしい。俺の思惑に。
「まさか、……コギトさん、あなた」
震えて、銃を取り落とす。
「俺は、誰の願いも叶えない。誰も幸せにしない。やっとこれで、ノーサイドだ」
肩の荷が、下りた気がした。
理該である必要もない。
俺は、ただの、一個人として。
ここを去ることが、できる。
「ま、誰も俺を助けちゃくれねーだろうから、ここで、お前とは、お別れだ」
お前みたいに、向こうで助けてくれる人なんて、いないから。
「だから、俺を助けて死ぬ奴も、一人もいない」
だくだくと溢れ出るものは、土に切り取り線を引いているかのようで。ムーと俺との、決別の境界線。
一歩、また一歩と、ムーのほうを向いたまま、線路の方へ向かって歩く。
「理該……。理該、りがい……、」
うわ言めいた調子で、ムーは、よろめいて歩いた。自分がしたことが何か、ようやっと把握したらしい。
「ぼくは、ぼくは、きみに、しあわせになってほしかった、だけで」
よろけ、どてっと転んで、それでも立ち上がって、ぼろぼろと涙を零しながら、俺に近づく。いや、俺じゃないか、今でもなお、手河理該に、近づこうとする。
そのたびに、一歩、また一歩と。俺は等間隔で距離をとった。とめさせる気は、毛頭なかった。
「でも、それは俺の幸せじゃねーよ。誰かの代わりをしながらその誰かの幸せを噛みしめるなんて、俺の幸せじゃない。
俺はそんなこと、望んじゃいない」
だから、
「ここに残って主もしない。誰かの幸せを願ったり、不幸せを願ったりする奴は主じゃないんだろ? だったら、……カンダタはああいってるけど、俺は主の資格はない。俺は俺のことしか、眼中にねーよ。ついでに自分が幸せになろうと、不幸せになろうと、関係ねーな。意思のままに、望みのままに、一生に一回くらい、誰にも遠慮せずに、自分の意思を貫く。
俺は、お前に追放されてやるんだ」
かつてムーが、カンダタに追い出されたときのように。まあ、あの時ムーは既に主じゃなかったが。
最後くらい、自分で決める。
思うように生きられなかった意志の塊が、最後だけ意志を通すのも、皮肉な話だが。
これくらいが、丁度いいんだろう。
脚を止めた。丁度、ふちのところまで来たようだ。すぐ後ろでは、線路がすっと、墓標のように夜空に延びていた。逆に、地中へ延びる線路の孔は、どこまでも深く、底が見えそうもない。かの鉄道の炭坑の孔のように、暗闇だけが、そこにあった。
「死ぬ、つもりですか」
「いや? まさか。俺はいつ死んでもいいなんて思っちゃいない。むしろ、死にたくないくらい」
「目を覚ましたら草の丘、なんてことは、ありませんよ」
わかってるよ、と俺は笑った。こんな状況で笑えるはずもないのに、笑った。
心の、底から。
そのまま、縁から、とんっ、と。
後ろ向きのまま、脚を離す。
もう、誰にも捕らえられない。
脚が沈む、その前に。
俺の首が、別のものに、なってしまう前に。
「さよなら」
しゅるり、と。
腕がほどけていく。脚が、ほどけていく。
あらゆる意図が、ほどけていく。
◆◆◆
何をやっても駄目だった。
それは、俺だって。
いくら首を替えたって、同じことだったんだよ。
なぁ、理該。理該。
どうしてお前は死にそうな顔を、俺で隠したりしたんだよ?
俺もお前も失敗だらけだ。
それでも、あんなにお前のことを思ってくれるやつがいたんなら。
幸せだろうが不幸だろうが。
お前がそこで、息を止め続ける必要は、もうないだろう?
◇◆◇ ◇◆
霧の濃い一帯を、一隻の木製の小船が往く。墨汁を流し込んだような漆黒の水の上を往く。川幅は狭く、両岸には葦やら蒲の穂やら薄やらが好き放題に伸びている。その川を、一隻の船が下ってゆく。
船を運転しているのは男のようだった。ただし、見ようによっては女にも見えるすっきりとした整った顔立ちだった。和装の上衣に細袴。すらりと長い華奢な手足を覆う手甲や脚絆と草鞋。そしてそれらは全てが漆黒。男の肌が生白いこととあいまって、まるで水墨画から抜け出してきたかのような出で立ちだった。
男は無表情のまま、ただ一心に前だけを見ていた。少し、物憂げなようにも見えたのだが。そして、船の上でかたんっ、と小さな音がした。男以外にも船に乗客がいたらしい。死装束のような真っ白い着物をまとった少年だった。
「……勝手に乗ってくるな」
その人物に見向きもせず、淡々と櫂を動かす。
「そうつれないこと言うなよ、
「小生はいましが嫌いだ」
「はっきりいってくれるなぁ……もう」
びしょ濡れになった真っ白い着物の袂を絞りながら、少年は嘆息した。
「お互い巻き込まれてばっかりだけど、どう? 次は上手くやれそう?」
「何をだ」
「大団円に混ぜてもらえなかったからって、拗ねんなよ」
そっけない態度の薫陸に、少年はからからと笑う。
「大体にしてめでたく解決がつくのを大団円というのだろう? あれでは程遠い」
「自分は出る幕じゃなかったとでも?」
「いましにキャスティングされたつもりもないがな。どういうつもりか知らんが、……小生は良いように動きはせんぞ、手河理該」
「あぁ、あんたは気付いてたんだっけ? あれが俺じゃないことを」
「当然だ。お前が縁日をうろつくか? 二年前以降、どこへいっていたのかも知らんが」
「俺だってたまには出歩いてたよ」
神田くんには悪いことしたけどねぇ、と少年は笑った。
「あの名前で呼んだのはいましだろう」
「いや、彼、芥川が好きみたいだし、丁度いいところで切ったら、ああいう呼び方になったんだよ」
「つくづく呼び方にセンスがない」
「亡霊風情にどうも。そういってもらえて嬉しいよ」
にっこりと少年は笑った。そんな少年を、真っ黒な船頭は睥睨したが。
「さて、めでたく市の主になったいましが次はどうするつもりだ?」
「さぁて、ねぇ……」
少年は楽しそうに笑った。心底、楽しそうに。
「こんどはこれを被りなおして、俺自身が出向こうかな」
その手には、欠けた透明な面があった。
「何もかも、しっちゃかめっちゃかになるかな」
「台無しだろうな。後味も、最悪だ」
「もうすでに、俺が帰ってきて、こうしてお前と話している時点で、最悪だ。ブチ壊しだね」
「自覚した上でそれか」
「もちろん。誰も幸せにならない、そういう話でしょうよ。俺同様、中身も何にもない、空っぽなお話だ」
こいつだけ、なんか損しちゃってるけど。
こんこん、と面を叩いた。
「何のために、そいつが身を投げ打ったのか、分からないわけではなかろうに」
「わからないよ。俺には」
「それでも、いましを信じたからだろう?」
「この理想という自分を生み出したのは他でもない理該だから? 自分を放り出して? 自分に出来ないことをさせるのか? 俺に? それこそ理想って? 理想が理想を還元しようって? そんな美談はないでしょ」
投げやりそうに、とんとん、とこめかみを叩いた。
「もっとずるずるだよ」
「本当に最悪だ」
だろうねえ、と少年は笑う。
「俺に寄生させるはずが、俺が理想に寄生して、それで最後に残ったのは俺なんだから」
「まさしく、
「ははっ、そんな高尚な虫じゃないよ、俺は。もっとひどい」
「自分で言うか」
「そりゃあ、ね」
それからしばらくは、薫陸が櫂を動かし、水がそれに応える音だけが葦原に響いた。黒い着物の青年と、白い着物の少年は。同じ場所にいるのに、全く異なったほうを向いていた。
やがて、祭囃子が、微かに聞こえてきた。
「それでもさ、薫陸」
沈黙を破ったのは、少年の方だった。
「何をやっても駄目な俺を、何でこんなに必死こいて皆が支えてくれんのかって考えたら、不思議でしょうがねーんだよなぁ」
霧を吸って、吐いて。
「こいつだって、結局ああは言っても、俺を助けてる」
わけわかんねぇ、と呟いた。
「誰も助けない、なんて、できなかったんだろう」
「俺だけでも助けようって?」
「いましだけでも」
「……ふぅん」
気のないような返事を返して、少年は小船の縁に背を預けた。
「いくら問いかけても返ってこない返事に、あいつは自分で見切りをつけた。自分の意思でな。……その重さくらいは、いましも理解してやれ」
薫陸は静かに告げると。小さな桟橋に小船を括りだした。目的地に着いたらしい。降りろ、と少年に顎で示し、真っ黒な饅頭笠を被った。
「わかんねーよ、俺には」
少年は淡白に言う。
「俺にはわかんねぇ」
もう一度繰り返し、まぁ、でも、と。霧の向こうをついと眺め、
「空っぽの俺に、何も響かなかったわけじゃない」
と。消え入りそうに、呟いた。
自分の意思を手にとって、少年は耳鳴りのような祭囃子へ、一歩だけ踏み出した。
(結び)
八脚子 日由 了 @ryoh_144
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